実際 翌日ギリシャに向かうジェットヘリの中には、昨夜のことは すっかり忘れたような顔をした沙織が、彼女のいつもの席に着席していた。
どれほど彼女の聖闘士たちに怒り 機嫌を損ねたとしても、聖域を統べる者としての責任を果たすつもりでいるらしいアテナに、星矢たちは ほっと安堵の胸を撫でおろしたのである。
考えてみれば、本来 アテナは 地上の平和に対しても、人類の安寧に対しても、何の義務も責任も負っていないのだ。
彼女は 知恵と戦いを司る女神であって、人類を保護する女神でも平和を司る女神でもない。
そう考えると、星矢たちは、人類に対するアテナの寛大と慈愛に こうべを垂れずにはいられなかったのである。


「――ってのが、俺たちを油断させるための手だったんだなーっ !! 」
星矢がアテナ神殿の最奥の部屋で 悲鳴とも怒声ともつかない雄叫びを響かせたのは、ギリシャ時刻午後1時までに あと10分という時のことだった。
アテナ神殿前には、アテナの来臨を待って、彼女を敬慕する多くの善男善女が詰めかけている。
もちろん、彼等は 聖域の存在を知る者たちばかりで――兵や巫女、聖域の維持管理に従事している者たちばかりで――そこには 物見遊山の者など一人としていない。
巡礼月に聖地メッカに集うムスリムのように、ミサに参加するカソリック教徒、聖餐式に参加するプロテスタント信者、聖体礼儀に参加する正教徒のように、敬虔な気持ちで アテナの来臨を待っている者たちばかりである。
10分後には、アテナは彼等の前に姿を見せ、彼等の敬神と献身に対して神の愛を示してみせなければならない。
それが1シーズンに1度のアテナの恒例の務めだった。

だというのに、アテナの姿がアテナ神殿の中のどこにもないのである。
大人しく(?)彼女の聖闘士たちと共にギリシャ聖域にやってきたアテナは、参賀の儀 直前に姿を消してしまったのだ。
星矢が悲鳴をあげることになったのも至極当然の仕儀。
それは決して、彼が小胆だったからでも 狂気に陥ったからでもなかった。

「どうするの。アテナが姿を見せないと、みんな不安がるよ」
瞬が、どんな強敵を前にした時にも見せたことのない不安顔を仲間たちに向ける。
氷河は、(アテナのやりように)呆れ顔、紫龍は(この事態に)思案顔。
結局、アテナを見失ったアテナの聖闘士たちのこれからの行動を決定したのは、その場で最もアテナの不在に慌てはしたが(なにしろ原因は彼のホワイトアスパラガス嫌いである)、アテナの聖闘士の中で最も決断の早い(『深く物事を考えない』ともいう)天馬座の聖闘士だった。
「仕方ない。瞬、おまえ、沙織さんの代わりをしろ。顔と胸はヴェールでもかぶって隠せばいい。バルコニーに出て 手をひらひらさせるだけなら、威厳がなくてもできるだろ」
「そんな……」
「背格好も似たようなもんだし、おまえの小宇宙、慈愛満載で沙織さんの小宇宙に似てるから ごまかしやすいしな。俺や氷河の小宇宙じゃ ばればれだけど、おまえなら何とかなる!」

星矢は気楽に そう言うが、それはむしろ“何とかなって”しまってはいけないことなのではないかと、瞬は思ったのである。
アテナの聖闘士がアテナを騙るなど不敬涜神の極み、サガの教皇位簒奪など足元にも及ばない悪逆非道。
アテナの聖闘士がアテナを信じる者たちを騙すなど、これ以上はないほどの恐ろしい罪である。
瞬は、そんなことはしたくなかった。
だが、そうする以外に どうすれば この窮地から逃れることができるのか――。
瞬には その術が思いつかなかった。
星矢に少し遅れて覚悟を決めたらしい紫龍と氷河が、迷い尻込みしている瞬に決意を促してくる。

「迷っている時間はないぞ、瞬。聖域の聖闘士がほぼ絶滅状態なのは、この際 幸運だったかもしれん。今 聖域にいるのは、小宇宙を感じ取ることはできても、その区別はつかない者たちがほとんどだ」
「そもそも おまえにアテナの代わりをしろと言ったのは沙織さんだ。これはアテナの命令なんだ。俺たちは アテナの命令に従うだけのこと、悪事を犯すわけでもアテナに反逆するわけでもない」
「紫龍や氷河までそんな……。そんなことしたら――それって、みんなを騙すことになるじゃない。だいいち、僕の小宇宙はアテナの小宇宙ほど強大じゃない。無理だよ!」
「本気になれば、おまえ、結構いいとこまで いけるだろ。これは おまえの一生に一度あるかないかの大ピンチなんだ、本気になれ」
「そんなこと言ったって……。ピンチなのが僕自身だと、僕、本気になれないんだよ。星矢たちが死にかけてるとか、人類が滅亡の危機に陥ってるとかじゃないと」
「おまえの本気って、アテナ並みに扱いにくいよな。俺たちに死にかけろってのか?」
「ある意味、死にかけているようなものだぞ、今の俺たちは。考えようによっては、アテナの姿を聖域から消し去ったのは俺たちだ」
「星矢のホワイトアスパラガス嫌いのせいでな」

氷河の その一言は余計だった――事実であるだけに、余計だった。
これが絶体絶命の大ピンチであることは、瞬にもわかっていたのである。
しかし、この大ピンチを招いた原因がそれ・・だと知っているせいで、瞬は今ひとつ本気になることができずにいたのだ。
それでなくても、“本気”という状態は、なりたいと思ってなれるものではない。
人は、自分の意思で本気にはなれない。
人にできるのは せいぜい、『本気になろう』と思うことだけなのである。

「コスモの迫力不足は平時だから手を抜いてるってことで、みんなに納得してもらおうぜ。人様を騙したくないっていう おまえの気持ちはわかるけどさ、まさか 俺たちのせいでアテナが家出したなんて、ほんとのこと言うわけにはいかねーだろ。俺たちのせいで聖域がパニックになったらどーすんだよ」
どうするも こうするも、それは絶対に起きてはならないことだった。
地上を守護し、地上の平和のために戦う聖闘士たちを統率するアテナの お膝元がパニック状態になることは、地上の平和という扇子の要が壊れるようなもの。
それは地上支配を目論む邪神に隙を見せることに他ならないのだ。
瞬は、覚悟を決めるしかなかった。


――そういう経緯で。
本気ではないが、決死の覚悟で瞬が臨んだ茶番劇。
悲劇なのか喜劇なのか わからない偽アテナの公開模範演技は、瞬の不安をよそに、呆れるほどあっさり、気が抜けるほど無事に、大成功を収めてしまったのである。
偽アテナの顔と胸を隠すために用いた純白のヴェールは、かえってアテナの神秘性を演出するのに功を奏したらしく、これまでとは違う趣向の(偽)アテナ登場に、参賀の者たちは聖域中に響き渡るような大歓声をあげた。
アテナ神殿の前に集まった者たちは、
「なんと温かく慈愛に満ちた小宇宙だ」
「アテナがいらっしゃる限り、地上は安泰」
「アテナのため。地上の平和のために、我等も これまで以上に努めなくては」
等々、それぞれの立場で それぞれに感動する者たちばかり。
アテナがアテナでないことを疑う者など、ただの一人もいなかったのである。

本当にこれでいいのかという疑念と迷いは残ったが、ともかく絶体絶命の大ピンチは なんとか乗り切ることができた。
だが、いつまでも瞬がアテナの振りを続けているわけにはいかない。
地上の平和を脅かす者が現われた時、瞬はアンドロメダ座の聖闘士として戦わなければならず、戦場での一人二役はどう考えても無理な話。
聖域への敵の侵入を阻止しているアテナの結界とて、アテナ不在で いつまでもつかどうかわからない。

1シーズンに1度の参賀の儀を 何とか乗り切ったアテナの聖闘士たちは、その日から (本物の)アテナ捜索に取りかかった。
瞬はアテナの振りをしてアテナ神殿の奥の部屋に閉じこもり、星矢たちは本物のアテナの姿を求め、聖域の内外を駆けずりまわることになったのである。
ちょうど このタイミングで聖域に入った、アテナの姿を知らない新入りの巫女見習いがいたことは彼等にとって不幸中の幸いだった。
アテナの聖闘士たちは、その巫女見習いを『小宇宙を燃やすことのできない一般人が直接アテナの姿を見ることは太陽を直接見るようなものなんだ』とか何とか言いくるめて ペルシャの巫女のようにヴェールをかぶせ、彼女に、食事の運搬等、部屋に閉じこもっている偽アテナと外をつなぐ連絡係を任せることができたのである。

そんなふうにして、極力 偽アテナに接する者のない環境を作りあげ、瞬以外のアテナの聖闘士たちは必死になってアテナを探した。
だが、星矢たちの必死の捜索にもかかわらず、アテナはなかなか見付からなかった。
氷河に至っては、パルナッソスのスキー場にまで足を運んだのだが、そこに沙織らしき少女が現われた痕跡はなく、アテナの行方は ようとして知れなかった。

アテナが自ら その姿を現わそうとしない限り、アテナの聖闘士たちは彼等の女神に会うことはできないのではないか――何をしても、すべては徒労に終わるのではないか――。
そんな不安に囚われながら、それでもアテナの聖闘士たちが不屈の闘志(?)でアテナの捜索活動を続けることができたのは、瞬が偽アテナだということに気付く者が一人として現われなかったからだった。
敵の襲撃があって アンドロメダ座の聖闘士が戦場に出なければならない事態が生じさえしなければ、聖域に真のアテナがいないことに気付く者は現れないのではないか。
心を鬼にして処断しなければならないような大罪を犯す者や聖域の規律を乱す不届き者が現われない限り、アンドロメダ座の聖闘士がアテナでいても何の問題もないのではないか――。
星矢たちは、半ば本気で そう思うようになっていたのである。

事件が起きたのは、瞬の偽アテナ作戦が始まってから1週間が経った深夜のことだった。






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