氷河はアテナの聖闘士である。 それも、星矢のように 気合いを入れて身構えなければ拳を放てないような聖闘士ではなく、心身を特に緊張させることなく指先一本で凍気を生むことができるタイプの。 ゆえに、氷河がその両肩から力を抜き 仲間たちに観念した様子を見せたのは、星矢の脅しの迫力に屈したせいではなかっただろう。 何といっても、現行犯逮捕。 そして、被害者であるところの瞬の同席。 氷河は瞬に誤解されたくなかったのだ、おそらく。 「俺は、瞬に生きていてほしい。瞬を死なせたくないだけだ」 眉を吊り上げ 気色ばんでいる星矢の前で、氷河は力無い声で 呟くように そう言った。 『本当は、俺はずっと瞬が好きだったんだ』 そういう供述を期待していた星矢は、氷河に全く方向違いの告白をされ、虚を衝かれた顔になってしまったのである。 氷河は、普段は寡黙を装っているが、一度 口を開くと自分の意見を言い終えるまで 対峙する相手に物を言う隙を与えない男。 いったい氷河は何を言い出したのかと困惑する星矢に委細構わず、氷河は、自分の語りたいことを語り続けた。 「俺は母を、師を、兄弟子を死なせた。俺のせいで、俺の拳で」 「は? なんだよ、急に」 「おそらく、それが俺の運命、俺の宿命なんだ。俺が誰かを愛すると、俺の大切な人は皆死ぬ」 「え? いや、それは たまたま、偶然そうなっただけで――」 「運命というのは、その偶然のことだ。偶然がこれだけ重なれば、それは十分に運命で宿命だ」 「おい、おまえ、なに自信満々で んなこと断言してんだ? だいいち、運命だの、宿命だのって、その当人が決めることなのか? 運命だの、宿命だの、んなの、あるわけねーだろ。そんなのは、100歳過ぎた じーさんがさ、自分の人生を振り返って、『ああ、これが俺の運命だったんだ』なーんて、気休めに思うもんだぜ。でなかったら、生きてる人間が、故人の人生を そういうものだったって決めつけるもの。おまえに関わった人間が ことごとく命を落としたとしても、それは死んだ奴等の運命で、おまえ自身の運命じゃない。つーか、おまえ、歳 いくつだよ。自分の運命を語るには、おまえ、まだまだ人生経験 足りなさすぎだろ。俺たちは若いの。ぴっちぴちなの。んな、じじくさいこと言ってんじゃねーよ!」 辛気臭い顔で不景気なことを言う氷河をなじりながら、星矢は、氷河の事情が段々と理解できてきたのである。 自分が 愛し慕う者は必ず死ぬ。 それも自分のせいで。 それが自分の宿命なのだとしたら、瞬を その宿命に巻き込むわけにはいかない。 瞬を死なせるわけにはいかない。 氷河は、そう考えたのだろう。 だから、これ以上 瞬を愛することがないように、氷河は 瞬を避け始めたのだ。 が。 『自分の愛した人、大切な人は死ぬ』 それを自分の運命と信じた人間が、自分はもう誰も愛すべきではないと決意するのは、氷河にとっては自然で当然なことなのかもしれない。 だが、自分はもう誰も愛さないという決意は、一個の人間として不自然極まりない決意である。 そもそも愛という心は、意思で生むものではなく、権利でも義務でもない。 もちろん、愛や運命なる概念をどう定義づけようが、それは氷河の勝手である。 しかし、それで瞬を傷付けることに正義があるとは、星矢にはどうしても思えなかった。 星矢は、半ば立腹し、半ば呆れて、不幸な運命とやらに酔いまくっている氷河の顔を見下ろすことになったのである。 「あのさぁ。酷なこと言うけどさ。おまえのマーマが死んだ船の事故の被害者って、おまえのマーマだけじゃないんだろ? おまえの母親は、おまえの母親だから死んだわけじゃない。んで、カミュやアイザックの場合は、単に奴等がおまえより弱かっただけ。おまえは、師だから、兄弟子だから、奴等は自分より強かったはずだって思い込んでて、奴等の敗北と死が不自然に感じられるのかもしれないけどさ。実際、おまえは奴等を倒したんだ。単に、おまえの戦闘力と気力が 奴等のそれより勝ってたから。おまえがもっと圧倒的に強いか、口が上手かったら、奴等を死なせずに倒すか、説得することができてたかもしれないから、おまえのせいっちゃ、おまえのせいなのかもしれねーけどさ。奴等が死んだのは、奴等が おまえの大切な身内だからじゃない。奴等が おまえとは赤の他人だったとしても、結果は同じだったと思うぜ」 「……」 氷河が、運命の宿命のと深刻ぶって語っていることは、星矢にとっては、なるべくしてなった、ごく自然で、普通で、当然で、ありふれた事柄の繰り返しでしかなかった。 人命が関わっているから、それは少しばかり劇的で深刻な出来事のように見えるだけなのだ。 そんなことは、瞬を悲しませ傷付けることの正当な理由には 決して なり得ない。 「だいいち、おまえの大切な人は死ぬ運命ってさ。その理屈でいくと、命をかけた戦いを共に戦ってきた俺たちは、おまえにとって大切な人間じゃないってことになる。俺たち、何度も死線をくぐってきたけど、こうして ぴんぴんしてるもんな。俺たちは、おまえにとって、どーでもいい奴等なのかよ」 「どうでもいいとまでは言わんが」 「でも、おまえの大切な人はみんな死ぬんだろ。ぴんぴんしてる俺たちは、おまえにとって どーでもいい奴なんだ。もちろん、瞬も」 「……」 『もちろん、おまえたちも、瞬も、俺にとっては どうでもいい人間だ』と言い切れないところが、氷河の氷河たるゆえん、氷河がクールな男でないゆえんである。 しかし、そこまで言われても、氷河は彼の宿命論を撤回することをしなかった。 それは、彼が自身の宿命に囚われ 瞬を避けるようになったのには、それなりの経緯と根拠があったから――のようだった。 「しかし、瞬は、俺のせいで死にかけた」 それが、氷河の宿命論の根拠であるらしい。 天秤宮で、瞬を死なせかけたことが。 皮肉にも、そのおかげで、氷河は瞬の持つ力の強大さを正確に知ることになったのだろうが、同時に彼は、彼自身の運命の力の大きさ強さに愕然とすることになったのだろう。 「でも、瞬は生きてるだろ」 「それは……」 「それは?」 「天秤宮でのことがあるまでは、俺にとって瞬は ごく普通に可愛くて、優しくて、いつもいつまでも一緒にいられたら どんなにいいかと思う程度の相手だったんだ。だから、瞬は死なずに済んだ。その……あの時点で瞬への俺の好意は、まだ軽いものだったんだろう。だから、おそらく――」 「天秤宮以降、おまえにとって 瞬は、ごく普通に可愛くて、優しくて、いつもいつまでも一緒にいられたら どんなにいいかと思う程度の相手じゃなくなったのかよ?」 「……」 星矢は別に、氷河の揚げ足を取ろうとして、そんなことを言ったわけではなかった。 (それ以前に、星矢には“ごく普通に可愛くて、優しくて、いつもいつまでも一緒にいられたら どんなにいいかと思う程度”の好意が、軽い好意だとは思えなかった) 星矢はただ、少し気を抜くと吹き出してしまいそうになる自分を抑えるのに必死だったのである。 深刻な顔をして、幼稚園児か小学校低学年の生徒並みの告白を しでかしてくれている白鳥座の聖闘士を目の当たりにして。 瞬への好意が“軽いもの”でなくなったことを、氷河は無言で肯定した。 間接的なのか直接的なのかの判断が難しい氷河の告白を聞かされてしまった瞬は、どういう顔をすればいいのかわからないといった様子で、その瞼を伏せている。 氷河は そんな瞬をちらりと一瞥し――彼こそが どんな顔をすればいいのか わからなくなってしまったらしい。 そうして、結局 氷河は開き直ることにしたようだった。 それまでは、彼にしては躊躇の響きがあった口調を、断固としたものに変える。 「俺が本気で、それこそ 瞬のためになら死んでもいいと思えるくらい瞬を好きになったのは、十二宮戦後のことだ。だが、それで俺が死ぬのなら何の問題もないが、俺のせいで瞬を死なせるわけにはいかない。だから、俺は、懸命に瞬を無視して、わざと素っ気ない態度をとっていたんだ!」 開き直った氷河は、すべては瞬のためだったのだと決然として言うが、 「でも、瞬は、そりゃまあ、色々あったことはあったけど、今もぴんぴんしてるぞ。瞬が今日になって倒れたのは、おまえの軽くない好意のせいじゃなく、おまえに避けられ続けたせいだ」 というのが、現実である。 答えに窮した氷河に、紫龍が脇から真面目な顔で、 「瞬が死ななかったのは、おまえの愛し方が足りなかったせいなのではないか?」 という疑問を投げかけたのは、完全に氷河への揶揄だった。 そして、その揶揄は 氷河には この上ない侮辱だったらしい。 氷河は、即座に、 「何を言う! 俺は、瞬のためになら、煮えたぎる溶岩の中にだって飛び込めるぞ!」 と断言してきた。 「おまえが? そりゃすげーや」 星矢はそろそろ、氷河に付き合って深刻ぶった顔を維持することが困難になりかけてきていたのである。 瞬も、この取り調べの本質が楽しく愉快なものであることに気付き、自分が どういう顔をすればいいのかがわかってきたらしい。 瞬は、氷河が着席を強要されているソファの隣りに場所を移動して腰をおろし、いまだに深刻モードを維持したままの氷河の顔を覗き込んだ。 瞬の表情は まだ笑顔と呼べるものにはなっていなかったが、その瞳は既に明るく やわらかい輝きに支配されていた。 そういう表情と眼差しで、瞬は氷河に告げたのである。 「氷河。あのね。僕は強いんだよ。もし氷河の大切な人が ことごとく命を落とす運命なんだとしても、僕はそんな運命より強い」 と穏やかな声音で、だが、きっぱりと。 「瞬……」 「だから、僕は死なない。氷河のせいで、僕が死ぬなんてことは絶対にない」 「瞬、それは……」 それは、瞬が相手ならば、不吉な運命に支配された男が どれほど愛しても、不幸な結末には至らないということなのだろうか。 大切な者たちの命の炎を 片端から消してきた男の力など、たやすく撥ねのけてみせるという宣言。 『だから僕を愛して』という誘惑。 そう告げる瞬の瞳は優しく静かだが、絶対の自信と 際限がないように見える しなやかな強さを たたえている。 既に“軽いもの”ではなくなっていた瞬への氷河の好意。 瞬は、その好意を諦めなくていいと言ってくれているのだ――。 氷河の心臓が派手に高鳴り始めたことは、傍にいる星矢と紫龍にも容易に察することができた。 断腸の思いで、一度は諦めた瞬への恋。 その恋を、“ごく普通に可愛くて、優しくて、いつもいつまでも一緒にいられたら どんなにいいかと思う”より深く思うようになっていた人に、再び優しく手渡されたのだ。 氷雪の聖闘士の 凍りついていた身体と魂が 雪崩を打って融け始め、熱い命と熱い心が復活を果たしたとしても、それは さほど不思議なことではなかっただろう。 「ま、少なくとも、瞬はカミュやアイザックよりは強いだろうな。本気を出せばの話だけど」 「氷河を悲しませないためになら、瞬は本気を出すだろう」 「俺、ほんと言うと、瞬には あんまり本気出してほしくないんだけどな。いろんな意味で おっかねーから」 騒ぎの元凶は、とうの昔に 軽いものではなくなっていた瞬への氷河の好意。 瞬を死なせたくないという、氷河の願い。 しかし、瞬は、氷河の運命など 物ともしない強さを その身に備えた聖闘士だった――。 これで大団円だと、星矢と紫龍は思っていたのである。 氷河の運命だの宿命だのごときが、瞬に勝てるはずがない。 氷河も、それはわかっているはずだと。 「瞬……俺は、本当は、ずっと前からおまえが――」 もちろん、氷河はわかっていた。 わかってしまった氷河が、星矢と紫龍という第三者の存在を綺麗に無視して、早速 恋の告白に及ぶ。 だが、幸福な結末に至るはずだった氷河の告白は、不運にも、ある思いがけないものに遮られてしまったのである。 ある思いがけないもの。 それは、氷河が煮えたぎる溶岩の中にも躊躇なく飛び込めるほど恋した人の、 「そしてね、氷河。僕以外の誰だって、同じように強いんだよ」 という言葉だった。 |