「ここは、いったいどこなの」
その問い掛けに答えてくれる人の姿を求めて、瞬は辺りを見回したのである。
何もない浜辺には、だが、二人の他に人の姿はない。
灰色の海。
その海岸線に沿って幅20メートルほどの砂浜が続いている。
砂浜は かなり高さのある土手に囲まれていて、その土手に視界を遮られ、浜辺からは 陸側の光景を臨めないようになっていた。
あの土手の上まで行けば、何か別の風景を見ることができるのではないかと思い、実際 瞬はそうしようとしたのである。
瞬がそうするのをやめたのは、砂と風以外には何もないと思っていた浜辺に、建物が一つだけあることに気付いたからだった。

それは、打ち捨てられた物置小屋としか言いようのない建物だった。
海風は正面から受けとめることになるが、浜辺をぐるりと囲んでいる土手によって かろうじて陸風からは守られているせいで、なんとか吹き飛ばされずに そこにあるような粗末な建物。
今は人のいない海の家というふうではなく、むしろ、漁に使う道具を放り込んでおくための小屋というような佇まい。
壁も屋根も 薄い木の板を打ちつけただけのもので、夏場なら、それは、風通しのいい日陰を提供してくれる有難い存在だったかもしれない。
真冬の今は、沖から吹きつける冷たい風に 今にも飛ばされてしまうのではないかという不安のみを提供してくれる危険な建造物でしかなかったが。

瞬がその小屋の中を覗いてみようと思ったのは、中に人がいることを期待したからではなく、人工のものが何ひとつない その浜辺で、その小屋だけが人の手によって造られたものだという事実に 気を引かれたからだったろう。
「ここがどこか、わかるようなものがあるかな……」
そう呟きながら、海風を受けて がたがた震えている小屋の戸に、瞬は手をかけようとしたのである。
その時だった。
「誰だっ。その家に勝手に入るなっ!」
という子供の声が、ふいに 瞬の頭上から響いてきたのは。

「家?」
瞬は、突然 響いてきた その声より、その声が この粗末な小屋を“家”と呼んだことの方に驚いてしまったのである。
その建物は とても家と呼べるような代物ではなかった。
この小屋を“家”にしている人間がいるのなら、それはホームレスと ほぼ同義の存在なのではないかと、瞬は思ったのである。
瞬が、声が響いてきた方に視線を巡らせる。
“家”の背面を陸風から守っている土手の上に、一人の子供が立っていた。
中身は ただの水のようだったが、元はコーラが入っていたらしいペットボトルを抱えている。
瞬が瞬きをする間に、その子供は、高さが3メートルほどある土手から砂浜に飛びおり、瞬と小屋の木戸の前に立ちはだかった。

「瞬に何かしてみろ、ただじゃおかないからなっ!」
険しい声で そう怒鳴る子供の髪は金色。
彼が口にした、聞き慣れた人名。
何か奇妙なことが起こっている――と、瞬は感じた。
「どこかで見たことがあるようなガキだな」
瞬のすぐ後ろで、のんきな声でそんなことを言う氷河の緊迫感のなさに呆れて、瞬は短い吐息を洩らすことになったのである。
「なに言ってるの。この子は――ううん、でも、そんなはず……」
そんなはずはない。
そんなことはあるはずがないのだが――。

「そのガキの抱えているペットボトル、今のものとデザインが違うな」
緊迫感はないが観察眼は保持しているらしい氷河が、瞬にだけ聞こえるほどの音量で そう告げてくる。
言われて、瞬は初めて気付いた。
それは、米国では1世紀以上前から、日本では半世紀以上前から一般向けに販売されているロングセラー商品のボトルで、瞬は好んで飲むことはなかったが、その商標と商品自体は見慣れたものだった。
しかし、その見慣れた商品であるはずのペットボトルのデザインが、瞬の知っているものとは少々違っている。
それは、瞬が見慣れたものより武骨で素朴――要するに、デザインが古かった。

昔の・・500mlペットボトルを抱えた金髪の子供が、威嚇するように 氷河と瞬を睨みながら、後ろ手に、彼の“家”の戸を開ける。
その“家”の中には、おそらく、彼が守らなければならない誰かがいるのだ。
だから彼は、二人の見知らぬ大人たちを敵と見なして、心身を緊張させている。
「氷河だ。小さい頃の」
「まさか。なんで俺がガキになって、こんなところにいるんだ」
「氷河だけじゃないみたい」
金髪の子供が、視線は二人の敵の上に据えたままで入っていった小屋の中には、もう一人の子供がいた。
床すらもない家の土間――実際には土ではなく砂だったが――の隅に、毛布代わりにしているらしい麻の布で全身をくるまれ、小さく身体を丸めて横たわっている華奢な子供――。

「眠ってるっていうより、凍えて死にかけてるみたいな――」
“家”の中にいた もう一人の子供は、熱があるのか かたかたと小刻みに身体を震わせていた。
眠ってはいないようだったが、目を開ける力もないらしい。
熱のせいで、あるいは寒さのせいで、意識が朦朧としているように見えた。
「あれは……どう見ても、小さい頃のおまえだな」
瞬は、幼い頃の自分の顔を よく憶えていなかったのだが、氷河がそう言うのなら そうなのだろうと思ったのである。
今は過去。
この二人の子供は、幼い頃の氷河と自分なのだと。

金髪の子供は、瞬が口にした『死』という言葉に びくりと身体を震わせた。
幼い瞬の側に駆け寄り、砂の上に膝をついて その身体を抱き上げ 抱きしめ、小屋の戸口に立つ二人の大人を睨みつける。
ここが彼等の“家”だというのなら、彼等は家なき子ホームレス以外の何物でもない。

ここには、食べ物の類はないようだった。
そして、彼等は おそらく現金もカードも持っていない。
幼い氷河は、彼が唯一(ただで)手に入れることのできる飲み水を調達してきたところだったのだろう。
ペットボトルもどこかで拾ってきたものに違いなかった。
飲食物だけでなく、ここには 暖房器具もない。
火を起こすにも、燃やせるようなものがない。
この小屋の壁を剥がして燃やすことはできるだろうが、そうすれば彼等は彼等の“家”を失うことになる。
それ以前に、彼等は火を起こす術を持っていないようだった。

瞬は わからなかったのである。
なぜ こんな状態で この二人がここにいるのか――幼い自分と氷河が、なぜ こんなところにいるのかが。
もし これが幼い頃に 自分と氷河が経験したことなのなら、なぜ そのことが自分の記憶の中に残っていないのかが。
昔のことだから忘れた――ということはないはずだった。
瞬は、幼い頃の氷河に、城戸邸の庭の隅に咲いていたスミレの花をもらったことを憶えていた。
氷河に 跳んだ回数を数えてもらいながら、初めて縄跳びを100回跳べた時のことを憶えていた。
子供だったからといって、氷河と二人で経験した こんな大ごとを忘れるはずがないのだ。

(ここは、僕の知っている過去とは違う過去のある場所なの? この子たちは、僕たちとは違う僕たちなの……?)
もし そうなのだとしたら、『瞬がここで死ぬはずはない』と悠長に構えていることはできないかもしれない。
瞬は、凍え死にかけている自分の側に近寄ろうとした。
そんな瞬を、幼い氷河が険しい声と視線で押しとどめる。






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