living sign






沙織さんが僕の許に一人の青年を連れてきたのは、その冬初めて東京が雪で白く染まった冬の日の午後だった。
昨夜半に降り出した雪は朝方にはやんでいたんだけど、空は厚い雲に覆われて重い灰色。
午後になっても気温は下がらず、路上以外の場所は白く雪化粧したまま。
この光景が青空の下にあったなら どんなに綺麗だろうと、僕は窓の外の庭を眺めながら、雪国の人が聞いたら立腹しそうなことを考えていた。

だから――彼を最初に見た時、僕は、沙織さんが僕の心の内を読んだのかと思って、大きく心臓を撥ねあがらせたんだ。
沙織さんが連れてきた その人は、晴れた冬の日の青空のようだったから。
正確には、彼そのものではなく、彼の瞳が。
きっと子供の頃は、彼の瞳は晴れた夏の空の色をしていたんだろうと、僕は思った。
今は大人になって、色々と つらいことや悲しいことを経験してしまったから、彼の瞳は冬の青空の色をしているんだろうって。

僕以外に使う人のいない城戸邸のラウンジ。
1分か2分――失礼と言われても仕方がないくらいの時間、僕は彼の青い瞳に見入っていて――。
「瞬」
沙織さんに名を呼ばれ 我にかえってから初めて、僕は、彼が夏の陽光の色の髪の持ち主だということに気付いた。
それから、彼がとても美しい男性だということにも。
普通は逆――まず、その金髪に目を奪われ、その美しさに目をみはり、それから やっと瞳の青に気付くものだろうと、僕は自分の感性を少し疑った。

人間の姿形の美しさに――それも、男性の美しさに――我を失うなんてプロファイラー失格。
せめて、その身体の骨格とか、顔立ちのエニアグラムを気にすればいいのに、第一印象が『美しい』だなんて、僕は どうかしてる。
そういう点に注目して分析すれば、彼は典型的なコーカソイド、おそらくスラヴ系。
でも ちょっとだけ蒙古皺襞の気味があるから、モンゴロイドの血が少し入っているかもしれない。
エニアグラム性格分類なら、融通の利かない批評家タイプと 他人の干渉を嫌う挑戦者タイプの中間。
援助者タイプか調停者タイプの僕とは、多分 いろんなことが正反対なのに違いない。
ああ、でも、そんなこと どうでもいい。
本当に綺麗な人。
そして、なぜか奇妙な懐かしさを感じさせる人だ。

「あ、すみません。あんまり綺麗な人なので、びっくりしちゃって」
僕の正直な弁解に、沙織さんは軽く苦笑した。
これ・・が あなたが見とれるほど綺麗なものとも思えないけど」
「えっ」
沙織さんに そう言われて、僕は、それこそびっくりした。
彼が美しくなかったら、いったい誰が美しいっていうんだろう、沙織さんは。
そう反駁しかけて、でも、僕は その反駁を口にしなかった。
相手は沙織さんだ。
沙織さんなら そう感じるのかもしれない――と思って。

「それは、沙織さんが ご自分の顔を見慣れているからでしょう。でも、男性の美しさと女性の美しさは違うものですよ」
「女の子に間違われてばかりいる あなたが言うと、その言葉に信憑性はないわね」
沙織さんが、僕のウィークポイントを衝いて からかってくる。
それは、僕だって気にしてるのに。
人様に 初見で男子と認めてもらうことは、9割方 諦めてるけど。

沙織さん――城戸沙織さんは、僕の雇い主だ。
僕は、彼女の私邸である この城戸邸に住み込んでいる、彼女のボディガード。
とはいえ、僕がこの城戸邸に住み込み始めたのは、僕が小さな子供だった頃で、僕は彼女の家族同然に遇してもらっているけど(実際、この家の使用人たちは、僕を『瞬様』と呼ぶ)。
沙織さんは、若き――ううん、若すぎるグラード財団総帥。
そして、とても美しい女性だ。
本当は少女と言っていい年齢なんだけど、そう呼ぶには 彼女は あまりに威厳や貫禄がありすぎて。
プロファイラーもどきの僕にとっては、彼女こそが、人間としては最も不思議な存在。
彼女の調和のとれた知性、思考力、洞察力、精神力には、普通の人間とは思えないところがある。
生来のものなのか、あるいは 幼い頃から帝王学を仕込まれてきたせいなのか。
そういう人間を、僕は彼女の他に知らないから、何とも言えないけど。
昨今は、どんな財閥や巨大企業の支配者の子弟でも 帝王学を学ぶなんてことはないんだ。
気取りがなく 庶民の心や生活に通じている人を“立派な支配者”と見なす風潮があるせいで。
それは 極端な平等主義が幅をきかせている日本だけの奇妙な風潮だ。
もっとも、僕は、沙織さんほど圧倒的な威厳と迫力を備えた人を、米国人や欧州人の中にも知らないけど。

「ああ、そう。今は、誰がいちばん美しいかをディスカッションしている場合じゃないわ。今日から 彼を この家で預かることにしたから、あなたに紹介しておこうと思って」
グラード財団の女帝――でなかったら女神。
彼女は、でも、僕には とても気安くて優しい。
多分、僕が、彼女が我儘な ただの女の子だった頃からの古い馴染みだから、色々と取り繕いきれないことがあって、僕の前では偉ぶりにくいんだろう。
彼女は、僕にとって、“対外的な面子を維持しなきゃならないから、人目のあるところでは威張ってみせたりすることもあるけど、外面を気にしなくていい場所では 滅茶苦茶 弟に甘い お姉さん”みたいな人だ。
僕がそう言ったら、沙織さんは、『あら、私は、大事な妹を可愛がってあげてるつもりよ』なんて意地悪を言って、僕を可愛がって・・・・・くれた。
そういう人なんだ、沙織さんは。

その沙織さんが、この家に“他人”を入れようとしている――らしい。
僕は、彼女の“大事な妹”っていう特別待遇に甘えているところがあったから、僕たち姉妹の間に割り込んでこようとする“他人”を癪に思っていたかもしれない。
彼が、こんなふうに“特別に”綺麗で、不思議な懐かしさを感じさせる“特別な”人でなかったら。
「預かる?」
多分、そう問い返した僕の声に不快の響きがなかったから安心して――沙織さんは、その身体と声から緊張を消し去った。
「ええ。彼は、つい 昨日まで グラードの総合病院のリハビリセンターにいたの。でも、どこの誰だかわからなくて――記憶がないのよ」
「記憶がない?」
「と、本人は言っているわ」
「そうは見えません」

沙織さんの斜め後方に無言で立っている彼の全身に一瞥をくれてから、僕は ごく微かに首を横に振った。
微動だにせず その場に立っている彼の筋力、凍りついて波のない湖のような緊張感。
色と(彼は黒いジャケットを着ていて、それが彼の金髪と青い瞳を際立たせていた)、視線の鋭さがなかったら、古代ギリシャ彫刻と見紛ってしまいそうな人。
沙織さんが僕に告げた言葉は、全く彼にそぐわなかった。

「そう見えないというのは、彼がリハビリセンターにいたこと? それとも、記憶がないことの方かしら」
「両方です。だって、とても健康そうですし、身体の均整も見事だ。骨格、筋肉、四肢の比率、こんな理想的な肉体を持った人に、僕は未だかつて出会ったことがない。記憶だって――記憶がないにしては、眼差しが力強くて、意思的で、綺麗で――」
「あら、結局、『綺麗』に行き着くの。あなたらしくないわね。何でも綺麗で片付けるなんて」
「あ……」
沙織さんの指摘は正鵠を射ている。
これは本当に僕らしくないことだ。
今日の僕はどうかしてる。
僕は、これでもプロファイラーもどきのことを生業にしてるのに。
『綺麗』なんて、個々人が個々人の感性で感じる、まるで客観性のない評価だ。
哲学的ではあるのかもしれないけど、全然 科学的じゃない。

「でも、そう。今は彼は 身体のすべての機能が正常。身体能力は むしろ健常者以上。でもね、半年前までは、彼、完全に右半身不随だったのよ」
「まさか……」
そんなこと、信じられない。
つい半年前まで右半身不随?
それが事実なら、一人で日常生活を送れる程度に回復したのだとしても、左に頼って活動していた頃の後遺症が多少は残るはず。
でも、彼にはそんなところがない。
どんなに健康な人だって、利き手側の骨盤の歪みが生じるのが普通だ。
なのに、彼の姿勢は完璧に左右対称。
よほどの鍛錬を積んだ人間でないと、こんな姿勢は保てないのに。

「本当よ。病院に運び込まれた時には全身に強打の痕跡があって、物理的ダメージによる脳の障害が半身不随の原因かと思われたのだけど、検査の結果、脳に異常は見付からなかったの。で、必然的に、彼の半身不随は心因性のものだということになった。打撲痕以外に肉体上にはどんな損傷もなかったから。その心因が何なのかということは 結局わからなかった――今もわかっていないのだけど、記憶が失われたということは、その心因も消滅したということで――。彼は ものすごい根性で厳しいリハビリに挑んで、今は呆れるほどの健康体。で、健常者になってしまったものだから、リハビリセンターに置く理由がなくなってしまって、この屋敷に引き取ることにしたのよ。瞬、あなたに、彼の失われた記憶を探ってもらおうと思って」
「は……?」
失われた記憶を探れと言われても――僕は医者でもなければ、心理療法士でも臨床心理士でもない。

「記憶が失われていて、携帯品にも身元のわかるようなものはなかったし、つまり、現在、彼の素性は全然わからないのよ。それがわかればいちばんいいのだけど……。私の希望を言うと、彼の性格や価値観、精神状態等を あなたに観察判断してもらって、問題がないようなら、彼を私のボディガードに雇いたいの。あなたを右、彼を左に従えてパーティに行ったら、皆の注目を集めて気持ちいいと思うのよね」
「……」
沙織さんは、突然 何を言い出したんだ。
沙織さんのことだから、それは素性が定かでない人物を私邸に引き取るための方便なんだろうけど。
沙織さんは、自分には何の義務も責任もないことだからと言って、行き場のない人間を ぽんと街に放り出すような不人情のできる人じゃない。
でも『お気の毒だから』で厚情を示すと、誰に何を言われるかわかったものじゃない立場にある人で――。
彼女が何らかの行動を起こす時には、彼女自身もしくはグラード財団が益を得るような、何らかの理由が求められる。

「そんなことをしなくても、沙織さんは いつも注目の的ですよ」
「権高くて ぎすぎすしたグラード財団の恐ーい女帝としてね。私は そのイメージを払拭して、綺麗な男に かしずかれている優美艶麗な女性として注目を浴びたいのよ」
美貌、才能、財。すべてに恵まれている沙織さんに かしずきたがっている男性なら五万といるだろうに。
本当はとても優しいのに、そんな理由を捏造しなきゃ、気安く人に優しくすることもできないなんて、権力者というのは本当に不便だ。
僕は、少々同情しつつ、沙織さんに頷いた。






【next】