ラウンジのソファに座らされた時、僕の心と身体から緊張が抜けていったのは、冷たい冬の庭から暖かい室内に戻ってきたからっていう理由だけじゃなかっただろう。
僕は やっぱり沙織さんの側にいるのが好きなんだ。
沙織さんと氷河。
二人は 僕を すごく緊張させもするけど、同時に 僕の心身を くつろがせてもくれる人たちだった。
もっとも、この二人の側に戻ってこれたっていう僕の安堵の気持ちは、
「瞬。氷河は記憶を失ってはいないの。記憶を失っているのは、あなたの方よ」
という沙織さんの言葉で、どこかに吹き飛んでいってしまったけど。
「え……?」
沙織さんは急に何を言い出したんだろう。
そんなこと、あるはずがないのに。
記憶を失ったも何も、僕の中には、物心ついた小さな頃から今までの記憶が すべてある。

戸惑い 瞳を見開いた僕を、沙織さんは、まるで雨に打たれて弱り、死にそうになっている子猫でも見るような目で見詰め見下ろしてきた。
僕は健康で、元気で、少なくとも身体は死にかけてなんかいなかったのに。

「あなたの中にある記憶は、あなたが作ったものよ。あなたが この家で暮らしていたのは、ごく幼い頃の1年足らずの間と、アンドロメダ島からの生還以降だけ。あなたの記憶の中で 本物の記憶と呼べるものは、あなたが小さな子供だった頃の記憶だけで、それ以降の記憶は すべて あなたが作り出したもの」
「そんな……そんなこと……」
そんなこと、あるはずがない。
だって、僕はちゃんと憶えている。
沙織さんと この家で過ごしてきた10年以上の日々。
それが全部、僕が作ったものだって、沙織さんは言うの?
そんなこと、あるはずがない。
あり得ないよ。

「あなたは、この家から小学校、中学校に通ったと思い込んでいるようだけど、どこの学校に通っていたの。そこで、友だちはできた?」
「え……」
「あなたが私のボディガードを務めるようになったのはいつ? この半年以前に、私と外出した記憶はあって? それはどこのパーティ? 会場はどこ? 何年前のこと?」
「それは――」
「あなたは動体視力が優れていて、不審な動きをする者をすぐに見付け出すことができるから、フィールド・プロファイラーになれるわと、私が半ば冗談で あなたに言ったのは、ほんの5ヶ月前のことよ。あなたは、それがあなたの記憶の空白部分を埋めるのに都合のいい考えだったから、すぐに自分はそういうものだという記憶を作り、自分でも信じ込んだ。あなたには プロファイリングを勉強した記憶はないでしょう?」
「……」
僕がプロファイリングを勉強したことがない?
ううん。
僕はちゃんとそれを勉強した。
沙織さんが、僕のために それを教えることのできる講師を呼んでくれて、その人について、ちゃんと――。

「ぼ……僕は、早くに親を亡くして、ここに引き取られて、沙織さんの好意で ここに住むことを許されて、代わりに沙織さんのボディガードとして――」
「この半年の間だけね。あなたは それを、もう何年も続けてきたと思い込んでいるようだけど、それは無理なことでしょう。あなた、歳はいくつなの。10歳の子供に10歳の子供のボディガードが務まるわけがない」
「……」
僕が沙織さんのボディガードを務めるようになったのは いつ……?
沙織さんの言う通りだ。
常識で考えたら、10歳の子供が そんな仕事を任されるわけがない。
でも――。

「あなたは、自分の身体能力が尋常でないことはわかっているでしょう。どこで、どうやって、その力を養ったの」
「……それは……自然に……」
「普通の人間はね、自然にそんな力は身につかないの。厳しい体練なしに、それは不可能。あなたが宇宙人か超能力者だとでもいうのなら、話は別だけど」
「……」
4、5歳で城戸邸に引き取られてからの10数年。
沙織さんに問われて、僕は気付いた。
僕が明瞭に、具体的に思い出せる記憶は、ここ半年の間のものだけだということに。
1年前に 僕がどこで何をしていたのか、僕の中に明確な記憶はなかった。
呆然としている僕に、沙織さんが語った僕の真実の10数年間。
それは、僕が作り出した架空の記憶の方が よほど現実的だと思えるくらい、荒唐無稽なものだった。

仲間や兄たちから引き離されて送られたアンドロメダ島。
厳しい修行の末に、僕がアテナの聖闘士の称号とアンドロメダ座の聖衣を手に入れたこと。
女神アテナである沙織さんに従って戦い続けた十二宮、冷たく厳しいアスガルドの地、ポセイドンの海底神殿。
そして、冥界の王ハーデスから地上世界を守るために赴いた死者の国。
そこで僕たちは死の国の王との戦いに勝利し、地上を死の世界にしようとするハーデスの野望を打ち砕いたのだという。

「私とあなたたちは、そうして地上に帰ってきた。でも、あなたは 戦いの記憶を失い、氷河は身体の右半分が動かなくなっていたの。あなたに会っても、自分は あなたの負担にしかなれないと言って、氷河は ずっと あなたに会わずにいた。あなたは――こういってはなんだけど、都合よく記憶を失っていたから、あなたの側にあなたの仲間たちがいないことを あなたに不審に思われることはなかった。厳しいリハビリに耐えて普通に動けるようになってからも、戦いの記憶を失い 戦いのない日々を平穏に暮らしているあなたに つらいことを思い出させるようなことはしたくないと、氷河は あなたに会わずにいたのよ。しばらくの間は。私は氷河の決意に感動さえ覚えていたのだけど、なにしろ氷河は こらしょうがなくて――」
「じゃ……じゃあ、氷河の恋人って……」
「あなたよ。もちろん。氷河は極度の面食いで――いえ、極端に理想が高くて、気難しくて、おまけに とんでもないズボラでしょう。あなたくらい綺麗で、気が利いて、忍耐強い世話好きでないと、氷河の恋人なんか務まらない」
「僕が……氷河の……」
何が何だか わからない。
喜べばいいのか、悲しめばいいのかすら。
沙織さんの話を聞いても、僕は何も思い出せなかった。

「氷河は、あなたに会って、あなたの記憶を取り戻させることなく、もう一度 あなたと恋し合えるようになることを目論んでいたのだけど、ほんと、駄目ね。この 不器用で気が利かない聖闘士は、共に戦うことででしか 人と心を通わせ合うことができない。氷河は あなたを睨んでいることしかできなくて――」
「睨んでいたわけではない」
氷河が初めて口を開く。
氷河は、自分が僕にひどいことをしたから、僕が傷付いて この家を出る決意をしたと思っていたんだろう。
不器用で気が利かない聖闘士の氷河は それまで、ただただ つらそうな目をして僕を見詰めているだけだった。
沙織さんの語る荒唐無稽な話を否定することもなく。
「私には、あなたが瞬を優しく見守っているようには見えなかったわよ」
からかうように 氷河にそう言ってから、沙織さんは僕に尋ねてきた。

「思い出したい?」
――って。






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