「氷河の恋人だった人には、どこか僕に似たところがあったんじゃないかと思うんです」
「きっと相当の美人だったんでしょ。いいえ、清楚可憐、可愛い系かしら。私を素通りして、あなたに執心しているところを見ると」
報告できるようなことは まだ何も掴めていなかったから、沙織さんへの僕の最初の報告は、僕の想像と妄想が ないまぜになったようなものになった。
沙織さんは、氷河に凶暴性があるとか、レイシストの気があるとか、精神疾患の疑いがあるとか、そういう報告でないなら どんな報告でも大歓迎らしく、半分以上が僕の想像から成る氷河の恋物語を、彼女は楽しそうに聞いてくれた。

「派手で華やかな人ではなかったんだと思います。静かで、あまり出しゃばらない人。氷河は人に指図されるのが嫌いだから。でも、きっと世話好きな人です。氷河は放っておくと食事もとらなさそうなところがあるから。あの氷河に付き合っていられたなら、辛抱強い人でもあったのかな。そして、きっと すごく綺麗好き。氷河って、生活全般において面倒くさがりなのに、入浴や着替えだけは こまめなんです。こまめさに どこか見当違いなとこはあるけど。きっと世話好きで辛抱強い恋人を、自分にはもったいないくらいの人だと思ってて、彼女に嫌われたくなくて、一生懸命 直したんだろうな。氷河、本当は かなり ずぼらなのに……あ、いえ……」

僕は氷河を非難するつもりはなくて、氷河の面倒くさがりなところも可愛いと思うようになっていたんだけど(だって、あんなふうに非の打ちどころのない容姿の持ち主が ずぼらだったり、時々 ものすごく頓珍漢なことをしたりするのって、『可愛い』としか評しようがないよ)、さすがに言い過ぎたかと思って、言葉を途切らせた。
でも、沙織さんは、僕の言いたい放題を聞いて、ますます楽しそうな笑顔になっていた。
「氷河自身より、彼の恋人の方がプロファイリングしやすいの?」
「そういうわけではないんですけど、氷河は とにかく口数が少なくて……。氷河は自分自身には あんまり興味がないのか、自分のことは ほとんど語らないんです。氷河がどんな人間なのかは、彼の目の中にいる恋人像から探るのが いちばん手っ取り早いっていうか……」

氷河は本当に自分のことを語らない。
記憶がないんだから、それは当然といえば当然のことなんだけど、半年前にグラードの病院に半身不随で記憶喪失状態で収容されたのなら、この半年間の自分を語ってくれればいいのに。
つらいリハビリ生活のことを語りたくないというのなら――氷河は自分の不幸や苦労を自慢して悦に入るような人じゃないから、それは大いにあり得る――記憶のない自分の不安を訴えてくれれば、僕は その不安の感じ方から彼の記憶を探り出すヒントを得られるかもしれないのに、氷河はそれもしてくれない。
でも、氷河には 語りたいこと、訴えたいことが たくさんあるはずなんだ。
彼の目が そう言っている。
氷河の目――熱くて冷たい、不思議な青い瞳。
僕は、氷河の瞳の魔法の力に囚われてでもしたかのように、自分でも理解できないほど 急激に彼に惹かれていく自分を自覚していた。

「きっと、氷河は とても愛していたんです、その人を。その人だけを。氷河は大勢の人と付き合うタイプじゃない。意に沿う人がいないなら、孤独でいた方がいいと感じるタイプだ。友人関係も、ごく少数の人と深く付き合うタイプ。恋をしたら、きっと、他の誰も何も目に入らないくらい、その人だけを見詰めて――」
どうしてだろう。
氷河の恋人は、僕にとっても大切な人だ。
彼女は、氷河の過去と人となりを探るヒントを僕に与えてくれる。
なのに、沙織さんに 氷河とその人との恋を語っているうちに、僕は悲しくなってきた。
悲しいと感じる自分が つらくて苦しい。
僕は、その人に妬ましさを感じ始めている。
記憶を失っても、氷河が その人だけを求めていることが悲しくて、氷河に求められているその人が、僕は羨ましくて妬ましかった。

その人が 今、氷河の側にいないことが氷河を苛立たせている。
その人はどうして今、氷河の側にいないんだろう。
氷河が自分を忘れてしまったから?
僕なら、氷河が僕を忘れてしまっても、絶対に氷河の側から離れないよ。
氷河以上に深く強く人を愛することのできる人は、きっと他にいないもの。
氷河の恋人は、だから、自分自身も強く深く氷河を愛することができる。
氷河は、自分の愛した人になら、どれだけ強く深く愛されても、それを負担に思わず、もっと強く深い愛で応えてくれる人だ。
きっと僕がどんなに深く氷河を愛しても、氷河はそれを迷惑がらない。
氷河が僕を愛していさえすれば。
なのに、氷河は僕を愛していない。
氷河の恋人は他にいて、僕は氷河の恋人じゃない――。

「あなたが その人に成り代わってしまったらどう?」
「えっ」
“その人”への嫉妬のせいで ぼうっとして、僕は 今 自分がどこにいて、誰と対峙して、何をしているのか忘れてしまっていたらしい。
沙織さんの声と言葉が、突然 僕の意識の中枢に飛び込んできて、僕は一瞬で我にかえった――現実世界に戻ってきた。
それは、あり得ないほど多くの問題を はらんだ、まさに問題発言だと思うのに、その発言をした当の沙織さんの表情は いたってのんきなものだった。
軽薄といっていいほど軽やかに、彼女は 自分の思いつきに悦に入っていた。

「あなたが彼と親密になってくれると、それは私にも益をもたらすのよ。それって、利害ではないもので つながっているボディガードが一人増えるということでしょ。彼の場合は、ボディガードのボディガードということになるかもしれないけど、それはそれで得難いボディガードだわ。報酬でつなぎとめているボディガードって、私の好みじゃないのよね。もちろん そういう人たちは、いわゆるプロで、プロ意識というものもあるでしょうし、職業倫理や契約上の規制も有効だけど、そういうのって、要するに それだけのことだから。万一 彼等が仕事を履行できなくて私が命を落とすことになっても、契約で定められたペナルティの支払いが行われて、それで契約は完遂されたことになる。それじゃあ、私は死んでも死にきれないわ。私が職業的ボディガードを雇わないのは、そんなプロより あなたの方がずっと信用できるからよ。あなたが いちばん信頼できるから。あなたは、私と金銭でつながっているわけじゃない。もしボディガードの不首尾で命を落とすことがあったとしても、それが あなたなら、私は『今までありがとう』って感謝して死んでいけるわね」
「沙織さん……」

沙織さんは、真の意味で“クール”なんだと思う。
冷静で、恰好いい。
沙織さんは、それこそ冷酷冷徹に振舞わなければならない場面に立ち会うことが多いだろうし、そういう時には 沙織さんはちゃんと冷徹に振舞うだろう。
でも、それでも沙織さんは 人の心を最も重要視している。
人と人の心のつながりを信じている。
だから沙織さんは恰好いいんだと思う。
そういうところが、人間離れしている この人を、人間として恰好よくしているんだ。
僕は、彼女がとても好きだ。
彼女になら、利用され捨てられても構わないと思うくらい。
もし彼女がそんなことをしたら、彼女にはそうしなければならない理由があったんだと、無条件に思えるから。

その沙織さんにけしかけられて、一瞬 僕は本気で、僕が その人の代わりになることは可能だろうかと考えた。
もちろん、その人が氷河の側に戻ってくるまででいいんだ。
僕がそんなことを考えるようになったのは、沙織さんに けしかけられたのが直接のきっかけだったけど、おそらく僕は 本当は沙織さんに けしかけられる前から、心のどこかで そうなったらいいと願っていたんだ。
意識して、言葉で、思考を形作ることをしていなかっただけで。






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