さて、そういうわけで、2日後のヒュペルボレイオス。
北の大国の壮麗な王宮の一室で、噂の氷河王子は、彼の侍従に不機嫌を極めた大声を投げつけていました。
「エレボス? そんな国の名、聞いたこともないぞ。追い返せ、追い返せ!」
「はあ……。ですが、確かに有力な国のようなのです。持参のお土産が長櫃いっぱいのダイヤモンドなんですよ。それに、何といっても王女自ら お越しなのですから、ここはあちらの顔を立てて――」
「会わん! ダイヤなんて、我が国ではパンのひとかけ、石炭ひとかけの価値もない代物だ。北の国の人間に何を贈れば喜ばれるのか、そんなこともわからない王女なんて、アタマの出来も たかが知れている!」
「そこが世間知らずのお姫様らしいではありませんか。それに結構な美少女らしいですよ。会うだけでも――」
侍従は、氷河王子を その気にさせるために、彼なりに頑張ってみたのですが、氷河王子の答えは にべもありませんでした。

「会わんと言ったら、会わん! 俺には心に決めた人がいる。その人に顔向けできなくなるような不誠実は絶対にしない!」
「それなら その方に会わせてくださいと、何度も申し上げているでしょう」
「そう簡単に会わせられるか、もったいない!」
『本当は心に決めた姫君などいないくせに、見栄を張るんじゃない、このマザコン!』と言ってしまえないのが、宮仕えの つらいところ。
宮仕えが大変なのは、どこの世界でも同じです。
仕える主が常識的な価値観を持たず、我を張るタイプなら なおさら。
お金持ちで美少女なら、大抵の男が食指を動かされるはず。
氷河王子の侍従は、自分がそうでしたから、それが普通の反応、普通の価値観だと思っていました。
それが普通でない氷河王子に仕えることは、ですから、彼には 気苦労の絶えない つらい仕事だったのです。

ちなみに、ヒュペルボレイオスの現国王である氷河王子の叔父君は、
「本当に心に決めた姫君がいるのなら、さっさとプロポーズしてしまえ。どんな国の姫君でも、大国ヒュペルボレイオスの王子の求婚を断ることなどあるまい。いや、姫とは言わん。平民でも 乞食娘でもいい。公式行事で おまえと並んで立った時に、おまえに見劣りしないほど美しく、その姿を見た国民が、ウチの王室は美形揃いと誇らしい気持ちになる娘なら、誰でもいい」
と言って、毎日のように氷河王子に結婚を促していました。
実は、それも、氷河王子の侍従には少々納得できない希望でした。
一国の王子が平民の娘や乞食娘を妻に迎えるなんて、彼の常識ではあり得ないことだったのです。

ですが。
人の価値観はそれぞれです。
力、プライド、財、美貌、名誉に愛。
何を最も重要に思うかは、その人間が生まれ育った環境、受けた教育、出会った人、その他諸々によって全く違ってきます。
厳しい気候の北国に暮らす人間には、ダイヤモンドより食べ物や燃料の方が価値あるものであるように、大国の王には、既に手許にあり余っている金品より、その金品をもってしても手に入れることの難しい美しさの方が価値あるものであるように。
権力者になれるのなら、個人的な幸福などいらないという者もいれば、綺麗な恰好をしていられるなら、破産してもいいと思う人間もいます。
人に立派な人物と言われるためになら、財産などいらないという人間もいます。
死後 天国に行けるのなら、現世では どれほど虐げられても構わないと思う人間もいるでしょう。
それは、本当に人それぞれです。

ちなみに、エリスは、争い事が起こって、その争い事を楽しめるのなら、他の誰に疎まれようが憎まれようが全然 平気。
それどころか、その争い事のために誰が苦しんでも、不幸になっても無問題という神でした。
氷河王子はどうだったのでしょうね。

それは さておき。
わざわざ お土産まで持参し、神である自分が北の果ての国まで直接出向いてきたというのに、王子との対面も叶わず、求婚まで断られてしまったエリスは 大変 不愉快な気持ちになりました。
仮にも神が、ただの人間に ていよく追い返されてしまったのですから、エリスが楽しい気持ちでいられるわけがありません。
神でなくたって、そんなことは不愉快です。
ヒュペルボレイオスのお城の中で ちらっと垣間見た氷河王子が結構な美形で、いっそ本当にヒュペルボレイオスの次期王妃になるのもいいかもしれない――なーんて思いかけていたところでもあったので、エリスは、可愛さ余って憎さ百倍状態になってしまったのです。

そこで、エリスは当初の予定を変更。
求婚を断られたことを理由に 地下の国エレボスから 死者たちで作った軍隊をヒュペルボレイオスに送り込む計画を取りやめて、当座の目的を“氷河王子個人を苦しめること”に変えたのです。
氷河王子は自分の意思を通す王子のようでしたから、彼を苦しめ 追い詰めれば、氷河王子は やけになって暴走し、何か楽しい争い事を起こしてくれるのではないかと、エリスは期待したのでした。
昔、トロイアの王子パリスの小さな無分別が あれよあれよという間にトロイア王国とギリシャ全土を巻き込んだ大戦争に発展していく様を眺めていた時、抑えようとしても笑いが止まらなかった歓喜と興奮を思い出して、まだ何も起こっていないというのに、エリスは高笑い。
何もしらない人間が エリスの その高笑いの様を見たら、まだ若い娘なのに気が狂ってしまったのかと、きっと深く同情したことでしょう。
その人間が同情すべきは、実はエリスではなく、彼女の亡霊聖闘士たちだったというのに。

「まずは、氷河王子の 心に決めた人というのが本当にいるのか、いるとしたら それは誰なのかを、おまえたち、探っておいで」
楽しそうに そう命じて、また高笑いを始めた争いの女神に、彼女の亡霊聖闘士たちは長い溜め息を洩らしたのでした。


ところで、氷河王子が心に決めた人というのは、実はヒュペルボレイオスの南方にある大国エティオピアの瞬王子でした。
瞬姫ではありません。
王子・・です。
ですが、それは あまり驚くようなことではありません。
テーバイのライオス王は、ペロポネソス半島にあったエーリス国の第三王子クリュシッポスを誘拐し思いを遂げるという暴挙に及んでいますし、ミュケーナイ王家の血を引くヘラクレスが愛したのは美少年のヒュラスでした。
プティーア王ペーレウスの息子アキレウスと親友パトロクロスの行き過ぎた友情は有名です。
要するに、当時は あちこちの国の王子や国王が まるで息をするように自然に同性と恋をしていたのです。
それは、ごくごく普通、実に ありきたりなことでした。

とはいえ、だからといって氷河王子の恋も ありふれたものだったというわけではありません。
なにしろ、氷河王子が愛した瞬王子は、『地上で最も清らかな魂の持ち主』と冥府の王ハーデスが認めた、特別製の王子様。
姿も美しかったのですが、それ以上に心が 度外れて清らかな王子様だったのです。
そういう次元では ごく普通の男だった氷河王子は、そんな瞬王子に 命がけの純愛を捧げていました。
『朱に交われば赤くなる』とか『類は友を呼ぶ』と俗に言いますが、それは良い意味でも 起こり得ること。
心の清らかな人に恋をしたら、人は、恋した人に恥ずかしくない清廉潔白な自分でありたいと思うもの。
氷河王子は、清らかな瞬王子にふさわしい それはそれは清らかな愛を瞬王子に捧げていたのです。
ちなみに、“清らか”というのは、“肉欲を排除している”ということと同義ではありませんので、念のため。
とにかく、氷河王子は心からの愛を瞬王子に捧げていたのです。

北の大国ヒュペルボレイオスと南の大国エティオピアは、国力も釣り合う大国同士。
もし瞬王子が姫君だったなら、氷河王子はとうの昔に瞬王子に求婚し、二人は誰からも祝福される理想のカップルになっていたことでしょう。
けれど、男子同士の恋が どれほどありふれたものだったとしても、同性同士で結婚はできません。
ですから、どれほど深く愛していても、氷河王子は瞬王子に求婚することはできません。
世の中というものは、本当に ままならないものです。

自分の命がけの純愛を周囲の者たちに知られ、そのせいで瞬王子に迷惑が及ぶことは避けたかったのでしょう。
氷河王子は、誰に対しても『俺には心に決めた人がいる』と公言していましたが、それが誰なのかは、誰にも洩らしたことはありませんでした。
そんな氷河王子の秘密の恋を探り出してきたのはサジッタの魔矢で、彼は、自分が探り出してきた情報を“悪くない情報”だと思っていました。
なにしろ、その情報は、
「あの王子は清純派が好みなんですよ。潔く諦めましょう。あの王子が心に決めた相手は 冥府の王ハーデスのお墨付きの清純派。失礼ながら、全くタイプの違うエリスさまが敵うわけがありません」
と言って、暴走しかけているエリスに再考を促すことのできる情報でしたから。

問題は、エリスが、人に『諦めろ』と言われると、その逆方向に突っ走りたくなる性格の女神だったこと。
もっとも、この件に関しては、エリスに限らず人間の半分くらいは、『やめろ』と言われると『やめてたまるか』と反発するもののようですが。
それでなくても、エリスは負けず嫌いの女神。
そもそも 争いの女神が気弱だったり控えめだったりしたら、仕事にならなくて大変ですからね。
もちろんエリスは、魔矢の忠告を聞いて、『諦めてたまるか』路線に突き進み始めました。

「たかが人間の、それも男の子に、私が敵わないとはどういうこと !? 」
「い……いえ、決してそんなわけでは……。ただ、エリス様は、あまりにヒュペルボレイオスの王子の好みとはタイプが違いすぎるというか、戦う土俵に問題があるというか――」
エリスの憤怒を見てとった魔矢は 慌ててエリスをなだめたのですが、弓から離れた矢は、誰にも止められるものではありません。
矢座の亡霊聖闘士には――矢座の亡霊聖闘士だからこそ――それは無理なことでした。

「何が地上で最も清らかな魂の持ち主よ。清らかな人間なんかいるはずがないでしょう。人間は皆、欲にまみれて汚れているものよ!」
「そういう決めつけは――」
オルフェウスが、エリスの偏見を いさめようとしましたが、もちろん それは逆効果。
というより、すっかり怒りの感情に囚われてしまったエリスには、彼の言葉など聞こえていませんでした。
「もし、一点の曇りもなく清らかな人間がいたとしたら、それは人間ではないわ。その瞬とやらは人間なんでしょう。私が、その“清らか”の化けの皮を剥いであげるわ。そして、現実を氷河王子に見せつけて、自分の恋が空しい錯覚にすぎないことを、あの馬鹿王子に思い知らせてやる。それで、騙されたと怒った馬鹿王子がエティオピアに戦でも仕掛けてくれれば、私は万々歳よ!」
「エリス様、やめましょうよー」
ヤンが情けない声でエリスに訴えたのですが、もちろん、その声もエリスの耳には聞こえていないのでした。

エリスの計画が そうそう上手くいくはずがないと、エリスの亡霊聖闘士たちは皆 思っていました。
けれど、トロイア戦争での とんとん拍子の快感が忘れられないエリスは、もう完全に その気。
亡霊聖闘士たちの忠告や制止の言葉など、馬の耳に念仏、釈迦に説法、馬耳東風。
エリスは、こうなったら亡霊聖闘士の手など借りず直接自分が出馬して、清らかな瞬王子の真の姿を暴いてやると、闘志を燃え上がらせるばかりでした。


エリスは、本来、とても勤勉な神です。
ですから、長い人間の歴史に争いが絶えることはありませんでした。
そのエリスが やる気を出したのです。
氷河王子が恋する瞬王子の“清らか”の化けの皮を剥ぐために。
闘志に燃えるエリスは、早速 瞬王子のいるエティオピアに向かいました。






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