「おまえ、その魔法のコインとやらに、ストーブを願っただけか」 幼い氷河は、瞬の小宇宙の中で横に首を振った。 「……バス代が欲しいって。それから、瞬がいないことに、辰巳と一輝が気付かないようにって」 「それとストーブか」 他愛のない願いである。 子供らしいというべきか。 それとも子供らしくないというべきか。 全く夢のない幼い氷河の願いに、氷河は肩をすくめたのだが、小さな氷河は 再度 首を横に振った。 「本当はストーブが欲しいなんて願ってない」 「願ってない?」 「お願いは3つまでだろ。だから、そんなことで使い切りたくなかったんだ」 「じゃあ、3つ目はまだ願っていないのか」 「願った」 「3つ目は、何を願ったんだ」 「……」 瞬の小宇宙の温かさに救われて、少し口が滑らかになっていたようだった幼い氷河が、唇を引き結ぶ。 やがて、3つ目の願いを隠すことに どんな意味も益もないことを悟ったのか、幼い氷河は口を開いた。 「最後だから……俺と瞬が大人になっても仲良しだったら、俺たちを助けにきてほしいって願ったんだ」 「……」 今度は大人の氷河が声を失う番だった。 子供らしいのか、子供らしくないのか、判断の難しい その願いに。 だが、少なくとも、幼い氷河のその答えで、大人の氷河と瞬は理解することができたのである。 なぜ自分たちが過去にやってくることになったのかを。 「仲良しだったら? 仲良しでなかったら、助からなくてもいいのか」 「仲良しでないなら、助かっても意味ないって思ったから。でも、助けは来なくて、代わりに、おまえみたいな意地悪な悪党が――」 言いかけて、幼い氷河もやっと気付いたらしい。 この場に、ふいに、見知らぬ二人の大人が現われた訳を。 あまり嬉しくはなさそうに――むしろ、嫌そうに――彼は意地悪な悪党の顔を見上げた。 「あんた、俺なのか。大人になった――」 「そのようだ」 「なんで俺が こんな悪党面になってるんだ」 自分で願った願いが叶ったというのに、彼が その事実に気付かずにいたのは、大人になった自分の悪党面のせいだったらしい。 幼い氷河は、露骨に その現実が得心できていない顔になった。 「あ……でも、じゃあ……」 やがて 別の“あること”に思い至った幼い氷河が、その視線を、大人の氷河の悪党面から瞬の上に巡らせる。 ストーブより温かい小宇宙で二人の子供を包んでいる瞬を見て、 「大人になった瞬?」 と、尋ねてくる。 「そうだよ」 瞬が頷くと、幼い氷河は、大人の自分自身に気付いた時とは打って変わって嬉しそうな顔になった。 そして、しみじみと感嘆したような口調で、 「やっぱ、大人になっても瞬は可愛いんだ」 と告げる。 幼い子供の言うことだというのに、 「ガキのくせに、瞬を可愛いだと! せめて綺麗だと言え」 幼い自分の発言よりも瞬の反応の方にむっとしたようだったが、だからといって瞬を責めるわけにもいかなかった氷河が、幼い氷河の発言にクレームをつける。 しかし、幼い氷河は、大人になった自分のクレームなど まともに聞いていなかった。 彼にとって、何よりも大事なことを、気負い込んで 瞬に尋ねてくる。 「それで……それで、大人の俺と瞬は仲良しなのか !? 」 子供らしいのか、子供らしくないのか わからない幼い氷河の その質問に、瞬は少々 困惑してしまったのである。 普段は ちゃんと“仲良し”なのに、ハーデスのコインは、なぜ喧嘩の真っ最中だった二人を過去に呼びつけてくれたのかと。 「たまに……喧嘩することもあるけどね」 「喧嘩?」 「うん。ちょっと事情があって、僕たち、どうしても旅行に行かなきゃならなくなって……。僕は、氷河が喜ぶと思ってシベリアに行こうって言ったのに、氷河はあったかいところに行くべきだって言い張ってきかないの」 「俺ならシベリアに行くけどな」 「え」 迷った様子もなく、幼い氷河が答えてくる。 「ほら。子供は素直で正直だよ」 我が意を得たりとばかりに、瞬は大人の氷河の顔を見上げたのである。 しかし、瞬の得意顔は、幼い氷河の続く言葉によって すぐに打ち消されてしまった。 「俺が喜ぶと、瞬はもっと喜ぶから」 「僕が……喜ぶから……?」 問うたのは大人の瞬だったのに、幼い氷河が見詰めたのは、大人の瞬の胸の中で目を閉じたままの小さな瞬の方だった。 子供らしくない切なげな眼差しを、幼い氷河が幼い瞬に向ける。 「瞬は、いつもそうなんだ。自分より他人の気持ちばっかり考えてて、我儘も言わないし、何でも我慢しちゃうんだ。アンドロメダ島に行きたくないっていうのは、もしかしたら瞬の初めての我儘だったかもしれない。だから、俺は――」 だから彼は その我儘をどうしても叶えてやりたくて、こんな無茶をしたのだ。 幼い氷河の決意に、瞬は胸が締めつけられるような思いに囚われたのである。 そんな我儘を言うのではなかったと、瞬は、自分の記憶にないことを後悔した。 「瞬は ほんとはアンドロメダ島に行きたくないんじゃなくて、一輝と離れたくないんだ。瞬が これまで、どんなにつらいことがあっても我慢してこれたのは、一輝がいたからなのに。瞬は、一輝と離れるのが不安で恐いんだ」 「氷河……」 「俺じゃなくて……」 低く呻くように そう言って、氷河は悔しそうに唇を噛みしめた。 彼は いったい、子供らしいのか、子供らしくないのか。 それとも、そもそも大人と子供を 大人と子供に分けて評価しようとすること自体が無意味なのか。 すべてを理解した上での、小さな氷河の無念、失意、苛立ち――。 それらが、あまりに健気で可愛くて、瞬は 小さな氷河を抱きしめる腕に力を込め、その髪に 頬と唇を押し当てたのである。 幼い氷河が 気持ちよさそうに、だが悔しそうに、再び 彼の小さな瞬を見詰める。 「瞬は、一輝と引き離されて、そんな恐いとこ行くのは嫌だって――嫌がってる。なのに、俺は何もしてやれないんだ。何の力もない子供だから」 「どうして そんなふうに思うの。君は僕を助けてくれたよ。いつも、何度も」 「俺が? 俺は何もできない……」 「そんなことないよ。氷河は、僕にとって、そこにいてくれるだけで力を与えてくれる大切な人だった」 「……大人になっても、瞬は やっぱり優しいな。いいんだ、無理しなくても。俺、わかってるから――」 「氷河……」 幼い頃の氷河の そんな気持ちを、瞬は知らずにいた。 聖闘士になってからも――たった今まで知らずにいた。 瞬は、泣きたい気持ちになってしまったのである。 ここで大人気なく泣き出して、幼い氷河を不安がらせるわけにはいかないので、瞬は懸命に涙をこらえたが。 子供の無力を、大人のように嘆いている健気な子供。 瞬の最初で最後になるかもしれない我儘を叶えるために、嫌がる瞬を無理に城戸邸から連れ出し、瞬を守らなければならないと気を張り、自身の無力に苛立ち――幼い氷河はずっと 緊張し続けていたのだろう。 瞬の温かい小宇宙の中で気が緩んだのか、彼は やがて目を閉じ、眠りに落ちていった。 幼い氷河の意識が途切れたことを感じ取ったらしい幼い瞬が、ほとんど入れ違いに意識を取り戻す。 自分が見知らぬ大人に抱きかかえられていることに驚いて、幼い瞬は その身体を強張らせた。 |