「わかりました。この方のお名前は」
「氷河。私がつけたの。名前も憶えてなかったから」
「氷河?」
また随分とユニークな名前を。
でも、沙織さんが彼にそういう名をつけた気持ちはわかるような気がする。
決して融けない氷の河。
その呼び名は 彼の印象には合っている。
沙織さんは、その氷を融かして、彼を自由に流れていきたいところに流れていけるようにしてやりたいんだろう。
もし彼が記憶を取り戻すことがあったら、沙織さんは 彼の名前を『懸河』とか『大河』とかに変えるくらいのことはするかもしれない。

ともあれ、僕は、沙織さんの優しさを無にしないため、その優しい指示に従うことにした。
話が決まると、僕の気が変わらないうちにと思ったのか、沙織さんは早速――でも、今頃になって――僕を氷河さんに紹介した。
「氷河。こちらが瞬よ。私のボディガード。とはいっても、滅多に肉体労働はしないのだけど。瞬は、なんというか――ものすごく洞察力がある人間なの。目がよくて、勘がよくて、判断力にも優れていて、危険な計画を腹に抱いている挙動不審者を見付ける天才なのよ。ちょっとした所作で、良からぬことを考えている者がわかるんですって。暴行事件や傷害事件に発展しそうな事態を、これまでに幾度も未然に防いでいるわ。私自身は清廉潔白な上、慈愛に満ち満ちた権力者だから、事件の標的にされるようなことは滅多にないのだけど、私がお付き合いしなければならない方々の中には、権力の使い方を間違えているような お馬鹿さんが少なからずいて――ま、逆恨みされただけの場合もないではないのだけど。不特定多数の人間が集まる会合やパーティには、私はいつも瞬と一緒に行くことにしているの」
「……」

沙織さんの紹介を聞いて、氷河さんが僕をどう思うのか。
僕はそれが気になって、彼自身を探るためじゃなく、彼の表情の変化や所作を それとなく注視した。
彼は、ほぼ無反応だったけど。
「筋肉や瞳の動きで、なんとなく不審者がわかるんですって。犯罪が起こってから犯人を割り出すプロファイラーじゃなく、犯罪に及ぶ可能性のある人間を見付け出すプロファイラーとでもいえばいいのかしら。不審者でなくてもね、対峙する人間が どんな人物か、占い師みたいにぴたりと当ててしまうの。不審者を見付けて、その身柄を確保したあとは、どんな凶悪犯にもいいところを見付けて、そこを衝いて犯行の決意を翻させる、人たらしの名人でもあるわね。瞬の この可愛い顔で犯行を思いとどまるよう説得されると、大抵の人間は ころっと己が罪を悔い改めて、善良な市民に変身してしまうのよ。あなたも気をつけなさい。瞬の前では、誰も尖っていられなくなるの。それはそれで詰まらないことでしょう?」
「沙織さん。それはどういう紹介の仕方ですか」

沙織さんは、僕を持ち上げているのか、こき下ろしているのか。
沙織さんの冗談を真に受けて、彼が僕の前で身構えるようになったら、彼の素性を探るっていう沙織さんの建前上の目的も達せられにくくなるのに。
でも、沙織さんは、僕の紹介をやめなかった。
氷河さんが寡黙が過ぎる分、自分が場を盛り上げなければならないとでも思ってるみたいに。
沙織さんの気持ちは わからないでもないけど。
彼は、ここに来てから、まだ一度も声を発していない。
表情も変えていない。
まるで僕たちの話が聞こえていないみたいな――本当に彫刻みたいだった。
その場で僕を紹介する沙織さんの言葉を最も熱心に聞いているのは、彼女に紹介されている僕当人というありさま。
沙織さんは、僕に僕を紹介していた。

「事実でしょ。K団連主催の賀詞交歓会で、HS銀行の頭取が暴漢に狙われていた時、あなたは交歓会の会場に入ってすぐ、挙動不審者を会場の人混みの中から見付け出したわ。しかも、彼が自分の意思で暴挙に及ぼうとしているのではないことも見抜いた。あの暴行未遂犯は 家族を人質を取られて脅されて、代理で暴行を働くよう指示されていたのよね。おかげで、黒幕を一網打尽にできた」
「あれは――瞳の動きが不自然だったんですよ。暴行に及ぼうとしている人間としても、心神喪失の人間としても、もちろん賀詞交歓会に招かれた客としても。臆病そうなのに、投げ遣りなところがあって、壮絶な決意を感じるのに、自暴自棄にもなりきれていなくて、暴行に及ぼうとしている対象者じゃない誰かを見ているようだった」
「確か、HS銀行に融資を断られて、200億の負債を抱えて会社更生手続きの申し立てに至ったCKトラベル社のCEOの子飼いの部下だったわね。暗君でも主君は主君。暴君が最高経営責任者に就いている企業の社員は悲惨だわ」
暗い表情で そう呟いてから、沙織さんは気を取り直して、氷河さんに微笑を向けた。

「こんな感じなの。瞬は きっと、あなたの失われた過去の記憶も取り戻してくれるわ」
「僕には、そんなことはできませんよ。医者じゃないんですから」
多くの人間を支配統制し導く人物には ある種の楽観性も必要なものだと思うけど、だからといって、そんなことを安請け合いされても困る。
僕は彼を失望させることになるのが恐くて、彼女に釘を刺した。
「記憶を取り戻すことは無理でも、そのヒントやきっかけくらいは見付けられるかもしれないでしょ。期待させすぎることは危険なことだけど、人には希望も必要よ」
沙織さんは、何というか――人と接する時も、企業経営においても、実に優れたバランス感覚を有している。
彼女の部下は、暴君が最高経営責任者に就いている企業の社員の百倍も幸せだろう。
そう。今の僕は幸せだ。
僕は、沙織さんの期待に応えたいと思い、その希望の実現に努めることにした。

「はい。僕、瞬です。よろしく、氷河さん」
握手のために右手を差し出してから、僕は彼が半年前まで右半身不随だったという話を思い出して、まずいことをしてしまったかと、少々慌てた。
沙織さんが 僕の懸念を察して、手を引きもどそうとした僕を止める。
「もう、大丈夫よ。言ったでしょう。今の彼は健常者以上だって」
「あ、はい」
でも、彼は相変わらず無表情で――ただ、その瞳だけが生きている彫刻のようだった。
冬の青空のようだと思った彼の青い瞳。
僕と対峙した彼の瞳は、今は青い炎のようだった。
冷たい炎のよう。
でも、握手には応じてくれた。
「よろしく」
と、短く言って。

初めて聞く彼の声。
彼は、それしか口をきかなかった。
ネイティブな日本語。
優しく懐かしい響きの声。
よろしく・・・・
たった4つの その音に、なぜか僕は背筋に ぞくりとするものを感じて――何だろう、この感覚。
彼の声は、優しいのに恐い。
それは僕が かつて経験したことのない感覚で、僕は彼の優しく恐い声をもっと近くで――いっそ耳元で聞かせてほしいと、そんな馬鹿なことを考えたんだ。

僕の手を握った彼の手は ひどく熱くて、彼が実は ひどく緊張していることに、その時になって僕は初めて気付いた。
この僕が そんなことに気付かずにいたなんて――ううん、それは、でも、僕が鈍感だというのではなく、僕に気付かせない彼が異常なんだ。
彼は、自分が緊張している素振りを表情には 全く出していなかった。その所作にも。
活発に活動しているのは、ただ彼の瞳だけで――。
彼は瞳が色んなことを語る人なんだと、僕は思った。
その1分後には、彼は本当は語りたいことがたくさんあるのに、そんな自分を抑制しているのだとわかった。
他でもない彼の青い瞳が、僕に そのことを知らせてくれた。






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