Magic Travel






喧嘩の原因は詰まらないことだった。
そして、それは、氷河が瞬を、瞬が氷河を、それぞれに思い遣ったことから始まったのである。

年末年始には なぜか海外に出たがる日本人たちの出国帰国ラッシュが一段落した1月のある日、グラード財団総帥にして聖域の女神アテナでもある沙織が、突然、
「私たちも普通の日本人らしいことをしてみましょう」
と言い出したのが事の発端だった。
この年末年始は比較的平和で、城戸邸の青銅聖闘士たちは、大掃除の手伝いもしたし、年越し蕎麦も食べた。
除夜の鐘を聞き、新年には雑煮とお節料理を食し、初詣でにも行った。
これ以上ないくらい“正しい日本人の年末年始の過ごし方”を実践したつもりだった青銅聖闘士たちは、他に何か やり洩らしたことがあっただろうかと、沙織の言葉を訝ったのである。
そんな青銅聖闘士たちに、沙織は、実に雄々しく、自信満々で断言した。
「ちゃんとした 日本人なら、お正月には海外旅行に行かなくてはならないわ!」
と、まるで訳のわからないことを。

ひと月に1度はギリシャに出向き、年に5、6回は 、不穏な空気が感じられる世界各地に調査に派遣されていた青銅聖闘士たちは、今更 海外旅行も何もあったものではないだろうと、当然のごとくに 沙織に意見した。
おそらく、それがいけなかったのだろう。
世界の平和と安寧を守るために世界各地を渡り歩いている青銅聖闘士たちのために提案した慰安旅行計画を拒絶されて機嫌を損ねた沙織は、彼女の慰安旅行計画を 提案から命令に変更したのだ。
そして、城戸邸に起居する青銅聖闘士たちに それぞれ旅行プランを提出するよう命じた。
提出された旅行プランの中の一つ、もしくは複数を採用し、何が何でもアテナの聖闘士の慰安旅行を実行すると、彼女は宣言したのである。
どれほど馬鹿らしいと思っても、女神アテナの命令は絶対。
青銅聖闘士たちは仕方なく、それぞれ旅行プランを練り始めたのである。

瞬が考えた旅行プランは、シベリアへのオーロラ観測旅行だった。
そして、氷河が考えたプランは、地中海のカノン島への温泉旅行。
瞬はもちろん、氷河が母と暮らした場所に氷河を里帰りさせたいという思いから、氷河は、瞬の兄にゆかりのある地を見てみたいと瞬は思っているに違いないと考えて、それぞれのプランを練った。
要するに、そのプランは、瞬が氷河を、氷河が瞬を思い遣ったからこそ、思いついたプランだったのである。
二人は、当然 相手の気持ちがわかっていた。

「冬場にシベリアに行っても寒いだけだろう。暖かい場所へ行こう」
氷河が瞬にそう言ったのも、瞬への思い遣りから。
「氷河の気持ちは嬉しいけど、氷河は暑いの苦手でしょ。無理しないで」
瞬が氷河にそう答えたのも、氷河への思い遣りから。
「おまえこそ、冬のシベリアを甘く見ない方がいい。へたをすると、気楽な慰安旅行が死出の旅になるぞ」
氷河が瞬にそう忠告したのも、もちろん瞬への思い遣り。
「アスガルドでハーゲンと戦った時には、マグマの熱さがハンデになって、氷河、大変だったんでしょう? 火山島なんて縁起が悪いよ」
瞬が氷河にそう反論したのも、もちろん氷河への思い遣り。
思い遣りの気持ちから出たはずの それらの言葉がなぜ、
「おまえは、どうして そんな不愉快なことを思い出させるんだ!」
「氷河こそ、普段は僕が兄さんの話をするだけで拗ねるくせに、何の気まぐれでカノン島ツアーなんて思いついたの!」
という方向に発展してしまうのか。
それは、当の氷河と瞬にも よくわかっていなかったに違いない。
ちょっとした ものの弾みで、喧嘩を売るつもりも買うつもりもなかったのに、二人は売り言葉に買い言葉状態になってしまったのだ。

氷河は瞬のために、瞬は氷河のために練ったプラン。
それぞれのプランの目的地が 自分の行きたいところだったなら、二人は さほど我を張ることもなかったのかもしれない。
だが、そうではなかったから、氷河も瞬も自分の意見を譲らなかった――譲るわけにはいかなかったのである。
瞬は、戦いや平和、人の生死に関わること以外で、他人の意見に逆らうことは皆無といってよく、氷河もまた、瞬の願いは何でも叶えてやりたいと考える男だったので、それまでは 二人の間に喧嘩が成立することは滅多になかった。
二人の間に いさかいが生じることは、本当に珍しいことで――珍しいことであるがゆえに、二人は そういった際の対処に不慣れだった。

「もう、いい! 沙織さんは、みんなで一緒に同じ場所に行けとは言ってなかったんだし、だから、僕たち、別々に 自分の行きたいところに行けばいいだけのことだよ。氷河はカノン島、僕はシベリア。それで問題ないでしょう」
張り始めた意地を曲げるタイミングを見付けられず、人と対立しているという居心地の悪い状況から逃げたい一心で、瞬が 一方的に会話の腰を折って席を立ち、ラウンジから出ていこうとする。
「おい、瞬。勝手に話を終わらせるな」
氷河は、慌てて瞬の手を取り、引き止めた。
そして、いつになく頑なな瞬の説得に取りかかる。

「瞬。冷静になれ。沙織さんが俺たちにさせたがっているのは慰安旅行だ。命の危険がないとも限らないのに、真冬のシベリアに行くなんて、そもそも慰安にならないだろう。俺を思ってくれる おまえの気持ちは嬉しいが、常識で考えてみろ」
「ぼ……僕は 別に氷河のことを思ってシベリアに行こうなんて言い出したんじゃないんだからねっ! 僕は、ただ単に僕自身が寒いところに行きたかったから、シベリア旅行を思いついたの!」
「ツンデレなんて、おまえのイメージじゃないから やめておけ。そんなに寒いところに行きたいのなら、たった今、俺が ここを凍りつかせてやる」
「ツンドラがイメージだとかイメージじゃないとか、そんなことは関係ないでしょう。そんなこと言ってたら、ガイジンさんは京都旅行なんて行けないよ!」
「あ? いや、俺が言ったのはツンドラじゃなくツンデレで――」
瞬は、どうやら“ツンデレ”なる言葉を知らないらしい。
さもありなんと、氷河が苦笑した時だった。
二人の周囲の気温が突然、どう考えても20度ほど急降下したのは。

(なにっ !? )
氷河はまだ、“ここを凍りつかせてやる”ために、いかなることもしていなかった。
そして、二人は暖房のきいた城戸邸のラウンジにいた――そのはずだった。つい2、3秒前までは。
だというのに、二人は今は見知らぬ場所に立っていた。
まさに 木のない平原ツンドラといっていいような場所に。
否、彼等が立っているのは木のない平原ツンドラではなく、海辺だった。
二人が立っている場所から10メートル先にあるのは、紛う方なく海。
海の姿が見えるだけでなく、波の音も聞こえる。
気温は、おそらく摂氏0度前後。
だが、冷たく強い風が吹いているせいで、体感温度は実際の気温より7、8度は低い。
二人の上に、いったいどんな力が働いたのか――。
暖かい城戸邸のラウンジで喧嘩をしていたはずの氷河と瞬は、今は どういうわけか、いずことも知れぬ 寒風吹きすさぶ真冬の浜辺に立っていた。

「寒い……」
「ここはどこだ……」
いかにも冬のそれらしい、灰色の海。
海の上の空も同じような色をしている。
重く厚みのある灰色の雲に陽光が遮られているせいで 周囲は薄暗かったが、決して夜ではない。
明るさがないために はっきりと確かめることはできなかったが、遠くにビルの群れらしきものが霞むように見えている。
近隣に人家らしきものは見当たらなかったが、ここは決して 人間が日々を生きるのに命の危険を覚えるような極寒の地ではない――シベリアではない。
しいていうなら、夏場には海水浴客で賑わうが、冬には すべての人間が引き払う、都会から少々離れた海水浴場。
あるいは、寂びれて住む人のいなくなった漁村の跡。
冬という季節を迎えて、人々は皆、遠くに見える都会に行ってしまった――。
そこは、そんな風情をたたえた寂しい場所だった。






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