瞬のことも、女神アテナを名乗る少女に会ったことも、すべては夢の世界の出来事なのではないかという気に、俺はなっていた。
それは あまりに不思議なことで、あり得ないことで――俺は雲の上を歩いているような気分で、家に戻ったんだ。
若くして夫を失い、女手ひとつで俺をここまで育ててくれたマーマを死なせるようなことはできない。たとえそれが あるべき運命であっても。
そう思いながら。
俺は瞬を諦めるしかないのだと――瞬を諦め、それでも瞬を求めながら、満たされない気持ちを抱えて一生を過ごすしかないのだと、それが俺の幸福のために苦しんでいる瞬に俺ができる唯一の償いなのだと、自分に言い聞かせながら。
もう瞬に会うことはできない。
その覚悟を決めさえすれば、もう一度 瞬に会いたいという願いを諦めさえすれば、俺は少なくとも空しく瞬の訪れを待ち続けるだけの日々とは縁を切ることができる。
俺は、懸命に そう自分を説得し、励ました。

そうして家に戻った俺を出迎えてくれたのは、俺と同じように夢の世界から たった今 現実の世界に戻ってきたような目をしたマーマだった。
俺の姿を見ると、マーマは、『お帰りなさい』も言わず、『どこに行っていたの?』と尋ねることもせず、
「人魚姫を見たわ」
と、俺に呟いてきたんだ。
「人魚姫?」
SFとギリシャ神話の次は おとぎ話。
いったい今日はどういう日なんだと、俺は ほとんど自棄気味に思った。
「ええ、さっき、通りの向こうに。服を着ていたし、足もあるようだったけど、消えてしまった……」
「マーマも夢を見ていたのか?」
「私も? 氷河も夢を見ていたの? 白雪姫の? そともシンデレラ姫の? もしかして、ここのところ氷河が何をするにも うわの空だったのは――」

言いかけた言葉を、彼女は途中で途切らせた。
多分、俺の恋が順風満帆の幸福な恋でないことを察したから。
途中でやめた言葉の代わりに、彼女は俺の冷えた心を温めるために、保温ポットサモワールからカップに お茶を注ぎ、彼女の人魚姫の話を語ってくれたんだ。
「昔、私は船の事故で死にかけたことがあるのよ。氷河が8歳くらいの頃かしら。海に投げ出されて……そんな私を誰かが救ってくれた。その人は冷たい海の中で、死にかけた私の身体を抱きかかえて、岸に運んでくれたの。氷も浮かんでいるような真冬の海よ。でも、その人の側にいると温かいの。とても温かくて――その人は『氷河のために死なないで』『氷河を幸せにしてあげて』と何度も私に言って、励ましてくれて――まるで、王子様を助けた人魚姫みたいでしょう?」
「それは……」
「いいえ、そんなはずないわ。あれから10年が経っている。あの子は歳をとっていなかった。小さな可愛い人魚姫のままだった――」
「マーマ……」

アテナが言っていたことは事実だったんだと、その時 俺は確信したんだ。
マーマを救った人魚姫は瞬だ。
俺の幸福のために自分の孤独を覚悟した瞬。
俺は すべてを理解した――いや、得心した。
そのせいで混乱し 目の前のお茶のカップに一向に手をのばそうとしない俺を励ますように、マーマが俺を見詰め、言う。
「今は苦しくても、きっと何もかも すべてがうまくいくようになるわ。それでも、どうしても駄目だった時にはマーマにおっしゃい。マーマが氷河を抱きしめてあげる。氷河は いつもいつでも一人ではないのよ」
マーマの姿がぼやけて見える。
それは涙のせいか。
それとも、彼女が本来はここにいるはずのない人だからなのか。
アテナの言っていたことは事実なのだろう。
俺の幸福は瞬の孤独の上に成り立っている――。






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