「早合点はしないでいただきたい。そうではありません。大切な弟君を人質に差し出せと要求しても、ギリシャ一のブラコンと名高い貴殿が応じるわけがない。それくらいのことは、“あの馬鹿”も承知しております」
丁重なのか乱暴なのか、礼に適っているのか いないのか。
実に判断の難しい言葉で、紫龍はそう言いました。
一輝国王の肩から、少し力が抜けます。
「瞬を人質に差し出せというのではないのか」
それでも不信の念を隠そうとせずに問い返した一輝国王に、紫龍は静かに頷きました。
そして、彼は、ティラシア国王の恐るべき要求を涼しい顔で言ってのけたのです。

「もちろん違います。しかし、瞬殿以上に確実に カリステー国王の約束履行を保証するものはないでしょう。そこで我がティラシア王国の国王は、瞬殿の身柄そのものではなく、瞬殿の血肉0.1タラントン以上の提供を貴国に要求することを考えたのです」
「瞬の血肉を0.1タラントン以上?」
一輝国王は、ティラシア王国の氷河国王の要求を聞いて 一瞬 あっけにとられ、ティラシア王国の使者と自国の家臣団の前で ぽかんと阿呆面をさらすことになってしまったのです。
とはいえ、幸いなことに、それで一輝国王の威厳が損なわれるようなことはありませんでした。
ティラシア王国の要求を聞いたカリステー王国の家臣たちは全員、一輝国王同様、ぽかんと間の抜けた顔になっていましたから。
ちなみに、“タラントン”というのは、当時のギリシャの質量の単位で、1タラントンは水26リットル分の重さ。
0.1タラントンは、約2.6キロと思っていれば大きな間違いはありません。

当の瞬王子以外のすべての人間が ぽかんとしているカリステー王宮の謁見の間で、紫龍は粛々とティラシア王国の使者の務めを果たし続けました――使者の口上を述べ続けました。
「瞬殿の心は 故国に残して――そうですね。左腕を1本、肘から下を切り落とし骨を除くくらいで いかがでしょう。もちろん、我が国としては、それが頭でも脚でも構いませんが」
「な……何を言っているんだ。貴様、正気か」
紫龍に尋ねる一輝国王の声が震えていたからといって、彼を臆病者と評するのは間違っているでしょう。
むしろ、この場合は、言葉を発することができただけ豪胆というべき。
落ち着き払った声で、
「お預かりした瞬殿の腕は、船と漕ぎ手を返してくれれば即刻 お返しいたします」
なんて答えられる紫龍の方が、人として おかしいのです。

人の道から外れたことを平然と言ってのける紫龍の様子を見て、一輝国王は やっと氷河国王の真意を理解しました――理解したつもりになりました。
ティラシア王国の氷河国王は 最初から カリステー王国に救援の手を差しのべるつもりはなかったのだ――と。
「腕を切り落とされたら――へたをすれば、瞬はそのまま死んでしまうだろう。つまり、こういうことか? 貴国は我が国に かい1本 貸す気もない。それが あの馬鹿からの回答と解していいのだな」 
「とんでもない。貸した船と漕ぎ手が返還されれば、同時に返すものが担保抵当というものでしょう。もちろん、返還なった暁には、お預かりした瞬殿の血肉も お返しいたします。返された血肉は、アポロンなりアスクレピオスなり、医術の神に頼んで元に戻してもらえばいい。その手配はそちらでやっていただきたい。我が国には そこまでの面倒を見る義務はないものと心得ております」

澄ました顔で そんなことを言ってのけるティラシアの使者の腕をこそ 即刻 切り落としてやろうかと、一輝国王は半ば本気で考えました。
そんなことをしたら、残酷極まりないティラシア国王と同じ鬼畜になってしまうと思い直して、彼は かろうじて 自分の心を抑えることができましたが。
ともかく これでティラシア国王の考えはわかりました。
ティラシア王国の氷河国王は、カリステー王国がアテナイの手に落ちたら、次は自分の国が同じ目に合うのだということに思いを至らせることなく、カリステー王国など滅びてしまえばいいと思っているのです。
氷河国王は最初からカリステー王国に船や人を貸すつもりはなかったのです。
『瞬王子を人質に』と言われた方が どれだけ ましだったか。
氷河国王の要求が そんな普通のことだったなら、どんなによかったか。
もし『瞬王子を人質に』と言われたら 断る気満々でいたにもかかわらず、一輝国王は、今では尋常ならざる氷河国王の残虐を心から憎んでいました。

こうなったら、ティラシア王国からの救援は望めません。
降伏してアテナイの奴隷になるか、誇り高い死か。
カリステー王国は そのどちらを選ぶべきなのか、どちらがカリステー王国の民のためになる道なのか。
究極の二者択一の前で一輝国王が苦悩し始めた時でした。
「ティラシアの国王陛下は、0.1タラントン以上の血肉と言ったんですね」
瞬王子が、全く悲痛な響きのない声で、ティラシア王国の使者に尋ねたのは。
紫龍が、瞬王子の問い掛けに ゆっくりと頷きます。

「その通りです。最初は“0.1タラントンの肉”を要求するようにと言っていたのですが、そう言うと、あなたの賢明な兄君は、『多すぎも少なすぎもせぬ0.1タラントンちょうどを、1滴の血も流さずに取れ』と無理難題を言うだろうからと――これは、俺ではなく、我が国の馬鹿王の言ですが」
微笑みながら瞬王子に そんなことを言う紫龍に、一輝国王は むっとしました。
腕を1本切り落とすことを要求している相手に笑顔を向けていられる紫龍も癇に障りましたが、それ以上に、『0.1タラントンの肉』と要求されていたら、確かにそう言って難癖をつけていただろう自分が想像に難くなかったので、『0.1タラントンの肉』という条件を『0.1タラントン以上の血肉』に変更したティラシア王国の馬鹿王の賢明が、一輝国王は不愉快でならなかったのです。
馬鹿王の無駄な賢明のせいで、一輝国王は逃げ道をふさがれたも同然でしたから。

「あの……でしたら……」
あまりに不愉快で顔ごと口を ひん曲げていた一輝国王と紫龍の間に 控えめに割り込んできたのは瞬王子でした。
まさか敵国の使者の笑顔に釣られたわけではないでしょうが、瞬王子は どちらかといえば、兄である一輝国王のそれよりも 敵国の使者のそれに近い表情を その可愛らしい顔に浮かべていました。
「でしたら、わざわざ肉をそぎ落としたりしないで、僕を丸ごとティラシアの国に連れていってください。僕はティラシアの国で兄の迎えを待ちます。ね、兄さん、そうしましょう。それが いちばん面倒がなくていいです。僕も痛い思いをせずに済みますし」
「……」

いつも通りの優しい表情と明るい口調で瞬王子は そう言いますが、それは要するに、瞬王子が人質として敵国に送られ拘束されるということです。
腕を1本切り落とされるよりは ちょっとましかもしれない――という程度のことに過ぎません。
けれど、一輝国王は、結局は瞬王子の提案をれるしかありませんでした。
カリステー王国の自由と独立は守られなければならず、最愛の弟の腕を切り落とすなんてことは、一輝国王には 到底できることではありませんでしたから。
そう決断した一輝国王は、この世に自分ほど不幸な国王、自分ほど不幸な兄がいるのだろうかという顔をして、ティラシア王国の使者の方に向き直りました。

「瞬の身柄は保障するのだろうな。もし瞬の身に何かあったら、我が国はアテナイ軍を撃退した後、そのまま貴様の国に攻め入ってやるぞ。無論、ティラシアの船は我が軍に組み込んだままで」
それは ほとんど脅し――もとい、完全に脅しでしたが、紫龍は一輝国王の脅しに ひるんだ様子は毫も見せませんでした。
逆に彼は、一層親しげな眼差しを、カリステー国王兄弟に向けてきました。
「カリステー王国がアテナイの手に落ちれば、次のアテナイの標的が我が国になることは、我が国の馬鹿王も承知しています。我が国としても、貴国に こんな条件を突きつけたくはありません。しかし、貴殿も わかっておいでだとは思いますが、国の存亡がかかった こんな時にも――いいえ、こんな時だからこそ、国は国民の理解を得なければならないのです。返還の保証もなしに無償で船や人員を他国に貸し出すことを我が国の民に納得させることは難しい。幸い、貴殿のブラコン――もとい、貴殿が瞬殿を深く愛し慈しんでいることは我が国でも有名なことで、これを利用しない手はありません。今は国の危急存亡のとき、こんな言い方は不適切でしょうが、瞬殿には物見遊山のつもりで我が国にいらしていただければいい。瞬殿がたった一人、我が国に遊びにいらしてくれるだけで、我が国は国民の中に不平分子を生むことなく、貴国に50艘の船と1000人の漕ぎ手を貸し出すことができるのです。貴殿の決断は、カリステー、ティラシア両国にとって非常に益のあることでありましょう」

自分は二つの国のすべての人間のために良いことをしたと信じ切っているような紫龍の飄々ひょうひょうとした態度が、一輝国王は癪に障ってなりませんでした。






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