その日も俺は ぶらぶらと辺りを散歩して、何の期待もせずに○時に病院に戻ってきたんだ。
そして、俺は、俺の病院の前に、初めて閑古鳥以外の動物がいる光景を見ることになった。
それは“ヒト”という動物で、そのヒトは、俺の病院の門の中を窺っては踵を返し、また回れ右をしては門の中を窺って溜め息をつく――ということを繰り返していた。
門は開いているし、門の中に入ってドアの前まで行かないことには『診察は○時から』の貼り紙を見ることもできない。
俺はどうやら貼り紙を貼る場所を間違えていたらしい――と、その時になって俺は初めて気付いた。
とはいえ。

俺は それがヒトだったから――ヒトだけだったから――あまり期待はしなかったんだ。
動物病院と獣医師としての俺に用があるのなら、彼女(彼か?)は、ヒト以外の動物を連れているはずだったから。
だが、彼(彼女か?)は、空き巣狙いにも見えなかった。
その子が小柄――子供といっても いいくらい小柄だったせいもあるが、空き巣狙いが そこまであからさまに不審な行動をとるはずがない。
俺は歩く速度を速めもせず、かといって遅くもせずに歩き続け、病院の門前に辿り着くと、その子に尋ねたんだ。
「何か用か」
と、ぶっきらぼうに。

真正面から至近距離で見ても、彼なのか彼女なのかの判断が難しい その子は、俺の顔を見て少し驚いたように、
「あ、ここの病院の方ですか?」
と、訊いてきた。
まさかガイジンが珍しいわけでもないだろうにと思いながら、俺が頷くと、
「あの……往診をしていただくことはできるんでしょうか」
と、重ねて尋ねてくる。
それは考えたこともなかったことだったから――俺は小動物診療施設の臨床獣医師で、施設外で診察を行なう産業動物や競走馬の獣医師になったつもりはなかったから――俺は、一瞬 答えに窮した。
だが、もしかしたら この子のペットが俺の記念すべき患畜第1号になるのかもしれないんだと思うと、無下にもできない。
俺は曖昧な答えで探りを入れることにした。

「しないこともないが、運搬が不可能なほど大型の動物なのか。馬? 牛?」
「あ、いえ……猫なんですが」
「なぜ連れてこない」
つい、声が無愛想なものになる。
運搬が不可能という やむにやまれぬ事情があるならともかく、猫?
どれほど弱っていても――弱っているなら なおさら――それは病院に連れてくるべきものだろう。
血液検査の装置やら超音波診断装置やら、診察のための道具や施設は病院内にあるんだ。
往診というのは、それらの装置で検査をして、症状や病名が判明し、その上で入院の必要がない、もしくは入院が不可能と判断された大型の動物に対して行なうことだろう。
往診代を払えば それでいいってものじゃない。
「そうしようと思ったんですが、動くのを嫌がって……」
この子は、自分の要望が図々しいものだということは自覚しているらしい。
一度 いたたまれなさそうに瞼を伏せ、それから、すがるような目で俺を見上げ、見詰めてきた。

綺麗な毛皮も、よく動く尻尾も、濡れた鼻も持っていないヒトを『可愛い』と思ったのは、俺はそれが初めてだった。
瞳のせいだ。
嘘のつき方も知らないような、差別の仕方も知らないような、澄んだ瞳。
男の子なのか女の子なのかは どれほど観察してもわからなかったが、この子が清らかな心の持ち主だということは、俺には すぐにわかったし、信じることができた。
これは普通の“ヒト”ではない。
俺の勘が、俺に そう訴えてくる。

どうせ患畜は来ないんだし――その綺麗な瞳に惹かれて、結局 俺は往診に行くと言ってしまった。
「ありがとうございます。ウチの子、30分以上 僕の姿が見えないと、心細いのか、大きな声で鳴きだして――」
取り急ぎ 診察室から持ち運べる診療器具をバッグに詰めて出てくると、その子は――瞬と名乗った――心苦しそうに、そして嬉しそうに、何度も俺に頭を下げてきた。


瞬に自宅の場所を聞くと、『ここから歩いて5分ほど』という答えだったので、俺たちは、付近の住人の乗用車以外は滅多に車の通らない道を、並んで歩き出した。
道すがら、俺は、少し気に掛かることを瞬に訊いてみたんだ。
つまり、
「つい数日前に開業したばかりで、経験も腕の保証もない俺でいいのか」
と、そんなことを。
俺に そう問われた瞬は、
「氷河先生は腕の悪い お医者様なの?」
と、本気の心配顔で問い返してきた。
「俺は、大学では、誰よりも動物に好かれる男だった!」
瞬は自分の飼い猫を心から心配しているだけで、悪気はない。
それはわかったんだが――俺は、つい むっとなって、意地を張った子供のような怒鳴り声をあげていた。
瞬が、気を悪くした様子もなく、俺を恐がった素振りも見せず――むしろ ほっと安堵したように短い吐息を洩らす。
「それって大事なことですよね。動物は勘がいいから、人の心を容易に見抜く。氷河先生はお優しい方なんですね」

そう言って笑う瞬の可愛いこと!
ハムスターの前脚も、髭と一緒に揺れるウサギの鼻も、瞬のこの可愛らしさには敵わない。
ヒトほど醜い動物はいないという俺の持論を、瞬は一瞬で覆してみせた。
「ウチの子は、いつも元気で、病気になったこともなかったから、病院に連れていったことも これまで一度もなかったんです。なのに 最近 日を追うごとに元気がなくなってきて……。いちばん近い動物病院に電話したら、往診はしていないって言われたの。途方に暮れていたら、友だちが氷河先生の病院のことを教えてくれたんです。工事が終わったばかりの あの建物が動物病院みたいだ――って。こんなに近くにあるのに、僕の家から大通りに出る方向とは逆側だから、僕、氷河先生の病院ができたことに気付かずにいたんです。建物も打ちっぱなしのコンクリートで、小さな博物館か図書館みたいな外観で、動物病院のイメージとは違ってたから、先生が帰っていらっしゃるまで ずっと戸惑ってたんです。ほんとに動物病院なのかな……って。動物病院って、普通は、犬や猫の絵が描かれた可愛い看板とかを出してるものでしょう?」
「……」

俺の病院に、ヒトどころか犬猫の一匹も寄ってこなかったのは、俺の縁故のなさや宣伝不足の他に、建物の外観のイメージの相違という問題もあったらしい。
しかし、犬や猫の絵が描かれた可愛い看板?
そんな看板を掲げた病院の中にいるのが無愛想を極めた この俺じゃ、それこそ『看板に偽りあり』なことになるだろう。
どうしたものかと考え始めた俺が、その答えを出す前に、俺たちは目的の場所に辿り着いていた。






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