城戸邸は、僕が幼い頃からずっと暮らしてきた家だ。 ここ以外に僕の“家”はない。 なのに、どうして こんなに簡単に“家”を離れる決意ができてしまうのか――僕は、そんな自分が自分でも不思議だった。 でも、氷河には他に行くところがなくて、僕は氷河の側にいられないんだから、出ていくのは僕の方だろうと、僕は ごく自然に思ったんだ。 その日も、氷河はずっと僕を見詰めていた。 僕は素知らぬ振りをしてたけど、沈む気持ちを隠しきれていなかったんだろう。 つい昨日までは、静かなのに威圧するように強く厳しく、どこか切なげな熱っぽさをたたえていた氷河の瞳は、今日は やたらに気遣わしげで、気弱そうにさえ見えた。 氷河は 僕にひどいことをしたと考えているのかもしれない。 そう思って、僕は、氷河の心を安んじさせるために、彼に『今夜も僕の部屋に来て』って言ったんだ。 それで氷河は安心したみたいで、そして、子供みたいに嬉しそうな顔になった。 可愛い――って、僕は氷河を可愛いって、心から思った。 そして、ひどく切なくなった。 僕は、こんなに可愛い氷河と もう二度と会えなくなるんだ。 そう思ったら、僕の瞳には涙が盛りあがってきた。 その夜、氷河が僕の部屋に来る前に、最低限の身の回りのものをまとめて、僕は城戸邸を出た。 ――正確には、出て行き損ねた。 人に怪しまれないように、荷物はスーツケースやキャリーケースでなく 小さなスポーツバッグにまとめていたんだけど、宵の口に そんなものを抱えて こそこそと外に出ていこうとする僕は、十分に怪しい人間だったんだろう。 それは少なくとも、ふらっと散歩に出る人間の恰好じゃなかった。 もしかしたら氷河と沙織さんは、僕の気配を感じとれる特殊能力でも備えているんだろうか。 まさか 氷河と沙織さんが僕の動向を怪しんで見張りについていたとは思えないんだけど、僕は城戸邸の玄関を出て10歩も歩かないうちに――門にも辿り着けないうちに――沙織さんに呼び止められてしまった。 「どこに行くつもりなの。アンドロメダ島はもうないのよ」 僕に そう尋ねてきたのは沙織さんで、沙織さんの後ろには、氷河が つらそうな目をして僕を見詰めていた。 『アンドロメダ島』 それは何。どこ。 そんなもの、僕は知らない。 でも、それは、なぜか とても懐かしく、僕の胸を騒がせる響きだった――『アンドロメダ』。 沙織さんは少し――ううん、かなり――機嫌が悪いみたいで、 「ちゃんと自分を抑えることができるというから、私は あなたにここに来ることを許したのに。あなたに自制心なんてものを期待した私が馬鹿だったわ」 そう言って、彼女は氷河を睨んだ。 氷河は――氷河は、何ていうか、ジュースの入ったグラスをテーブルの上で倒して 母親に注意されてる子供みたいに 気まずそうな顔をしていて――。 これ以上 沙織さんの機嫌を損ねないようにしようと思ったのか、氷河は 沙織さんに命じられる前に僕の側に飛んできて、僕の手からバッグを取りあげた。 そして、僕の肩に手を置いて、邸内に戻るよう促す。 沙織さんと氷河。 この二人に止められてしまったら、僕は家出を強行することはできなくて、氷河の手に促されるまま、邸の中に戻ったんだ。 |