「ありがとう。俺の病院が軌道に乗ってきたのは、瞬がいろんな人に俺の病院を薦めてくれたからだ」 「氷河先生の病院は大きな看板も出してないし、宣伝もしていないから、気付かない人はずっと気付かないままなんですよ。でも、氷河先生みたいな名医に 腕を振るう機会が与えられないなんて、そんなの、人類の損失――ううん、全生物界の損失だもの。ウチのゴールディちゃんも相変わらず、氷河先生が来た時にだけ、自分から唸り声をあげたりして元気になってくれるの。本当は、僕とゴールディちゃんとで先生を独占したいところなんですけど、それは しちゃいけないことですよね」 ゴールディに独占されるのは御免だが、瞬になら独占されたい。 それが俺の本音だった。 病院に毎日 患畜と その飼い主が来てくれるようになると、俺を頼ってくれる者たちを突き放すわけにもいかず、俺の城戸邸訪問の時間と回数は減るばかりだったから、かえって その気持ちは募ったんだ。 だが、それならそれで、氷河先生としてじゃなく、俺という一人の男として、瞬との距離を縮めるべく努力するだけだ。 俺は、猫や蛇より執念深い――もとい、諦めが悪い男なんだ。 病院が流行り出して瞬と会える機会が減った俺は、その状況を 逆に利用することにした。 「全生物界の損失かどうかは わからないが、ともかく すべては瞬のおかげだ。それで、礼と言っては何だが、今度 君を食事に誘いたいんだが」 「そんな……。お気遣いは無用です。僕は本当のことを言っただけで、みんなも いい獣医さんを紹介してもらえたって喜んでくれて、僕、みんなにお礼言ってもらってるんです。この上、氷河先生からまで お礼なんて――」 「しかし、それでは俺の気が済まない。瞬がいてくれなかったら、俺の病院は早晩 潰れて、俺も路頭に迷っていただろう」 「そんな大袈裟な――」 「大袈裟なんかであるものか。瞬は俺の命の恩人だ」 「氷河先生……」 ギリシャ神話の医神アスクレピオスは 蛇が巻きついた杖を常に携えていたというが、俺は アスクレピオスの杖に巻きつく蛇のごとくに瞬に巻きつき、食い下がり、ついに瞬からOKの返事をもぎ取った。 うん。やる気になれば できる男なんだ、俺は。 「最近は病院が忙しいので、夜しか時間が取れないんだが、それでもいいか」 「はい」 瞬とデートだ! しかも、夜! 遠慮深い瞬を口説き落として なんとか手に入れたOKの返事に、もちろん俺は大いに浮かれた。 瞬と会う時には いつも傍らにゴールディがいて、俺は常に命の危険にさらされ、瞬を口説くどころじゃなかったからな。 だが、その浮かれる気持ちとは別に――そして、病院が軌道に乗ったことへの感謝の気持ちとも別に、俺の中には もう一つ、瞬に礼を言いたいことがあったんだ。 『動物好きに悪い人間はいない』と よく言うが、あれは嘘だ。 人間には冷酷なのに、ペットにだけは優しい人間なんて五万といる。 へたに巨大な財産を築いてしまったせいで 動物しか信じられなくなってしまった人間もいる。 俺自身、ヒトが苦手だから獣医師になったのであって、“いい人”だから獣医師になったわけじゃない。 故国では 親のない子供への冷酷と偏見、ほぼ単一民族の日本に来てからは外見や異民族への差別もしくは逆差別。 他の国、どの土地にいる時にも、俺は異邦人で部外者だった。 だから 人間不信になり、動物だけが嘘をつかないのだと信じていた。 俺は、それを、ヒトという生き物が冷たい心と知恵と嘘をつく能力しか持たない動物だからなんだと思っていたんだが、そうじゃなかったんだ。 まず 自分が他者を信じ、他者に心を開くことをしないと、他者もまた、俺に心を開いてはくれない。 信頼してもくれない。 俺が、ヒト以外の動物に好かれるのは、俺が先に彼等を信じ、彼等に心を開いていたからで――ただ それだけのことだったんだ。 それは犬や猫だけでなく ヒトも同じだというのに。 無条件に俺に心を開き 俺を信じてくれる最初の人――母――を 目の前で失った俺は、母に教えてもらっていたはずの人の信じ方、心の開き方を忘れてしまっていた。 瞬は、それを、瞬自身が俺に心を開き信じることで、俺に教えてくれた。 俺が忘れてしまっていた人を信じる術、人に心を開く術。 瞬は、その術を俺に思い出させてくれた。 俺の人間不信を治してくれた瞬に、俺は感謝していたし、瞬を絶対に失いたくないとも思っていた。 これから時間をかけて、瞬に その気持ちを伝えていこうと、俺は決意していたんだ。 |