それは、ただの恋愛問題。当事者間で解決すべきこと。
星矢が そう判断した問題を、翌日 瞬が仲間たちの揃った城戸邸ラウンジで 再び話題にのぼらせたのは、瞬が それを“ただの恋愛問題”だとは思っていなかったからだった。
瞬は、それを、アテナの聖闘士の戦いに関する問題――ひいては、地上の平和の維持に影響を及ぼす可能性のある重大な問題――だと思っていたのだ。

「でも、氷河はもっと自重すべきだよ。あんな、自分の命を捨てているような戦い方はやめて」
アテナの聖闘士たちは結果的に全員無事で、敵は皆 撃退された。
終わりよければ すべてよし。
いったい瞬は なぜ その件を蒸し返すのか――。
紫龍はさておき、氷河と星矢は そう考えているようだった。
そういう表情を、彼等は瞬に向けてきた。
それが仲間の命に関わる問題でなかったら、瞬とて、星矢たちに そんな顔を見せられた時点で 大人しく引き下がっていただろう。
それが氷河の命に関わる重大事だと思うから――瞬は引き下がらなかったのである。

「おまえが言うか」
言外に――とはいえ、極めて あからさまに、『おまえに そんなことを言う権利はない』と、呆れたように氷河が反駁してくる。
しかし、瞬は ひるまなかった。
「僕は無茶なだけだよ。生きるために、ちょっと無茶をするだけ。でも、氷河は――氷河の戦い方は投げ遣りだ」
「その二つ、違うものなのか」
「違います」
もちろん、違う。
大いに違う。
たとえ実際の行動が全く同じものだったとしても、その二つは、そもそも行われる目的が完全に違うのだ。
一方は、生きることに執着した行為であり、もう一方は、生きることに執着していないからこそ できる行為。
その二つは何もかもが違っていた。

「僕は、昨日の氷河の戦い方を責めているんじゃないの。ただ、これからは あんな戦い方はしないって、約束してほしいだけなの」
瞬の その言葉を聞いた氷河が渋面を作る。
瞬の その発言に氷河が渋い顔になったのは、『責めているのではないと言いながら、責めているではないか』と思ったからではなく、瞬の求めているものが“約束”だということを、彼が知ったから。
氷河は、約束というものを軽々しく行なわない男だった。
そういうことができない性格なのだ。
瞬は もちろん、氷河の そういう性格を知っているからこそ、“約束”という言葉を持ち出したのである。
氷河は、約束さえさせてしまえば、その約束を必ず守る。
嘘つきになりたくないから。

だから、瞬は、どうあっても氷河に『約束する』という言葉を言わせるつもりだったのである。
が、それは至難のわざのようだった。
瞬の求める言葉を、氷河は瞬に与えてくれなかった。
代わりに、彼は突然 訳のわからないことを言い出した。
「俺はずっと不思議に思っていたんだ。イエスの絵や彫刻――イエスの姿を表わしたものの ほとんどが造形的に整ったものばかりだということを」
「え?」

氷河が何を言っているのかが理解できず、瞬は一瞬 ぽかんと呆けてしまったのである。
彼は急に何を言い出したのか。
もし彼が どうあってもアンドロメダ座の聖闘士と“約束”をしたくないのなら、はっきりと そう言えばいい。
そして、その理由を説明してくれればいい。
ただそれだけのことなのに、なぜここで“イエス”なのだろう?

「氷河……あの……」
もし、氷河が ここに突然イエスを登場させた目的が、“約束”を求める人間を煙に巻くためなのだとしたら、この話題転換は あまりに唐突すぎ、突拍子がなさすぎる。
氷河の真意を測りかね 言うべき言葉を見失ってしまった瞬の前で、だが氷河は、アテナとは異なる種類の神の子の話を真顔で続けた。
彼は、自分が語っている話に脈絡がないなどとは考えてもいないようだった。

「イエスは――身も蓋もない言い方をするなら、身なりを構わない貧乏な30男だぞ。現実的に考えて、美しく描く方が不自然だろう。だが、イエスは、大抵の絵画彫刻で 端正な容貌の持ち主として表現されている。あばた面で、口のねじれたイエスなんて見たことがない。垢まみれで、臭ってきそうなイエスの絵も見たことがない。せいぜいグリュネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画の磔刑図くらいのものだ。もっとも、あれは潰瘍患者救済のために、わざと潰瘍患者に似せて描かれたものらしいが」
「氷河、僕は――」

「おまえ、ベラスケスの磔刑図が好きだろう。あれなんか典型だ。いったいどこの清潔な貴族の青年をモデルにして描いたんだと思うほど、美しい男に描かれている。掘りが深く、鼻筋が通り、歪みらしい歪みのないシンメトリー、均整のとれた肉体。十字架に架けられていなかったら、アポロンかエンデュミオン、オリオンを描いたのではないかと思うほどだ」
「それが いったい――」

「醜男に描かれては 信者の獲得に支障が出るという宗教上の都合があったにしても、芸術作品に いちいち口出しして弾圧できるほど教会に力があったのは、せいぜいルネサンス前後までだ。まあ、現代でも、ダヴィンチコードなんかには米国カトリック司教会議が異議を唱えたりしているようだが、教会には件の本を発禁にできる力もないし、教会側のクレームは むしろ宣伝に協力したような結果になっている」
「氷河……」
「もちろん、実物のイエスを見たことのある画家や彫刻家はいないわけで、イエスが事実 美しい男だったという可能性は皆無とはいえない。それでも、美しいイエス像なんて全く現実的じゃないと、俺はずっと思っていたんだ。だが最近、もしかしたら あれが正しいのではないかと思うようになった」
「……」

『もう投げ遣りな戦い方はしないと約束する』という言質を仲間に与えまいとする窮余の策なのだとしたら、それは あまりに乱暴すぎる問題点の すり替えである。
だが、氷河は、彼の話をやめるつもりは全くないらしい。
瞬は、抵抗を諦めるしかなかった。
諦めて、半ば開き直り、氷河に尋ねる。
「氷河は どうして それが正しいと思うようになったの」
「おまえが美しいからだ。それと同じ理由で、イエスは美しい人間だったのだと思うようになった」
「は……?」
「イエスは、すべての人の罪を その身に引き受け、その罪を償うために死んでいったということになっている。実際のイエスが本当にそういう意図で十字架に架けられたのかどうかは、俺は知らない。だが、キリスト教の解釈では そういうことになっている。画家たちが描いているのは、現実のイエスではなく、解釈上のイエスなんだ。そして、解釈上のイエスは、ある意味、神への生贄だ。アンドロメダ――おまえと同じに」

目的は“約束をしないこと”でも、氷河の話は一応、アテナの聖闘士と アテナの聖闘士の戦いに完全に無関係なものというわけでもないらしい。
“美しいイエス”は、犠牲のアンドロメダ姫に辿り着いた。
そのアンドロメダ姫が どうすれば白鳥座の聖闘士の投げ遣りな戦いを是とする結論に辿り着くのか。
こうなると、氷河のこじつけに興が湧いてくる。
心して彼の主張を拝聴しようと、瞬がほとんど開き直った途端、氷河の話は またしても訳のわからないところに、大胆な飛翔を遂げてしまっていた。
瞬を置き去りにして、更に遠くへ。
瞬は、氷河が次に飛んだ先に あっけにとられることになったのである。



■ ベラスケス 磔刑図
■ グリュネヴァルト 祭壇画



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