戦争と平和






争いの女神エリスは、争いの女神ですから、争い事が大好きです。
自分が争い事に巻き込まれるのは嫌いなのですが、争いを起こすことと、その争いを高みの見物することは大好き。
そして、当然、平和が嫌いでした。

ところで、最近、地上は至極平和でした。
大きな戦争もありませんし、内乱も革命もありません。
平和なのならいいじゃないかと、大抵の人間は思うでしょう。
実は、大抵の神様も そう思うのですが、地上に争い事がなく平和だということは、エリスには とても大きな問題でした。
何といっても、地上に争い事がないということは、争いの女神が仕事をしていないということでしたから。
オリュンポスの神々に、『争いの女神は最近 仕事を怠けているようだ』なんて思われたら大変です。
そこで、エリスは、地上世界に何か大きな争い事を起こすことにしたのです。
彼女は早速、彼女の部下である亡霊聖闘士ゴーストセイントたちを呼び、最近 地上に何か いい争い事の種はないかと、彼等に尋ねました。

ちなみに、亡霊聖闘士というのは、死んでしまった聖闘士を エリスが生き返らせた者たちのことです。
エリスには幽冥エレボスという伯父さんがいるのですが、エリスは彼に頼んで彼等を生き返らせてもらったのです。
大抵の神や人間は争い事が嫌いですから、自分から望んで争いの女神の部下になるような者は滅多にいませんからね。
エリスは、そんなふうに、一度 死んでしまった者たちに(無理矢理)恩を売って、自分の部下を作るしかなかったのです。

それはさておき、エリスに いい争い事の種はないかと訊かれて、亡霊聖闘士の一人、オリオン座のジャガーは困った顔になりました。
彼が困った顔になったのは もちろん、彼が エリスの期待に沿える答えを持っていなかったからです。
「それが……最近、人間たちは 妙に ずる賢くなってきて、争い事というものを なかなか起こさなくなってしまったんです。領土問題、貿易不均衡等、争いの種は いくらでもあるんですが――。戦争は勝っても負けても 国の疲弊と衰退を招き 第三国を利するだけだと悟って、人間たちは 昔ほど景気よく戦争をしてくれなくなったんですよ」
「もちろん、それはエリス様の怠惰のせいではありません」
ジャガーの答えを聞いて不機嫌な顔になったエリスに すかさずフォローを入れたのは、矢座サジッタの魔矢でした。
ですが、魔矢は、決して エリスにおべんちゃらを言ったわけではありません。
不愉快なことがあると、エリスは彼女の部下たちに当たり散らすのです。
魔矢は その事態を避けるために――言ってみれば、自分と仲間たちの平和な日々を守るために、エリスに 太鼓持ちのようなことを言ったのでした。

「もちろん、私のせいであるはずがないわ!」
魔矢の気遣い――保身とも言います――に気付きもせず、エリスは傲然と頷きました。
そうしてから、彼女は、
「トロイア戦争はよかったわねー」
と言って、長い溜め息をついたのです。
トロイア戦争が起きていた時、彼女は 栄光に輝き、得意の絶頂にありました。
それはエリスの人生の中で最も幸せな、今となっては懐かしい日々でした。

トロイア戦争は、エリスが、神々の女王ヘラ、愛と美の女神アフロディーテ、知恵と戦いの女神アテナの間に、『最も美しい女神へ』と記した一個の黄金の林檎を投げ入れたことに端を発して勃発した戦争です。
その美神コンテストの審判として選ばれたのが、トロイアの王子パリスでした。
パリスは、世界を支配する力を与えると言ったヘラ、あらゆる戦いで勝利を得る力を与えると言ったアテナを退け、世界一の美女を与えると言ったアフロディーテに、黄金の林檎を手渡しました。
アフロディーテが大喜びしたのは言うまでもありません。
というか。
愛と美の女神が最も美しい女神でなかったら、美の女神の立場がありませんから、自分の立場が守られたことに、アフロディーテは大層安心したのです。

ところが、彼女がパリスに与えると言った“世界一の美女”が、スパルタ王メネラオスの妃ヘレネだったから、さあ大変。
妻を異国の若造に奪われたメネラオスは、彼の兄であるミュケーナイ王アガメムノンに泣きつき、アガメムノンは弟に加えられた侮辱を払いのけるために東奔西走。
あれこれ紆余曲折の末、エリスが投じた黄金の林檎に端を発した美神コンテストは、最終的にトロイアとギリシャ連合軍の全面戦争へと発展してしまったのです。

トロイア戦争は10年続きました。
その結果、トロイア王家は滅亡、ギリシャの各都市国家は長い戦争のために疲弊し、混乱し、多くの国が消滅することになりました。
要するに、トロイア戦争で、争いの女神エリスは、実にいい仕事をしたのです。
地上に人間の数が増えすぎて、当時、大神ゼウスは人口問題に悩まされていました。
トロイア戦争で たくさんの人間が死んだおかげで人口問題が解決したと、エリスはゼウスから、大層な お褒めの言葉も もらいました。
あんなふうに華々しい戦争を、もう一度。
エリスは、自分が再び栄光に輝く日の到来を夢見ていました。

「メネラオスは不細工で冴えない男だったから、若い美形のパリスにヘレネを奪われたのが よっぽど悔しかったんでしょうね。してみると、愛情問題というのが、最もお手軽な争いの種ということになるのかしら。どこかに いいターゲットがいればいいんだけど、どこかにいない? 若くて、無分別で、我儘で、恋のために脇目もふらずに突っ走りそうな王子サマは。大きな軍隊を持っている大国の王子がいいわ。もちろん美形の王子よ。美形でなくちゃ、話が始まらないわ」
エリスの希望は当然のものだったでしょう。
恋で騒ぎを起こすのなら、当事者は とびきりの美形でなくてはなりません。
平凡な顔立ちの男女の恋なんて、大戦争に発展しそうな気がしません。

彼女の下問に答えたのは、楯座スキュータムのヤンでした。
「それは捜せばいないことはないでしょうが、昨今の人間共は――ジャガーも言っていましたが、 ずる賢いというか、せこいというか、しみったれているというか――。今時の王家の王子や姫君は 恋なんかしないんですよ。恋のために脇目もふらずに突っ走る王子なんて、そうそう いるとは思えません」
「恋をしない? では、今時の王家の王子や姫君はどうやって結婚相手を決めるのだ?」
エリスの疑問は至極尤も。
結婚というイベントは、生涯を共にしたいと願う、愛し合う男女によって執り行われるもの。
まず恋が生まれなければ 結婚は成立せず、結婚が成立しなければ 後継ぎが生まれず、後継ぎが生まれなければ、その王家は断絶してしまいます。
それは、どこの国の王家でも、何としても避けなければならない最悪の事態のはずでした。

「それはまあ……自国に最も利益をもたらすだろうと思える国に、婚姻契約を持ちかけるわけですよ。もちろん、その判断と決定は、結婚する当人たちではなく 国王や大臣たちが行なう。結婚の当事者である王子や王女に決定権は与えられません。年頃の若い男女なんて、国益の何たるかもわかっていないでしょうから」
エリスの至極尤もな疑問に答えたのは、 南十字星座サザンクロスのクライスト。
クライストの話を聞いて思い出したのか、
「そういえば、ヒュペルボレイオスの国が未来の王妃募集中だったような」
と呟いたのは、琴座ライラのオルフェウスでした。
「ああ、あの氷河とかいう――」
オルフェウスが出した名を聞いて、サジッタの魔矢が苦笑を洩らします。
なぜ ここで苦笑が出てくるのか、エリスは怪訝に思いました。

「氷河? その王子は有名人なの? ヒュペルボレイオスといえば、地上世界では一、二を争う大国じゃないの」
「有名ですよ。かなりの変人ですから。今時 珍しく、国の利害より自分の気持ち優先の我儘王子で、持ち込まれる縁談をかたっぱしから断っているんです」
「まあ!」
ジャガーの言葉が、エリスの瞳を輝かせます。
争いの女神エリスには、それはとても素敵な情報でした。
「では、その氷河という王子は、多くの姫たちの憎しみを買っているに違いないわね」
「それは何とも……。クライストも言っていましたが、昨今の王家の婚姻は何よりもまず国の利益優先。結婚相手を決めるのも、王子本人、姫君本人ではありませんから、縁談を断られた姫君たちも、両国の婚姻の条件が折り合わなかったのだろう程度にしか思っていないかもしれません。ヒュペルボレイオスの氷河王子のように、自分の意思を通そうとする王子は珍しいんです。縁談を断られるのが氷河王子なら 腹を立てることもあるかもしれませんが、自分の意思や好みを通そうとする気概のない温室育ちのお姫様たちは、自分との縁談を拒絶した相手に 恨みや憎しみを抱くことはないでしょう」

「あー、詰まんない!」
聞いても ちっとも楽しくないヤンの解説に、エリスは、小さな子供のように腕を振り回して、遺憾の意を表明しました。
「ほんと、詰まんない! もっとプリミティブに情熱的に無分別に、己れの情熱の赴くまま、奔放に生きている人間はいないの。コルキスのメディアみたいに!」
「ああ、あの女は確かに稀有な女でしたね。自分の幸福より、プライドの方が大事。他人にどう思われようが、全く お構いなし」
「ええ、メディアは本当に いい女だったわ。自分の進む道を邪魔をする者は すべて殺し、自分を侮辱する者は 徹底的に打ちのめす。自分の恋を成就するために実の弟を殺し、自分を裏切った夫に復讐するために 彼との間にできた我が子たちを殺すことさえしてのけた。あの怒り、あの憎しみ、あの執念、あの激しさ! メディアは最高の女だったわ!」

「そ……そうですね……」
争いの女神にとっては最高の女なのかもしれませんが、男の側にしてみれば、メディアは最も遠慮したいタイプの女性です。
それでも亡霊聖闘士たちがエリスに相槌を打たなければならないのは、彼女の機嫌を損ねると、死の世界に送り返されてしまうかもしれないから。
せっかく取り戻した命を、彼等は大事にしたかったのです。

「なのに、そんな女は もういない。今時の人間たちは皆、平和ボケした狡猾な なあなあ主義者ばかり。与えられた命を どう生きようと、それは その人間の勝手だけど、彼等は そんなんで 生きているのが楽しいのかしら!」
エリスの怒りと嘆きは、亡霊聖闘士たちにもわからないではなかったのです。
自分の意思を放棄し、自分の欲を諦め(むしろ、欲を持たずに?)、他人に決められた通りの人生を唯々として生きることが楽しいことだとは、彼等にも思うことはできませんでした。
その点に関しては、亡霊聖闘士たちはエリスに同感していました。
エリスの苛立つ気持ちは、亡霊聖闘士たちには よくわかりました。
けれど、その苛立ちが なぜ、
「こうなったら、私が直接ヒュペルボレイオスに乗り込んで、その氷河王子とやらに求婚してやるわ!」
という話に発展していくのかは、人の倍の人生を生きようとしている亡霊聖闘士たちにも 皆目理解できなかったのです。

「は?」
亡霊聖闘士たちは、エリスの宣言を聞いて、揃って目を見開きました。
エリスは、その様を、亡霊聖闘士たちが自分のアイデアの素晴らしさに度肝を抜かれたのだと勝手に解釈して、鼻高々。
争いの女神は、いよいよ気負い込んで自分のプランを語り続けました。
「エレボスの国の王女とでも名乗って、その氷河とやらに結婚の申し込みをしに行くのよ。受諾されたら、大国ヒュペルボレイオスを私の意のままにして戦争に走らせることができるし、拒絶されたら、死者を大量に生き返らせて軍隊を作ってヒュペルボレイオスに戦争を仕掛ける。どっちに転んでも、楽しいことになりそうだわ!」
「いや、しかし、それはちょっと……」
「それはちょっと、何? おまえたちは、私の決めたことに何か文句でもあるの」
「滅相もない!」

エリスのご機嫌を損ねたら、亡霊聖闘士たちは 冷たく暗い死の国に送り返されてしまいます。
エリスがどんな無謀や我儘を言い出しても、亡霊聖闘士たちに異議を唱える権利はありません。
部下の生殺与奪の権を握っている絶対君主への奉公は 命がけの綱渡り。
『すまじきものは宮仕え』と昔の人も言っています。
ですが、人に仕え人に使われる身に、誰が好き好んでなるでしょう。
少なくとも、亡霊聖闘士たちは 自ら望んでエリスの部下になったのではありませんでした。
せっかく生き返ることができたのですから、もう一度 死ねと言われたら、それは丁重にお断りしたいですけどね。
そんな亡霊聖闘士たちは、ですから、得意満面のエリスの前で、ひたすら かしこまっているしかありませんでした。






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