俺が恋のせいで死にかけていた時――瞬が俺の前から姿を消して2週間が空しく過ぎた頃、一人の髪の長い少女が 俺の前に姿を現わした。
家の中にいるとマーマに心配をかけるだけなので、俺は その頃には 一日のほとんどを外に出て過ごすようになっていた。
その日も、このまま瞬に会えないでいるくらいなら いっそ死んでしまいたいくらいの気持ちで、俺は氷点下10度近い公園のベンチで 無為な時間を過ごしていたんだ。
彼女が普通の人間でないことは、すぐにわかった。
死に直結する冬のシベリアの寒さの恐ろしさも知らぬげに、そして瞬と同じように、彼女はコートも着ていなかったし、何より、彼女の姿はホログラムの再生映像のように透けていたから。

「氷河」
そんな不思議なものだから、俺は、初対面の彼女に 突然 名を呼ばれても、さほど不思議には思わなかった。
俺には もう、物事に驚く力さえ残っていなかったんだ。
なぜ俺の名を知っているんだと問うことも、俺はしなかった。
そんな俺に、彼女は、俺しか知らないはずの俺の恋人の名を口にした。
「瞬が、壊れそうなの。あなたに接してしまったことが、よくない方に作用してしまったみたいで」
「瞬! 瞬を知っているのか !? 瞬は今どこにいるんだ!」
俺は、俺の力のすべてを失ってしまっていたわけではなかったらしい。
恋を失いかけた男の悲劇に酔って、そんな気になっていただけで。
瞬の名を出された途端、俺は自分でも驚くほどの大声を、他に誰もいない公園に響かせていた。
「遠いところ」
幻影のように透き通っている その姿同様、あやふやで漠然とした答えが彼女から返ってくる。
それでも、彼女は、今の俺にとって、たった一つの希望の光だった。
彼女は、瞬のいる“遠いところ”を知っているんだ。

「こんな怪しげな姿でごめんなさいね。今のあなたに直接 接することができるのは瞬だけなの。神である私でも、それは無理。私は、時間や次元を支配しているわけではないから。クロノスと直接契約したわけではないから――。私の可愛い聖闘士が泣いているの。私は、これ以上 瞬の涙を見ていられない。だから、時空の法則を あえて曲げて、私は この異なる世界にやってきたのよ」
「異なる世界? 神――だと?」
この少女は何者だ。
SFファンが高じて できあがった偏執狂か。
それとも、宗教オタクが行き着くところまで行き着くと こうなるのか。
神を名乗るなんて、涜神の極みだ。

「ああ、私はあなたが信じているような新興宗教の神とは違って、もっと大地に根差した――土着の信仰の神なのよ。知恵と戦いの女神アテナ。ご存じかしら」
俺は、彼女が正気かどうかを確かめようとしただけで、神である彼女の名を訊いたわけではなかった。
だが、彼女は、ご丁寧にも自己紹介をしてくれた。
とんでもない自己紹介を。
やはり気が狂っているのか、この女は。
アテナだと?
ギリシャ神話の?
まあ、もし本当に彼女がアテナなら、たかだか2000年前に興ったキリスト教など、新興宗教にすぎないだろうが。
ああ、だが、彼女が狂人でも構わない。
彼女が、俺に瞬の居どころを教えてくれるのなら。
それどころか、俺は 瞬が狂人でも構わなかった。
どうせ、今の俺が狂人みたいなものなんだから。

「瞬……瞬は、今どこに――瞬は俺を――瞬はなぜ――」
「あなたは瞬と恋人同士だったの」
女神アテナを標榜する少女は、瞬への恋のせいで俺が半分狂いかけていることを見抜いていたのかもしれない。
焦り、気負い、まともな文章を構築できない状態の俺の声の羅列を、彼女は見事に衝撃的な言葉で 実にあっさりと封じてみせた。
そして、半狂人の俺の話など聞く価値もないと言わんばかりに きっぱりした口調で、彼女が話したいことを話し始めたんだ。

「あなたは本当は、8歳の時にお母様を失っているのよ。お母様を失ったあなたは、日本に来て、瞬に会い、私の――アテナの聖闘士というものになり、打ち続く戦いの日々を 瞬と支え合うことで 耐えていた。あなたは、亡くなった お母様をとても愛していて――10年経っても愛していて、瞬が側にいても お母様は特別、お母様を忘れることはできない。瞬は いつも、自分ではあなたを幸福にすることができないと、自分の無力を悲しんでいたわ」
『僕と一緒にいても、氷河は悲しそうなんです。僕は、氷河を幸せにしてあげることができなくて――幸せにしてあげたいのに、氷河はマーマがいないと本当に幸福になることはできないの……』
瞬は彼女に そう嘆き、時の神クロノスに(何だ、それは)に頼んで、過去を変えてしまったのだ――と、アテナを名乗る その少女は言った。
透き通ったホログラムのような姿で、完全に正気の人間の目をして。

「クロノスの力によって過去に飛んだ瞬は、あなたのお母様が死ぬはずだった時、その命を救い、そして、あなたの人生を変えたの。あなたは日本に来ることはなく、瞬と会うこともなく、私の聖闘士にもならず、瞬の恋人でもなくなった。クロノスは 瞬の望みの代償として――罰として、本来の世界での記憶を瞬から消し去ることをせず、その記憶を瞬の中に残したの。瞬以外の あなたの仲間たちは、そもそも あなたに会わなかったのだから、あなたの存在を忘れて――いいえ、知らずにいるのだけれど、瞬は今、二通りの時間の記憶を持ったまま、あなたのいない世界で生きているわ」
「……」
何を、この狂人は言っているんだ?
過去を変えた?
俺のマーマが死んでいる?
信じられるか、そんなことが。
俺はまだ完全には狂っていないんだ。

よりにもよってマーマを殺されて(?)、俺は彼女に憤った。
もちろん、その世迷言を信じる気にもならなかった。
だが――。
だが、彼女の言うことが事実なら、少なくとも瞬に関する謎にだけは説明がつくと、俺は思ったんだ。
9歳の俺が会った瞬、13歳の俺が会った瞬、今の――18の俺が会った瞬の姿が、時間を超越しているように変化がなかった訳。
人と寝た経験などなさそうな無垢な身体の持ち主にしては 奇異にすぎる、瞬の大胆な振舞い、その仕草。
彼女の言葉が事実なら、俺の嫉妬の相手は、瞬の恋人だった俺自身ということになる。
あの行為を瞬に教えたのは俺自身ということになる。
瞬は俺を愛してくれていて、そのせいで、あんな不可解な存在になったのだということになるんだ。

「瞬は、あなたが幸せなら 自分も幸せだと言っているわ。一人でも平気だと、悲しそうに、寂しそうに、瞬は私に そう言うの。でも、そうじゃないから、瞬は壊れかけている」
アテナの話は、まだ完全に狂っていない人間には 到底信じられないものだった。
確かに、瞬の謎めいた振舞いには それで説明がつく。
瞬が俺に会いにきてくれた訳。
瞬が歳をとらない訳。
初めて会った時には“綺麗な お姉さん”だった瞬が、今では“可愛い瞬”に見える訳。
そして、『氷河にまた、その名で呼んでもらえるなんて――』という言葉の意味。
9歳の俺、13歳の俺、今の俺――クロノスとやらの力で、瞬は同じ時間から過去の俺に会いにきていたんだ。
おそらく、俺が幸福でいることを確かめるために。
だが、そんなことが本当にあり得るんだろうか。

「俺の今の幸せが、瞬の不幸の上に成り立っているというのか」
俺は、かすれた声でアテナを名乗る少女に尋ねた。
アテナが横に首を振る。
「いいえ、違うわ。瞬は幸せなのよ。あなたが幸せなんですもの。あなたの幸せは、瞬の不幸ではなく、瞬の孤独の上に成り立っているの」
この世界は、クロノスとやらの差配によって、10年前から分岐してできた、本来との世界とは違ってしまった世界。
瞬の夢が作った異なる世界。
本来の時間が流れている世界では、俺のマーマは死んでいる。
それが俺の現実。
それが、本当の、本来の、俺の人生だというのか。

瞬に関する事柄に限るなら、この狂女の言うことは、俺には嬉しく喜ばしいばかりのことだった。
瞬は俺を愛している。
俺の幸福のために、自らを孤独に追い込むほど、瞬は俺を愛している。
そして、瞬が恋した相手も、瞬を抱きしめた男も、俺だけだったと、彼女は言ってくれているんだ。
しかし、それ以外のことは――マーマの死は、俺には受け入れ難いものだった。

「瞬は、あなたに接するためだけになら時を超越することができて――私は、その力も、クロノスが瞬に与えた罰だと思っているのだけれど――あなたの不在に耐えられなくなると、あなたの幸福を確かめに来て、自分を慰めて、再び本来の世界での戦いの中に戻っていくの。あなたに会いに来ている時、瞬の世界は時間が止まっているようなもので、過去に――あなたが生きている時間になら、瞬はどこにでも いつにでも行ける。あなたが気付いていないだけで、瞬はもう何度も何十回も あなたに会うために、過去のあなたの許に飛んでいるのよ。そうして、あなたが幸福でいることに力を得て、瞬は瞬の今を生きている――生きてきた。これまでは それで何とか自分を保てていたのだけど、過去のあなたではなく今のあなたに会ってしまったことで、瞬は――」

今の俺に会ってしまったせいで、瞬は壊れかけているというのか。
俺が――この異なる世界でも俺が瞬を恋してしまったせいで、あまつさえ、肉体の交わりまで持ってしまったせいで、瞬は俺のために耐えていた孤独に耐えられなくなってしまったというのか?
俺のせいで、瞬が苦しんでいる?
「俺は――俺は、瞬を苦しませたくない。悲しませたくない。寂しい思いもさせたくない。俺は瞬に笑っていてほしい。一度でいいから、本当の瞬の笑顔を見てみたい」
そうだ。
俺は、瞬が心から笑っているところを見たことがない。
瞬が俺に見せてくれるのは、寂しげで切なげな微笑ばかりだった。
春のように温かなのに、花が咲き乱れる春の野原に たった一人で立ち尽くしている人間のそれのような微笑だけ。

俺が、瞬をそんなふうにしてしまったというのか?
孤独な春の世界の住人に?
俺は、瞬の孤独など望んだことは一度もない。
俺の側で笑っていてほしいと、少なくとも今の俺は それだけを望んでいる。
そう、俺は思った。
そんな俺の考えを見透かしたように、女神アテナを名乗る狂人が、俺に残酷な選択を迫ってくる。
「あなたの その願いを叶えることはできるわ。あなたが元の人生に戻ればいいの。瞬とクロノスの契約をなかったことにするのよ。けれど、そうすれば、あなたはあなたのお母様を失う。あなたは、瞬とお母様のどちらかしか手に入れることはできない。どちらかを選ばなければならない」
「そんなことができるか!」
「そうね……。では、今のままでいらっしゃい。それが瞬の望み、瞬の幸福でもあるのだし――」

アテナを名乗る狂人が、いやにあっさりと引き下がる。
この狂人は 残酷な二者択一を本気で俺に迫っているのではないのかもしれなかった。
もしかしたら彼女は、瞬がもう“今の俺”に会いにくることはないと、それを知らせにきただけだったのかもしれない。
彼女の言葉が真実なら、俺は――俺も 彼女の聖闘士というものだったらしいし、彼女は空しく瞬を待ち続けている今の俺の将来を案じて、わざわざ俺の前に姿を現わしてくれたのかもしれない。
俺が、マーマを諦められないことを見越して。

多分、俺の推察は正鵠を射たものだったんだろう。
「瞬が壊れそうだというのは――」
未練がましく呟いた俺に、
「いいえ。大丈夫でしょう。瞬は強い子だし」
と答えたところを見ると。
「ただ、瞬の強さは いつも仲間の支えがあったから保たれていたものだったの。けれど、今回ばかりは、瞬の仲間たちは本当の意味で瞬を慰め励ますことはできない。彼等は あなたに会っていない。あなたは日本に来ていない、聖闘士になっていない。瞬の仲間たちは、瞬が恋人を失ったことを知らないから。だから、私は心配で……でも、そうね。あなたが幸せでいる限り、瞬は後悔はしないでしょうし、壊れることもないでしょう。だから――瞬のためにも、幸せでいらっしゃい、氷河」

俺の答えを手に入れようともせずに、もともと透き通った幻影のようにしか見えていなかった彼女の姿が揺れ、薄らいでいく。
数秒後には、瞬のそれに酷似した寂しげな微笑を残して、彼女は俺の前から消えてしまっていた。






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