それからも僕と氷河は、見詰めて、見詰められて、目が会うと慌てて目を逸らしたりしながら、日々を過ごしていた。
でも、徐々に僕は 氷河と目が会っても 視線を逸らすことをしなくなったんだ。
氷河は言葉では自分を語らない。
その瞳で語ることしかしない。
だから僕も、言葉ではなく目で語ることを始めたんだ。
僕が氷河に訴えたいことは、言葉にはできないことだったから。
僕たちは、気がつくと、言葉もなく見詰め合っていることが多くなった。

そんな日が10日も続いただろうか。
――僕は、氷河の“その人”に そんなに似ているんだろうか。
ある日、ある夜、氷河が僕の部屋にやってきて、そして 僕を抱きしめた。
抵抗しようと思えば、できたんだ。
でも、氷河の青い瞳に見詰められたら、あの声で名を呼ばれたら、僕の四肢からは力が抜けてしまって、気がつくと、僕は氷河の下で涙を流し、喘いでいた。

着衣の姿を見て美しいと思っていた氷河の身体は、確かに素晴らしく均整がとれていて、美しくて、熱くて、たくましく情熱的だったけど、その肩や胸や背には たくさんの古傷が残っていた。
でも、それすら 僕の目には たとえようもないくらい美しいものに見えて、彼を僕の中に受け入れた時には、僕にまで彼の美しさが伝染ってくるんじゃないかとさえ思った。

それは どういう意味でも“正しくないこと”のはずなのに、氷河と つながっている僕は、気が狂いそうになるほど幸福だった。
氷河の声は温かくて、氷河の身体は熱くて、彼と交わっているのは痛いほどなのに――痛いほど気持ちがいい。
これ以上ないほど ぴったりと触れ合っている二人の身体。
優しかった氷河の手や腕は いつのまにか鋭い爪を蓄えた肉食獣の前脚になって 僕の身体を押さえつけていた。
身動きができなくなった僕の身体は 氷河に大きく乱暴に揺さぶられ、僕は僕の身体が僕のものだと思うことができなくなり、自分が何者なのかもわからなくなり――そんなふうに、僕の すべては氷河に為されるままなのに、僕はちっとも氷河が恐くないんだ。
氷河がそうしたいのなら、氷河がそれで満足してくれるのなら、彼に骨まで食い尽くされて 僕自身は無になってしまっていいって思った。
そう、氷河になら、利用され、裏切られ、捨てられてもいいって。

でも、今この瞬間は、氷河は 僕を必要としていて、だから彼は僕だけのものだ。
そう訴えるように 氷河を締めつけたら、氷河は、今この瞬間だけはそうだと答えるみたいに、極限まで緊張していた力を僕の中に解放した。


その瞬間――僕は本当に幸福だったんだ。
本当に、その瞬間だけ。
二人の身体が離れ、熱狂的な幸福の余韻が薄れるにつれて、僕は つらく悲しくなってきた。
“その人”の代わりになりたいと願ったのは僕だ。他の誰でもない、僕自身。
なのに僕は、心のどこかで、その望みが叶ったことを悲しんでいた。
氷河が“その人”を裏切ったことを。
僕は、氷河は“その人”を裏切るような人じゃないと信じていたから。
僕は、氷河に変わってほしくなかった。
氷河には、“その人”だけを思っていてほしかった。

そう願う気持ちは嘘じゃないのに、僕は、“その人”の代わりに いつまでも氷河に抱きしめられていたいとも思うんだ。
僕が恐かったのは、僕がそれを望めば、氷河はまた僕を抱きしめてくれるだろうと思えてしまうことだった。
“その人”だけを愛している氷河の誠意誠実を、僕が僕の我儘で汚してしまうこと。
氷河が僕のせいで変わってしまうこと。
そんなことに、僕の心は耐えられない。
それは、氷河が、僕が心惹かれた氷河ではなくなるということだから。

だから、僕は、氷河から離れること、そのために城戸邸を出ることを決意したんだ。
氷河と初めて肌を合わせた夜が明ける頃にはもう、僕の決意は固まっていた。






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