「今から240年以上前、一つの聖戦が終わった。聖域軍、冥界軍の両軍は ほぼ壊滅状態。聖域軍で生き残ったのは、確か黄金聖闘士が2名ほど。冥界軍の冥闘士は全滅。ハーデス様と我々は、次の聖戦に向けて長い眠りに就いた。我々が覚醒したのは、十数年前。覚醒するなり下った予言は 先に告げた通りだが、実は あれには続きがあったのだ。『次の聖戦が始まる時、地上世界に 人のものとして ふさわしくないほど清らかな魂の持ち主がいる限り、冥府の王の望みは叶わない』という続きが」
これはまた、とってつけたような予言――まさに後出し情報である。
彼等が示してくる情報のどこまでが本当のことなのか。
冥界側に不利になる情報をアテナの聖闘士に知らせることで、彼等はどんな益を得るのか。
彼等が本当のことを言っていないような気がしてならない。
氷河の胸中は不信感でいっぱいだった。

その不信の念を、
「それがアテナの聖闘士らしいと」
ヒュプノスの言葉が、一瞬 氷河に忘れさせる。
「なに?」
氷河は ほとんど反射的に、
「それは瞬のことか」
と、眠りの神に問い返していた。
他に誰がいるのだというように、金色の神が首肯する。

「間違いない。あの瞳を見ただけでわかった。あの者は尋常の人間ではない。あの瞳の澄み方は――。人のものとも思えないアンドロメダの瞳を見た時、私はそれを アンドロメダがアテナの聖闘士として長く アテナの側にいたからなのだろうと思った。だが、アンドロメダがアテナの聖闘士であるなら、アンドロメダはこれまでに、己れの力に任せて“敵”という名を持つ人間たちを数多く傷付け倒してきたはず。そのような者が汚れていないはずがない。にもかかわらず、あの瞳。あの者が清らかな心を持っていることは疑いようがない。その清らかさが無知ゆえのものとも思えない。となれば、あの清らかさは作られたものだ。おそらくは アテナの作為によって」
「瞬は――」

自分を神だと名乗る この男は いったい何を言っているのか――と、氷河は疑ったのである。
瞬の清らかさがアテナによって作られたものだなどと。
そもそも“清らかさ”というものは、当人以外の人間の力によって作ることができるものなのだろうか。
氷河は、ヒュプノスの言葉――彼がそういう結論に至った思考の過程、その思考を作り出した彼の価値観――が、まるで理解できなかった。
しかし、金色の神は 自信に満ちた表情と口調で、彼の考えを語り続ける。

「人間が清らかなものであるはずがないのだ。予言が下った時には 人間世界に降臨したばかりだったアテナが その予言を知っていたはずはない。しかし、彼女は知恵の女神。長ずるに従い、清らかな人間の存在がハーデス様のお望みを妨げるということに気付いたのだろう。だから、ある人間を清らかな人間に仕立て上げることにし、その者の魂を清らかなままにしておくために 策を講じたのだ。その者が その心身を決して罪や汚れに染めることがないように。おそらく、本来ならアンドロメダが その心身に引き受けるはずの罪や汚れを収納する何か――言ってみれば ごみ捨て場のようなものがあるはずなのだ。それが鏡か武器か、あるいは封印用の壺や箱なのかはわからない。だが、何かがあるはず。それを見付け出し破壊するのが、我々の目的だ。それを壊してしまえば、清らかな人間は地上から消え失せ、予言の前提条件が成立しなくなることで、冥界消滅の可能性も消える」

「……」
そこまで言われて、氷河は、さきほどタナトスが口にしていたアイギスの盾が何であったのかを思い出したのである。
鍛冶の神ヘパイトスが作り、アテナに贈った盾。
神話の時代、アテナは その盾をメデューサ退治に向かうペルセウスに貸し与え、その際 ペルセウスはその盾を青銅鏡のように磨きあげたと言われている。
世界に存在する どんなものの姿をも吸い込み、映し出す“鏡”。
その鏡が、瞬が我が身に負うはずの罪や汚れを 瞬の代わりに吸収しているのではないかと、タナトスは言っていたのだ。

「瞬の罪や汚れを引き受ける物? ワイルドでも読んだのか。言われてみれば、貴様等は二人共 危険そうな目をしているな」
「危険そうな目?」
「ワイルド同様、そっちの趣味がありそうだということだ」
神ならぬ身の人間には、到底思いつかない荒唐無稽な発想。
たとえ思いついても、そんなことが現にあり得るはずはないと判断するのが 普通の人間である。
しかし、氷河はタナトスの妄想によく似た物語を知っていた。
ギリシャの神話ではなく、19世紀末、退廃の空気に満ちた英国で発表された一編の小説。
著者自身の人生も、その時代を象徴するかのように退廃、耽美、懐疑を極めていた。
男色家でもあったオスカー・ワイルドが記した『ドリアン・グレイの肖像』。
タナトスの妄想は、その小説の発想そのものだった。

悪徳の限りを尽くし、彼を愛する女を死に追いやることまでしたドリアン・グレイ。
しかし、彼は、どれほど醜悪な罪を重ねても、その醜さが彼の肉体に現れることはなく、いつまでも若く美しく、その表情も清らかなまま。
彼には、彼が その心身に引き受けるべき醜悪を彼の代わりに引き受けてくれる一枚の肖像画があったのだ。
ドリアン・グレイが罪を重ねるたび、彼の肖像画は醜悪さを増していく。
顔は大きく歪み、黒ずみ、唇は引きつり、一目見るだけで吐き気を催しそうなほど――悪魔でさえ目を背けるだろうと思えるほど。
己れの肖像画の醜さに耐えきれなくなったドリアン・グレイは、最後には その絵を切り刻み、彼自身もまた破滅する――。

タナトスは、アテナのアイギスの盾こそが、瞬にとっての“ドリアン・グレイの肖像”なのではないかと、馬鹿げた お伽話を語っていたのだ。
そして、その馬鹿げた お伽話を信じているのはヒュプノスも同じなのだろう。
彼等は そこまで――そんな荒唐無稽な考えを抱かずにはいられないほど――清らかな人間の存在を信じていないのだ。
信じられないほど――彼等は汚れている。

「つまり、貴様等は、そんな ありもしないものを こそこそ探し回っていたのか」
“清らかな人間”と“人間の汚れを我が身に引き受ける肖像画や鏡”。
どちらが よりあり得ないものなのかと問われれば、氷河は それは後者の方だと答えるしかなかった。
「言っておくが、そんなものはない。瞬は、そんな道具やまじないなどに頼って、自分の清廉潔白を保とうとするような人間じゃない。むしろ、他人の罪まで自分で引き受けようとするような奴だ。沙織さんも、そんな作為で作られた清らかさなどには価値はないと考える人だ」
「そんな人間がいるものか。いつも自分だけは綺麗なままでいたいと考え、綺麗な振りをしているのが人間だ。その考え、その行動こそが汚れそのものだということに考えを及ばせもせず」

瞬がどんな気持ちでアテナの聖闘士としての戦いを戦っているのか。
アテナが どういう気持ちで、地上世界と そこに生きる人間たちを守ろうとしているのか。
金銀の神は、それが わかっていない。
わかっていないから、ありもしない肖像画や鏡を探そうとするのだ。
氷河にしてみれば、彼等の考えや彼等の行動こそが、汚れそのものだった。
「そういう人間が数多く存在することは俺も否定しない。だが、貴様自身が言っただろう。瞬は尋常の人間とは違う」
「だが、人間は人間だ。人間にすぎぬ」

だから瞬もまた汚れた人間の一人のはずだと、お綺麗な・・・・神たちは言うのだろうか。
タナトスに比べれば まだ品格があるように見えていたヒュプノスが、彼のレベルにまで瞬を引きずり落として評することに、氷河は憤りを覚えた。
ヒュプノスでさえ そうなのである。
タナトスの考えはヒュプノスにも増して下劣で卑俗だった。
「ふん。馬鹿げている。もしアンドロメダが本当にそんな人間なのだとしたら、アンドロメダは、他人の罪まで引き受ける自分を美しいと思い込んでいるだけの愚か者、傲慢で出来の悪い偽善者だ」
「それが瞬でなかったら、俺もそう思うだろう。瞬は普通じゃない。それは俺もそう思う」

ハーデスの従神たちは、人間を清らかな心を持ち得ない汚れた生き物だと決めつけているようだったが、だとすれば、そう考えることしかできない彼等は 人間よりも下劣で卑俗な生き物である。
氷河はそう思った――そう思わざるを得なかった。
二柱の神の言動が、氷河に、彼等を低劣な神々と思わせるのだ。
「俺は、瞬のようには振舞わない。だが、瞬の気持ちはわかる。それがわからない貴様等には、瞬の清らかさがどんなものなのか、永遠にわかるまい」

彼等の目的と低俗さを知った今の氷河には、彼等と言葉を交わすことさえ無益な行為に思えていた。
氷河は もはや、彼等と同じ空間にいることさえ苦痛だった。
だから氷河は その場を立ち去ろうとしたのである。
「おまえ……」
そんな氷河を その場に引きとめたのは、タナトスの下卑た笑い。
「なるほど、そういうことか。キグナスとやら」
そして、タナトスの瞬への執着――正確には、瞬を汚れた人間にすることへのタナトスの執着――だった。
「キグナス。俺たちは、アンドロメダの清らかさがどういうものなのか、どこに汚れを捨てているのかなどということは、実はどうでもいいのだ。アンドロメダが汚れた人間に堕ちてくれさえすれば、それで俺たちの目的は達せられる」
「そんなことにはならない。俺がさせない」
「おまえがアンドロメダと寝てくれるだけでいい」
「……」

神というものが すべて傲慢で卑俗なのではなく、神もまた人間同様、高貴な神と そうでない神がいるだけなのだろうと、氷河は思ったのである。
この双子の神は――特にタナトスが――神々の中でも特別に低俗な神であるだけなのだろうと。
しかし、これ・・は本当に、神と人間を区別するまでもなく、あらゆる生物の中で最も俗悪な生き物である。
タナトスの言葉に、氷河は絶句した。
氷河が声も言葉も失い、その場に立ち尽くすことになった訳を正しく理解しているのか――おそらく理解できていないのだろう――タナトスは我が意を得たりとばかりの得意顔で言い募った。

「そうして アンドロメダが、地上の平和だの人類の存続だのより、肉欲の方に魅力を感じるようになり、自らの肉欲を満たすことに夢中になってくれれば、俺たちは俺たちの務めを立派に果たしたことになる」
「貴様は何を言っているんだ」
「俺たちに協力しろと言っているんじゃない。俺たちが協力してやると言っているんだ。おまえの望みを叶えるために」
アテナは別格としても、ポセイドン、エリス、アベル、他郷の神ではあるがオーディーン、ルシファー。
氷河の知る神たちは、誰もが傲慢ではあっても、それぞれに品格と威信があった。
ここまで野卑な下種はいなかった。
にやにやと下卑た笑いを その顔に浮かべている銀色の神に、氷河は嫌悪と侮蔑の思いをしか抱くことができなかったのである。

「貴様等の協力などいらん。そして、瞬がもし――もし瞬が俺の気持ちを受け入れてくれるようなことがあっても、瞬は汚れたりはしない。瞬は――瞬の清らかさは、瞬の優しさと強さが培ったものだ。瞬が そんなことで汚れたりすることはない」
「そういう論理武装をして、おまえは 己れの欲望を正当化しているわけか。詰まらぬ男だ」
「貴様の言う通り、俺は詰まらん男だ。だが、瞬は違う。貴様の物差しで瞬を測るな」
「俺たちは、おまえの望みを叶えてやろうと言っているのだぞ。おまえの 浅ましい望みを」
「ほざけ!」
「おまえが情熱的に愛してやれば、清らかなアンドロメダとて、すぐ並の人間に堕ちるだろう」
「これ以上、瞬を侮辱するなと言っている!」

怒りのせいで小宇宙が増大する事態を、実は氷河はほとんど経験したことがなかった。
勝手に強さ激しさを増していく小宇宙は、制御がひどく難しい。
これは俺の戦い方ではないと思うのに、瞬を侮辱した男を許すことができそうにない。
氷河は、制御できない怒りの小宇宙に操られるように、いつのまにか 拳を構えてしまっていた。
下種ではあっても神は神。
彼等が いったいどれほどの力を持っているのかを察することはできないが、この拳は彼等に向かって放たれるしかないだろう。
そう氷河は思っていた。
“敵”は瞬を侮辱した男。
それは致し方のないことなのだ――と。

実際に、氷河は拳を放っていただろう。
「だめ! だめだよ! 氷河がそんな戦い方をしちゃ……!」
瞬が そう言って、制御できない白鳥座の聖闘士の小宇宙を 厳しく――だが、優しく――引き留めてくれなかったなら。

大切な人を侮辱された怒りを力にして戦ってはいけないというのなら、いったい俺は何を力にして戦えばいいのだと、自嘲気味に氷河は思ったのである。
そこに、瞬がいた。






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