さて。
ある人間(もしくは神)が、ある人間の本性を探る際には、『弱者に身をやつして ターゲットに近付いていく』というのが常道です。
水戸黄門も、暴れん坊将軍も、そのやり方で 世の悪事を探り出し、白日のもとにさらけだし、悪人たちを懲らしめました。
大神ゼウスも、リュカオンと彼の息子たちの本性を探るため、貧しい旅人に身をやつして、彼の許に赴くということをしています。
エリスも、もちろん、その方法を採用しました。
つまり、エリスは、年老いた貧しい おばあさんに化けて 瞬王子に近付くことにしたのです。
エリスは、勤勉でフットワークが軽いだけでなく、芸達者な神でしたから、コスプレくらい朝飯前。
腰の曲がった おばあさんに化けたエリスは、よぼよぼの身体を ぼろぼろの古いマントに包み、エティオピアの王宮の前で 瞬王子がやってくるのを待ち受けました。

ところで、エティオピアは ヒュペルボレイオスよりずっと南にある国です。
気候は温暖で、雪が降ったり 木枯らしが吹いたりすることは、1年を通して まずありません。
農業が盛んといえば盛んなのですが、野菜や果物は 種を撒きさえすれば放っておいても実るので、エティオピアの国民は額に汗して毎日 畑を耕すということも滅多にしません。
人間は、飢える心配がないと、あまりぎすぎすせず、比較的のんびり、寛大な性質になるもの。
エティオピアの国と国民の気質は、まさに そんなふうでした。

エリスがエティオピアに向かったのは、一応は冬と呼ばれる季節でしたが、その日のエティオピアの天気予報は、『降水確率0パーセント、終日晴れ、最低気温18度、最高気温24度』。
エティオピアの都の東の端に、都を見守るように建っているエティオピア王宮の周囲に植えられているオレンジやプラムの木は たわわに実を実らせていました。
その木の下で わざとらしく疲れた様子で座り込んでいたエリスに、瞬王子が、
「おばあさん、お加減が悪いんですか」
と尋ねてきたのは、ちょうどお昼時。
瞬王子は遠乗りから帰ってきたところらしく、見事な白馬をエリスの前でとめて下馬すると、心配そうにエリスおばあさんの顔を覗き込んできました。
その瞳の澄んで綺麗なことといったら!
その瞳を見たエリスの、瞬王子の清らかの化けの皮を剥いでやろうという闘志は、いよいよ激しく燃え上がることになったのです。
その闘志を胸に秘め、エリスは弱々しい声で瞬王子に訴えました。

「実は、持病の癪が――じゃなかった、おなかが減って死にそうなんです」
「おなかが減っているのなら、お城の周りに植えてあるオレンジやプラムを取って食べていいんですよ。ここや街道脇にある果樹は、旅人が自由に喉の渇きを潤せるように植えてある木ですから」
芸達者なエリスの迫真の演技を疑う様子もなく、瞬王子は 優しくエリスに言いました。
誰でも取れる場所にある果樹の実は自由に食べてもいいなんて、貧しい民はいても飢えている民はいないというエティオピアらしいシステムです。
もちろん、そういった福祉システムが優れていることと、瞬王子が優れて清らかな王子であるということは、全く別のことですけれどね。

「私は腰が曲がっているので、枝まで手が届かないんですよ」
「あ、ごめんなさい。気がつかなくて。オレンジは僕が取ってあげましょう」
瞬王子はエリスおばあさんの答えを聞くと、すぐに 熟して甘そうなオレンジを3個ほど もいで、それをエリスの前に差し出しました。
瞬王子が取ってくれたオレンジは、とてもいい状態に熟していて、香りもよく、まさに食べ頃でした。
「ご親切にどうもありがとう。でも、この国の人はみんな冷たいねえ。年寄りが飢えているのに、あんたがくるまで、誰も私に声を掛けてくれなかったんだよ」
「冷たいなんて、そんなこと……。取ってほしいとお願いすれば、きっと みんな喜んで取ってくれましたよ。人に力を貸すのって、とても難しいことなんです。頼まれたわけでもないのに力を貸したら、その方の誇りを傷付けてしまうこともありますから。おばあさんにオレンジを取ってくれなかった人たちは、その人たちなりに おばあさんを気遣っただけですよ。自分のことは自分でしたいと望んで、そうできることを誇りに思っている人も多いですから、福祉や慈善や――日常でのちょっとした手助けででも、人は皆 慎重にならざるを得ないんです」

「そうかねえ……」
冷たい人間を冷たい人間と批判し、『でも、僕はそんな人たちとは違う』と強調しない瞬王子が、エリスは全く気に入りませんでした。
人の悪口を言わない人間は、争いの女神の敵でしたから。
人の悪口そのもの、あるいは 自分は悪口を言われているに違いないという思い込みが争いを生むことは、人間世界では しばしば起こること。
人を悪く言わない人間は、エリスにとっては、争いの女神の仕事を妨げる極悪人でした。

「おなかが減って死にそうなのは、おかげで収まったけど、実は私は今夜寝るところがないんだよ」
「この国では、そういう人が利用できる共同宿泊施設も、各地方に必ず一軒はあるんですよ」
「共同宿泊施設? だめだめ。そんなとこに行ったら、私みたいに よその国の者は いじめられるに決まってる。私はあんたと一緒がいいんだけど」
「僕と? そういう特別扱いは本当は禁じられているんですけど……。でも、そうですね。これも何かのご縁でしょう。保護を必要としている人としてではなく、僕の友人として、おばあさんを お城にご招待しましょう」
衣食住の“食”が満たされたら、次は“住”。
エティオピアは、そちら方面の福祉も充実しているようでした。
そして、瞬王子の返答は、今度もエリスの癇に障りました。
つまり、瞬王子の平等主義がエリスには不快だったのです。

権力ある地位に就いている者が特定の人間を特別扱いしたり、依怙贔屓したりすることは、とっても素敵な争いの種。
権力者の冷酷も、同上です。
瞬王子は、基本的には平等主義を身につけているようでした。
かといって、杓子定規に冷たい態度をとることもなく、人情のある対応をする瞬王子。
こういう人間が、争いの女神には最も迷惑な存在なのです。
人の妬みを買わず、恨みを買うこともしない人間が。
この分だと、衣食住の“衣”に関しても、瞬王子は優しく穏やかに波風の立たない対応をしてのけるでしょう。
エリスは、だんだん胸が むかむかしてきました。

むかむかしつつ、次にエリスが試みたのは、瞬王子の うぬぼれ心をくすぐることです。
「あんたは親切なだけでなく、とても綺麗だね。きっと世界一綺麗な王子様だ」
「そんなことはありませんよ。綺麗な人は世界中にたくさんいます。どんなところを美しいと感じるかは人それぞれですから。多分、人は みんな綺麗なんですよ。でも、そう言っていただけて嬉しいです。ありがとうございます。初めて会った時から僕を男子と認めてくれたのは、おばあさんが初めてです」
「そりゃあ、お城の前で白馬に乗ってるのは王子様と相場が決まってるだろう」
「みんなが そう思ってくれたら、僕も嬉しいんですけど」
瞬王子は そう言って、やわらかく苦笑めいた微笑を浮かべました。

この対応も、エリスには全く気に入りませんでした。
瞬王子には傲慢さがなく、うぬぼれの気持ちもありません。
かといって、卑屈や過ぎる謙遜で 褒めた者の気分を害することも、瞬王子はしません。
瞬王子の対応は、対峙する人間との間に決して争いや対立を生むことがなく、相手をよい気分にさせる大変 見事なものでした。
エリスも気分がよくなっていたでしょう。
彼女が争いの女神でさえなかったら。
残念なことに、エリスは争いの女神だったので、瞬王子の非の打ちどころのない対応は、彼女をますます苛立たせることになってしまいましたが。

「誰もが綺麗って、私もかい」
「もちろんです。おばあさんに優しくしてもらった人はみんな、おばあさんのことを綺麗だと思うでしょう」
「うー……」
本当に気に入りません。
話せば話すほど、エリスは瞬王子が嫌いになっていきました。
こんな不愉快な王子が好きだという氷河王子の気が知れません。
そして、こんな不愉快な王子のために 健気な姫君(エリスのことです)の求婚を退けた氷河王子の感性も、エリスには到底 信じられませんでした。

「そうかねぇ。ああ、この国に来る前、私はヒュペルボレイオスの国にいたんだけど、あの国では ちょうど、王子の縁談話が持ち上がっていたよ。なんでも、どこぞの国の姫君がヒュペルボレイオスのお城に直接やってきて、氷河王子に求婚したらしい。わざわざ北の果ての国まで、高貴なお姫様が。健気なことだねえ」
「え……? そ……そんなことが……?」
それまで、ひたすら優しく明るかった瞬王子の瞳が、にわかに かき曇ります。
その様子を見て、エリスは初めて気付いたのです。
魔矢は、氷河王子が瞬王子に べた惚れだと言っていましたが、瞬王子が氷河王子をどう思っているのかということについては何も言っていませんでした。
肝心のことを、エリスは知らずにいたのです。
魔矢の不手際に腹を立てつつ、エリスは さりげなく瞬王子に探りを入れてみました。

「氷河王子は姫君の求婚を にべもなく断って、姫君は国の威信を傷付けられたと、かんかんだそうだよ」
「あ……それは……。氷河は――ヒュベルボレイオスの氷河王子は、何よりも人の心を大事にする人なんです。氷河は その姫君が 国のために自分自身の心を犠牲するのは悲しいことだと考えて、姫君のために、その申し出をお断りしたのだと思います」
「でもねえ、随分 冷淡に断ったという噂だよ。わざわざやってきた姫君に会いもしなかったとか」
「それも氷河の優しさなんです。お会いしてから断ったら、姫君を傷付けることになるかもしれないでしょう?」
「どっちにしても、求婚を断られた姫君が傷付くことに変わりはないじゃないか」
「でも、姫君に会っていなければ、姫君本人が気に入らなくて断ったことにはなりませんから……。氷河は姫君のためにそうしたんです。姫君も、氷河の思い遣りを わかってくれるといいんですけど……」

瞬王子は、どこまでも氷河王子を庇います。
そして、瞬王子は、氷河王子に拒絶された姫君の心も案じているようでした。
瞬王子は他人の不幸を喜ぶようなことはしないだろうと、それはエリスにも察しはついていましたが、だからといって、そんな瞬王子を好ましく思えるようになるかというと、それとこれとは話が別。
エリスは、本当に瞬王子が気に入りませんでした。
瞬王子とて人間、絶対どこかに 汚れた 醜い心を持っているはずなのです。
エリスは、何としても それを暴いて、氷河王子の恋を滅茶苦茶にしてやらなければなりませんでした。






【next】