「おまえ等は悪い奴なのかっ」 小さな瞬を更に力を込めて抱き寄せ抱きしめて、噛みつくような声で幼い氷河が問うてくる。 幼い瞬に触れるには、小さな氷河の許しを手に入れる必要がありそうだった。 「そう見える?」 瞬は、子供の氷河と視線の高さが同じになるように身体を屈めて、彼の顔を覗き込んだのである。 1秒、2秒、5秒、10秒――30秒ほど、瞬を睨みつけていた幼い氷河は、やがて瞬の瞳の力に負けたように、ゆっくり一度 瞬きをした。 「おまえはいい奴みたいだけど、そっちの奴は悪者の顔してる」 「悪者の顔?」 つい、口許から笑みが零れてしまう。 瞬に くすくすと笑われて、小さな氷河は その頬を薄紅色に染めた。 「じゃあ、悪者には内緒で、僕にだけ教えてくれる? 君たちは どうして こんなところにいるの。いつからいるの。ここはどこ」 本当は、『今はいつ?』と訊きたい。 だが、瞬は、そうしたい気持ちを かろうじて抑えた。 せっかく幼い氷河に“いい奴”と認定してもらうことができたのである。 ここで、彼に“おかしなことを訊く 怪しい奴”と思われることは避けたかった。 「知らない」 小さな氷河が つっけんどんに答えてくる。 嘘とわかる嘘しかつけない、まだ幼い氷河。 そのぶっきらぼうな態度が、瞬には可愛らしく感じられて仕方がなかった。 「知らない? じゃあ、誰かに連れてこられたの?」 「自分で来た。昨日」 「歩いて?」 「バスに乗って」 「どこから?」 「俺たちは帰らないからなっ!」 “いい奴”らしいと認めても、幼い氷河は全面的に瞬を信じてくれたわけではないようだった。 彼には、彼が責任をもって守らなければならない人がいるのだ。 だから、見知らぬ大人に安易に すべてを打ち明け、何もかもを委ねるわけにはいかない――ということらしい。 ただ、幼い氷河の回答拒否で わかったことが一つ。 彼等には“帰らなければならない場所”があり、幼い氷河は そこに連れ戻されることを恐れている。 彼等は、(おそらくは城戸邸から)家出をしてきて、ここにいるのだ。 優しく聞き出せるのは、どうやら そこまでらしい。 瞬は、視線で バトンを氷河に手渡した。 大人の氷河が、子供たちを上から見下ろしたまま、命令するような口調で 幼い彼自身を問い質し始める。 「バスで来たと言ったな。どこ行きのバスに乗ったんだ」 「知らない」 「馬鹿じゃないなら、それくらい憶えているだろう。いや、馬鹿じゃないなら、それを俺に教えても、おまえらがどこから来たのか 俺たちには察しようもないことはわかるだろう」 幼い氷河は馬鹿ではなかった。 馬鹿ではないから、大人の氷河の挑発には乗らず、その詰問への明確な答えを返してこなかった。 「知らない。駅前のバス停にいて、最初に来たバスに乗って、終点で降りたんだ」 馬鹿ではないから、見知らぬ大人に求められた答えは与えない。 だが、狡猾でも卑怯でもないから嘘もつけない。 大人の氷河には、嘘ではない その情報だけで十分だった。 「ここは国内のようだな。 「僕たちが子供の頃? じゃあ、やっぱり氷河はそう思うの? 今が――」 「それしか考えられないだろう。俺たちは今、過去にいる」 「で……でも、なら、なぜ僕たちは――」 なら、なぜ僕たちには家出をした記憶がないのだろう――それが、この子供たちを見た時からずっと瞬の心に引っかかっていた疑念だった。 これが過去の僕たちの上に起こった出来事なら、大人の僕たちは そのことを憶えているはずだ――というのが。 「ねえ、逆に、この子たちが未来に来たということは考えられない? それなら、このあと、過去に戻った この子たちが未来のことを忘れてしまったってこともありえるかも」 「それはないだろう。こいつの持っていたペットボトルのこともあるし、ここがDズニーランド近くの海なら、俺たちの時代には もっと人家が増えているはずだ。ここ10年、あの辺りの人口増加率は、本当に少子化日本の一地域かと呆れるほど上昇しているんだ。“今”なら、こんな優雅な土地利用の仕方はできない。――というのは、沙織さんからの受け売りの知識だが」 「……」 では、やはり“今”は過去なのだろう。 疑念は残ったが、瞬にも、氷河の推察は妥当なもののように思われた。 個人の記憶と、土地の姿のありようと その必然性。 より確かなものは、やはり後者だろう。 「家出の理由は何だ」 これを家出と決めつけて、氷河が自分に尋ねる。 「俺たちは帰らないからなっ」 馬鹿ではない氷河は、同じ答えを繰り返した。 「辰巳に殴り殺されそうになったか。それとも、沙織お嬢様に理不尽な我儘を言われたのか」 「え……」 「いや、おまえのことだから、瞬が一輝のことばかり見ているのが気に入らなかったとか、そんな理由か」 「……」 それまで噛みつくように『帰らない』を繰り返していた幼い氷河が、初めて、本当に答えることをやめる。 辰巳や沙織のことを知っている見知らぬ大人に不審の念を抱いたのか、あるいは、瞬の兄への言及が図星を指していて気に障ったのか――。 「氷河。いくら何でも、僕と兄さんのことで、こんな子供が 家出なんて無茶をするはずが……」 『ない』と言おうとした瞬に、二人の氷河から ほぼ同時に、異なった答えが返ってきた。 「ガキの頃、俺のプライドを最も逆撫でしてくれたのは、辰巳の暴力でも沙織さんの高飛車でもなく、おまえの兄の存在だったがな」 「違わい! 一輝なんか、関係あるもんか!」 おそらく、一輝のせいで家出に及んだと思われることが、幼い氷河のプライドを傷付けたのだろう。 馬鹿ではない子供は、自分のプライドを守るために 馬鹿になった――ようだった。 「そんなんじゃない! あいつ等――あいつ等が 瞬をひどいとこに送ろうとしてるんだ。もしかしたら二度と生きて帰れないようなとこに。だから、俺は――」 プライドを守るために馬鹿になってしまった氷河が、悔しそうに唇を噛みしめる。 事情を知るために そうする必要があったとはいえ、そのために子供のプライドを利用してのける大人の氷河が、瞬は少し憎らしくなった。 「ひどいとこって、アンドロメダ島のこと?」 かわいそうで可愛い氷河。 瞬は、彼の金色の髪を そっと撫でてやった。 「……おまえ等、なんで そんなことまで知ってるんだ?」 幼い氷河が、不思議そうな目をして 瞬の顔を見上げてくる。 「ん……いろいろと事情があって。でも、僕たちは、君たちを連れ戻しにきたんじゃないよ。君たちを助けにきただけ。君たちに死んでもらいたくないだけ」 「死んでもらいたくないだけ……?」 “死”という言葉に、幼い氷河は ひどく敏感になっているようだった。 あの頃、城戸邸に集められた子供たちの中で、“死”がどんなものであるのかを 最も具体的に知っていたのは氷河だったろう。 幼い氷河の心細げな眼差しに、瞬は痛ましさを感じた。 「瞬は、そんなとこに連れていかれたら きっと死ぬって言うんだ。生きて帰ってなんかこれないって」 「そう……そうだね」 馬鹿になってくれた氷河の訴えのおかげで、“今”がいつなのか が瞬たちにはわかり始めていた。 “今”は、城戸邸に集められていた子供たちが送り込まれる修行地が決まり、彼等が そこに向かって出発するまでの1週間の中のいずれかの日なのだ。 幼い氷河は、瞬を死地に向かわせないために、この家出を断行した。 そして、幼い氷河に これほどの無茶をさせた当の本人は、死地に赴く前に、幼い氷河の腕の中で寒さに震え 死にかけているのだ。皮肉なことに。 |