城戸邸。
この昔ながらの高級住宅地の中でも 特に広い敷地を有する大邸宅。
俺の病院から この邸宅の門までは500メートル弱の距離があるが、その500メートルの内300メートルは この邸宅の塀に沿って歩いていたから――まあ、つまり そういうことだ。
巨大邸宅の門脇には守衛所があり、瞬はその中に顔パスで入っていった。
門から玄関前までが、更に100メートルほど。
敷地を囲む塀の様子から察するに、裏庭は更に広く、小さな林すら抱えているようだった。
いっそ ここを 動物を放し飼いできる自然動物公園にでも仕立てあげて、俺をお抱え獣医師に雇ってくれたらいいのに――なんて馬鹿な考えが浮かんでくるほど、そこは都内にある一個人の住居としては広すぎる家だった。

だが、俺を驚かせたのは、その敷地の広さだけじゃなかったんだ。
というより、城戸邸の敷地の広さなんてものは、驚くに値するようなものじゃなかった。
俺が本当に、心底から驚いたのは、俺の患畜第1号。
瞬が飼っている猫だった。

城戸邸の西側に、本邸とは渡り廊下でつながっている体育館のような建物があって、そこに俺の患畜第1号がいた。
それ・・を見た、俺の第一声は、
「こ……これは……何だ?」
だった。

「ウチのゴールディちゃんです!」
俺の質問に、瞬が 誇らしげに答えてくる。
そうしてから、瞬はすぐに、
「ゴールディです」
と言い直した。
どうやら瞬は、身内(?)に『ちゃん』づけはよろしくないと思って、わざわざ言い直したらしい。
俺は そんなことは まるで気にしていなかったんだが――というか、瞬の“ゴールディちゃん”と対峙した俺は、それどころじゃなくなっていた。
瞬の横に立つ俺を見ると、それ・・は、
「ぐるるるるる……」
と、地響きのような唸り声をあげた。
驚いて一歩 後ずさった俺に、それが、更に、
「がおおおぉーっ!」
と、牙を剥いて吠え立ててくる。
それは『ゴールディちゃん』なんて可愛らしいモノじゃなかった。

「ゴ……ゴールディちゃんで構わないが、こ……これが猫……だと?」
「はい!」
瞬はそれを猫だと信じているらしいが、獣医師の俺の目には―― 一般人としての俺の目にも――それは猫には見えなかった。
猫に見えないどころか、この世のものとは思えなかった。
しいて この世のもので例えるなら、毛皮の山。
動物でいうなら、マカイロドゥス、スミロドン、毛の生えた恐竜――要するに怪物だ。
遺伝子の突然変異で大きさが5倍になったライオンとでも言えばいいのか。
それは、瞬が5人、余裕で背中で昼寝ができそうな巨大な哺乳類だった。
こんなモノ、どうやって診察しろというんだ。
俺は小動物・・・診療施設の臨床獣医師なんだぞ。
犬や(普通サイズの)猫、ハムスター、モルモット、ウサギ、リス、小鳥が俺の診療対象だ。
せいぜい、馬や牛、羊までだ。俺に診ることができるのは。
こいつは馬や牛よりでかい。
馬や牛よりでかいどころか、馬や牛なんて一口で食ってしまいそうな化け物じゃないか!

「ライオン……ではないのか……?」
俺が瞬に そう訊いたのは、それを正直に『化け物』と言って、瞬を傷付けたくなかったからだ。
しかし、瞬は 俺の思い遣りに気付かなかったらしく、素直で正直な子供の眼差しで俺を見詰め、小さく首を横に振った。
「猫です。ライオンを、こんな普通の家で飼えるわけがないでしょう」
「しかし、これはどう見ても――」
「猫です。ゴールディちゃん、氷河先生に声を聞かせてあげて」
瞬が化け物に そう命じると、“ゴールディちゃん”は、確かにネコ科のものと思える牙を剥き出しにして、
「にゃおーん」
と鳴いてみせた。
これは いったい何の冗談だ。
たった今、苛立ったライオンの3倍の音量で『ぐるるるる』と唸り、飢えたライオンの5倍の音量で『がおおおーっ!』と俺に吠えついた化け物が。

「ねっ。猫でしょう?」
瞬が両手でクルミの実を抱えた小さなリスみたいな目を俺に向けてくる。
「……」
俺は、いっそ クルミを丸ごと喉に詰まらせて死んでしまいたい気分になった。
ライオンも、子供の頃には『にゃおーん』と鳴くくらいのことはできる。
しかし、これが子供でないのは火を見るより明らかだ。
これが子供だったら、これを産んだ母親は東京ドームとタメをはるくらい太っているに違いない。

「ゴールディちゃん、最近ずっと元気がなくて……」
心配そうに“ゴールディちゃん”の前脚を撫でる瞬の小さくて可愛い声。
瞬に撫でられた“ゴールディちゃん”は、その目を糸のように細くして――もとい、綱引きの綱のように細くして――ごろんごろん喉を鳴らし、それから俺に向かってまた「ぐるるるるる……」と牽制の唸り声をぶつけてきた。
この化けライオンは十分―― いや、十分の百倍も元気だと思ったんだが、俺も獣医師の端くれ。
化けライオンはともかく、瞬の憂い顔はどうにかしてやりたい。
だが、この巨体が相手では、俺が持ってきた聴診器は役立ちそうにない。
結局、瞬のために獣医師としての俺にできることは、せいぜい問診くらいのものだった。

「食欲はあるのか? エサは何を食ってるんだ」
その質問は、もしかしたら、臨床獣医師としてより、俺個人の興味から出たものだったかもしれない。
瞬が、獣医師としての俺を信じ切っているように、真面目に俺の質問に答えてくる。
「ゴールディちゃんは猫ですから、もちろん おさかなです。1日置きに、月磁市場からホンマグロやシュモクザメを届けてもらってます」
瞬は嘘は言っていないだろう。
俺は、瞬の言葉を疑ったりはしなかった。
瞬が そう言うから信じたんだ。
そう答えたのが瞬でなかったら、『本当は人を食っているんじゃないか?』と疑っていたに違いない。
そして、俺は この化けライオンのエサとして ここに連れてこられたんだと信じていたに違いない。
俺は、何人もの少年少女が生贄として捧げられていたというクレタ島のミノタウロスや、クシナダヒメの7人の姉を食い尽くしたヤマタノオロチを思い浮かべずにはいられなかった。
瞬だから――俺をここに連れてきたが瞬だったから、俺はこの化けライオンのエサとして ここに誘い込まれたんじゃないと思うことができたんだ。

「運動不足ということはないのか。この巨体では、ちょっと散歩に出るというわけにもいくまい」
「あ、それは――この家の裏庭にグラウンドがあるんです。運動は そこで。以前は、100メートルダッシュを日に50回はしてました。屋上から裏庭にジャンプしたりとかして、とっても身軽で元気だったんです。なのに……」
しょんぼりと肩を落とす瞬の瞳には涙すら にじみ始め、潤んだ瞳は心細げに揺れている。
どうして瞬は、何をしても、どんな表情を浮かべても、こんなに可愛いんだ。
こんな化け物は殺しても死なないというアタマがあったせいで、俺はゴールディの元気のなさなんか、鳥の毛1本ほどにも案じていなかった。
いくら真顔を保とうと思っても、瞬の可愛らしさは俺の顔を緩ませる。

そんな俺に、ゴールディは敵愾心を剥き出しにしてきた。
見せつけるように牙を剥いて、「がおーっ!」と二度目の咆哮。
動物に好かれることだけが俺の取りえだったのに、やはり こいつは一般的な動物の範疇に含むべきではないようだ。
だが、俺への敵愾心 剥き出しのゴールディの『がおーっ!』は、俺に思わぬ幸運を運んできた。
「なんだか、ゴールディちゃん、氷河先生が来たら、元気になったみたい」
瞬がそう言って笑ってくれたんだ。
おまけに、
「氷河先生って、すごい名医なんですね!」
と、尊敬の眼差しまで向けてくる。

そんな瞬の前で、俺は――それこそ、俺が『うおぉぉーん!』と吠えたい気分になった。
この際、誤解でも何でもいい。
ハムスターよりウサギよりリスより可愛い瞬に好意を持ってもらえるなら。
瞬は、ゴールディの『がおーっ!』で すっかり安心したらしく、
「あの……よろしかったら、明日もいらしてくださいますか。ゴールディちゃんには、先生に会うのが いちばんの薬みたい」
とまで言ってくれた。
俺は、何もしていない――少なくとも獣医師としては何もしていないっていうのに。
どうせ暇だし、俺はもちろん 二つ返事でOKした。
「ありがとうございます! 名医のオーラの効果なのかな。ゴールディちゃん、ほんとに氷河先生がいらしてくださるまで、ずっと元気がなかったんですよ。氷河先生が こんなに腕のいい お医者様だったなんて。もっと早く氷河先生のところに行けばよかった」

瞬は すっかり俺を名医と信じてしまったようで、
「こんな名医に ご足労をお掛けしてしまったんですから」
と言って、相場を知らないんじゃないかと思うような額の診療費を俺に手渡してきた。
まあ、こんな化け物の診療費の相場なんて 俺にもわからないし、こんな化け物じゃ保険にも入っていないんだろうが、俺は検査と言えるほどのこともしていないし、薬も出していないし、注射の1本も打っていないわけで、請求できるのは せいぜい初診料くらいのものだ。
俺は、瞬に差し出された額の20分の1で釣りが出ると答えた。
そうしたら、瞬は俺を尋常でなく良心的な医者と思ったらしい。
結局 その日 俺は瞬に城戸邸に引き止められ、外で食ったら診療費の10倍はするだろうというフランス料理のフルコースを振舞われた。

「じゃあ、明日また お迎えにあがります」
わざわざ玄関から100メートルも離れた門まで見送りに出てくれた瞬と別れた時、俺は俺の病院が流行らない病院でよかったと、心から思ったんだ。






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