ボディガード見習いという身分で城戸邸で暮らすことになった『氷河さん』を、僕が『氷河』と呼び捨てにすることになったのは、彼と知り合った翌日。 『氷河さん』と何度呼んでも答えてくれない氷河が、 「『氷河』と呼んでくれたら、『はい』と答えてやってもいい」 と言ってきたから。 氷河が僕の呼びかけを無視していたのは、『さん』という敬称が気に入らなかっただったらしい。 それならそうと もっと早くに言ってくれていたら、僕は『氷河さん』と呼んで無視されることに20回も落胆せずに済んだのに。 僕は少し腹が立って、すぐに彼を、 「氷河」 と呼び捨てにしてやった。 「なんだ」 と彼に答えてもらえたことが嬉しくて、僕はすぐに腹立ちを忘れてしまったけど。 「あ、ううん。何でもない」 僕の答えを聞いて、氷河は 訳がわからないっていうみたいに2度3度 瞬きをして――。 僕は、そのきまりの悪さに身体を縮こまらせた。 うん、そうだね。 『なんだ』 そんな ぶっきらぼうな答えが こんなに嬉しいなんて、ほんとに僕はどうかしてる。 そんなふうにして始まった、失われたものを取り戻そうとする 僕と氷河の日々。 氷河には語りたいことが たくさんあるんだろう。 それは、彼の瞳を見ればわかる。 でも、記憶のない彼には話せることがない。 だから 最初のうちは、僕が一方的に、僕自身のことを氷河に話していたんだ。 彼に 僕への隔意や緊張感を捨ててもらうために、僕の身の上話とか、そういったことを。 僕は多分 孤児で、4、5歳の頃、城戸邸に引き取られた。 今は既に他界した先代の城戸の当主は、生前 児童福祉に力を入れていた。 それは、社会的に高い地位にある者の立場上、義務として社会貢献というものをしなければならないという事情があってのことだったかもしれないけど。 彼が不遇な子供たちに心から同情していたのかどうかは わからない。 でも、彼の立場上の義務の恩恵に浴した子供の数は 1人や2人じゃなかった。 彼は、いろんな施設への寄付の他に、不遇の孤児を自邸に引き取って生活面での世話をしてくれた。 彼は、何十人――もしかしたら百人以上の孤児たちの生活の面倒を見て、そして自立させた。 僕はなぜか彼に気に入られて――多分、その年頃の子供にしては大人しすぎたのと、その割に運動神経がよかったから、沙織さんの遊び相手 兼 ボディガード候補として見込まれたんだろう。 義務教育を終えてからも、この家から出されず、ずっとこの家で暮らしている。 高校や大学にも通わせてやると言われたんだけど、沙織さんが義務教育修了後 各方面での教師を自邸に招聘し講義させる やり方での高等教育に入ったから、僕は その講義に同席させてもらうことにして、集団教育は受けなかった。 そのうち、僕と沙織さんは 興味を抱く分野が分かれてきて、沙織さんは経済経営と心理学、僕は福祉方面と、心理学では心理学でも社会心理。 沙織さんの外出のお供をするようになってからは、プロファイリングみたいなことにも興味を持つようになった。 プロファイリングは、本来は、犯罪の内容から犯人像を導き出す、行動科学にのっとった犯罪捜査方法の一つだけど、僕の仕事は沙織さんの身辺を警護することだから、僕は 犯罪――主に暴力沙汰――を未然に防ぐことを主眼においた学習をした。 だから、僕のやり方は日本の警察庁や米国のFBIのそれとはちょっと違う。 公認プロファイラーの資格も取っていない。 僕の専門分野は、暗殺や脅迫、そしてテロだ。 彼は――氷河は、そんなふうな僕の話になんか興味がないんだろうって、僕は最初のうちは思っていたんだ。 僕が何を話しても、彼は僕の顔ばかり見ていて、僕の話に耳を傾けているようには見えなかったから。 でも、そうじゃないことが まもなくわかった。 ちょっとした きっかけで。 何かの弾みで、共和制ローマのティベリウス・グラックスの暗殺の話が出て、その時に氷河が 以前僕が彼に話した暗殺者の心理についての意見を引用して、ローマの内乱の世紀を批判したんだ。 その時、初めてわかった。 氷河は、僕の言ったことを細大漏らさず一言一句 記憶している。 自身の記憶を失っている分、新しい情報を蓄積する余地があるのかもしれないけど、それにしても驚くべき記憶力だ。 そんなふうに、氷河は記憶力は優れていたし、応用力もあった。 当然、知能指数も高い。 ただし、日常生活の細々としたことには ほとんど関心がないらしくて、時々信じられないようなポカをしでかしてくれたけど。 信じられないようなポカといっても些細なことで、食事中にバターナイフをジャムのポットに戻したり、やたらとワイシャツの胸元を押さえてるから『どうしたの』って訊いたら、ボタンが取れかけてるから、落ちないように押さえてるんだって真顔で答えてきたり、そんなこと。 氷河は、自分が興味があることにしか 熱心になれないんだ。 興味のないことには注意を払わないし、真面目に考えたりもしない。 氷河がいちばん熱心なのは、僕の顔を観察することだった。 そうなんだ。 気がつくと、氷河はいつも僕を見詰めていた。 彼と目が会うと、僕は どぎまぎして、つい視線を逸らしてしまうんだけど、氷河は自分が変なことをしているっていう自覚はないみたいで、他に何か見なければならないものができるまで、ずっと僕を見詰めていた。 もちろん、僕は、氷河に見られてるばかりじゃなく、僕自身も(控えめに)氷河の観察を続けていたけど。 氷河は、顔の造作も綺麗だったけど、その肉体も綺麗だった。 各部位の発達、その比率、均整のとれ具合い。 偏りのない筋肉のつき方は、特定のスポーツに専心するような鍛え方をしなかったからだろう。 彼の肉体には、驚くほど偏りというものがなかった。 どうして こんな見事な肉体の持ち主が、怪我をしたわけでもないのに、リハビリが必要な状況に陥ったのか、僕には わからない。 大舞台での演奏を失敗したせいで 手指が動かなくなり楽器の演奏ができなくなった演奏家や、誤って人を撃ち殺してしまったせいで拳銃が持てなくなってしまった人間の例はあるけど……。 彼は、そんな大きなショックを受けたことがあるんだろうか。 半身が不随になるほどの心因なんて、僕には想像がつかないし、多分 症例もないんじゃないかと思う。 こんなに綺麗な人に どんな残酷な運命が降りかかったのかと思うと、僕の胸は きりきりと痛んだ。 そう。彼は本当に綺麗だった。 北方系の金髪、吸い込まれてしまいそうな青い瞳、肉体同様 歪みのまったくない顔。 年上の女性に とても親切で、城戸邸の若いメイドには素っ気ないのに、30代以上の女性には 言葉使いも所作も丁寧になる。 多分、母親の影響だろう。 氷河は きっと お母さんを早くに亡くしたんだ。 おそらく、10歳になる前に。 成長して、母親も欠点を持つ一人の人間なのだと認めるようになる以前に。 そして、失われた人を理想化している。 すべては彼が記憶を失う以前のことだから、理想化していたと言うべきか。 彼はいつも誰かを求めているようで――自分が一人でいることを不自然に感じているようだった。 僕は最初のうちは、彼が求めているのは 失われた彼の母親なのだと思ってた。 でも、そのうちに、彼が求めているのは――彼が失ったのは、彼の恋人なんじゃないかと思うようになったんだ。 氷河はいつも僕を見詰めてるけど、どう考えても、僕と彼の母親の間に重なる点はないだろう。 となれば、僕に重なる何かを持っているのは、彼の母親以外の誰かと考えるのが妥当だろう。 その人と離れていて、一緒にいられなくて、だから氷河は 自分には何かが足りないと思っているんだ。 氷河の手は、時々、まるで自分の隣りに誰かがいるような動きを見せることがあった。 |