「え」 何を訊かれたのか、僕は咄嗟に わからなかった。 沙織さんが あまりに軽い口調で僕に訊いてきたから。 まるで雛祭りの雛あられを『ほしい?』って訊くみたいに。 沙織さんが その声音通りに軽い気持ちで 僕に訊いてきたんじゃないことは、すぐにわかったけど。 「あなたが私の聖闘士だった頃、私の聖闘士たちの戦いは とても熾烈で悲惨なものだったわ。人を傷付けることが嫌いな あなたには、特に つらいものだったでしょう。ハーデスとの戦いを終えて地上に帰ってきたあなたが、私の聖闘士として戦った時間の記憶を すべて失っていると知った時、私はそれを冥界崩壊の影響やハーデスの力によるものではなく、あなた自身が忘れたかったから忘れたのかもしれないと思ったの。つらい戦いの記憶など ないに越したことはないし、あなたが戦いの記憶を手放したことは、もう戦いたくないという、あなたの意思表示なのではないかと思った。私自身にも、あなたたちに つらい戦いを強いたという負い目があって――あなたの記憶を取り戻させることが、あなたのためになるかどうかが わからなかったの。でも、あなたが思い出したいのなら――」 「思い出せるんですかっ !? 」 僕は、気負い込んで 沙織さんに尋ねていた。 問いかける僕の頬は、きっとピクニックの計画を打ち明けられた子供みたいに上気していただろう。 そんな僕とは対照的に、沙織さんの表情は、興奮した子供を たしなめる母親みたいに厳しくなっていた。 「慎重に考えて。私の聖闘士としての あなたの戦いは 本当に つらく苦しいものだったのよ。その記憶を取り戻せば、あなたは、あなたが傷付け倒した者たちのことも思い出さなければならなくなる」 沙織さんに そう言われ、僕は少し冷静になったんだ。 冷静になって考えて、でも、僕の心は変わらなかった。 僕が過去に どれだけの人を傷付け倒してきたのかを、今の僕は知らない。 でも、その事実を僕が忘れてしまうことは、僕に傷付けられ倒されていった人たちには、この上ない侮辱だろう。 僕は、その人たちのためにも、すべてを思い出さなければならない。 決して高慢な気持ちからではなく――僕は そう思った。 「僕は思い出したい。それが どんなにつらい記憶なのだとしても、僕は自分の行動と自分が生きてきた時間に責任を持ちたい。そして、氷河と過ごした時間の記憶を取り戻したい」 沙織さんは、僕の答えを最初から知っていたと思う。 たとえ思い出したくなくても、思い出さなければならないと、僕が判断することを。 だから――これまで僕の記憶が失われていることを、沙織さんが僕に気付かせずにいたのは、沙織さんの優しさ――ううん、甘やかしか、ただの過保護だったんだ。 でも僕は、沙織さんや氷河に守られ甘やかされるだけの人間ではいたくない。 僕の決意が変わらないことを悟ると、沙織さんは、 「了解」 と、短く言った。 次の瞬間、途轍もなく強大な小宇宙が僕の身体を包み、それは 僕の心の中に染み込んできた。 『 沙織さんの小宇宙に触れることで、僕は その言葉と これまでのすべてを思い出した。 氷河が、気遣わしげに、そして どこか つらそうに、僕を見詰め 見下ろしている。 僕は 氷河に飛びついて、両腕を氷河の首に絡みつけていったんだ。 「どうして もっと早く思い出させてくれなかったの! 遠慮深くて臆病な氷河なんて、僕の氷河じゃないんだからね!」 氷河も沙織さんも、僕のことを考えて、気遣って――考えすぎて、気遣いすぎて、らしくもない遠慮深さを発動することになったんだ。 それは わかってる。 それは わかってるんだ。 でも、僕は氷河を責めずにはいられなかった。 氷河に僕以外に大切な人がいるんだと思って、暗く鬱々としているなんて、そのことの方が僕にはつらい。 つらかったんだ、僕は。 「すまん」 本当に つらかったのに――氷河の短い謝罪の言葉で、僕はすぐに氷河を許してしまった。 僕は、自分が甘やかされるのは嫌いだけど、氷河を甘やかすのは大好きだったから。 |