翌日、沙織に教えられた場所に瞬が行くと、能のレクチャーはちょうど休憩時間に入っていた。 というより、スターとおぼしき女性と監督とおぼしき壮年の男性が能舞台の真ん中で言い争いをしているために、他のスタッフは必然的に休憩時間ということになったらしい。 「瞬!」 舞台脇の客席の出入り口に瞬の姿を認めると、それまで本舞台下の客席近くで スターと監督の言い争いを睨んでいた氷河が、まるで地獄で仏を見い出したような満面の笑みを浮かべ、瞬の許に駆け寄ってきた。 たとえ瞬に対してでも、人目のあるところで氷河が笑顔全開になることは滅多にない。 氷河が最後のスターの通訳 兼 世話係になって、僅か半日。 見慣れた顔に出会ったくらいのことを ここまで手放しに喜ぶほど、氷河に課せられた仕事はつらいものなのか。 氷河の笑顔は、かえって瞬の胸に大きな不安を運んできたのである。 「お仕事は大変なの? つらいことは――」 「つらいことだらけだ! あんな我儘女、見たことがない! 夕べ、夜中の2時に突然コールを入れてくるから、何か事件でも起きたのかと慌てて駆けつけた俺に、あの馬鹿女、抹茶ババロアが食べたいから買ってこいと、平然と命令しやがったんだ。夜中の2時だぞ、2時!」 「抹茶ババロア? あ……アリシアさんて、ほんとに日本の甘味の通なんだね。抹茶ババロアなら、神楽坂においしい お店があったと思ったけど……。以前、一緒に行ったでしょう」 まさか氷河と一緒に“我儘女”の悪口で盛り上がるわけにもいかず、かといって、そんなに つらい仕事ならやめてしまえと、無責任に煽るわけにもいかない。 対応に悩んだ瞬は、結局、氷河の意識を他に向ける方向で、いきり立つ氷河の心を静めるべく努めるしかなかった。 そんな瞬に、氷河が、憤懣やる方ないといった口調で、思いがけないことを言ってくる。 「あの店を、あの女、知ってやがったぞ。おかげで、今日は、ここでの打ち合わせが終わったら、神楽坂に行くことになった。夕べ、俺がコンビニを駆けずりまわって何とか見付けてきたやつは、一口食べただけで『不味い』と言って放り出しやがったんだ、あの女」 「ほんとに通なんだ……」 日本の甘味に関するスターの造詣の深さに驚きつつ、自分は それでも氷河に『頑張って』と言わなければならないのかと、瞬は大いに迷うことになったのである。 ここで氷河が この仕事を投げ出してしまったら、沙織はまた新しい人材を捜さなければならなくなり、肝心の映画の撮影も滞ることになるに違いない。 それがわかっているから、瞬は、どうすればいいのかがわからなかった。 瞬の苦衷を察したのだろう。 氷河は、その口許に、無理に作ったことが一目瞭然の引きつった笑みを刻んでみせた。 「……おまえのために、どんな理不尽にも耐える」 「あ……そんなにつらいなら……」 「大丈夫だ。確かに我儘な女だが、我儘なだけだしな。あの女がどんな我儘を言っても、世界が崩壊するわけじゃない。ただの阿呆だと思えば、腹も立たん。俺は、俺の腹より、沙織さんの顔を立てなければならん」 「氷河……」 氷河の毒舌と健気。 そのどちらに反応したものか、またしても迷うことになった瞬に、氷河が救いの手を差しのべてくる。 彼は、瞬が抱えていて風呂敷包みを視線で示し、 「それは?」 と訊いて、話を逸らしてくれた。 「あ、うん、差し入れだよ。皆さんでどうぞ。柳と菜の花をかたどった練り菓子なの。洋菓子より和菓子の方が外人さんには受けるかと思ったんだけど――でも、もしかしたら食べ物はよくなかったかな……。スタッフの体調管理とか厳しいの?」 「裏方スタッフには喜ばれるだろう。あの我儘女は、人に薦められたものは絶対に食わず、自分が食いたいものしか食わないへそ曲がりだから、勧めても無駄だろうが」 舞台のすぐ下に用意されていた資料や器具を置くためのテーブルに瞬の差し入れを広げて、氷河が来日スタッフの一人らしき栗色の髪の男性に声をかける。 それを耳ざとく聞きつけて、舞台下にいたスタッフたちが わらわらと瞬の差し入れの周囲に寄ってきた。 「 そう言って、瞬が氷河の横でにっこり笑うと、彼等は先程の氷河同様、揃って ぱっと顔を輝かせ、そして満面の笑みを瞬に向けてきた。 「おい、ヤマトナデシコが日本の菓子を持ってきてくれたぞ!」 舞台の上で喧嘩腰の女優と監督のやりとりを聞かされて、いたたまれない思いをしていたのだろう。 彼等は、おそらく意識して舞台側に背を向け、瞬と瞬の差し入れに群がってきた。 彼等の英語は スラングが多く、瞬には聞き取りにくいところがあったのだが、彼等は口々に『女王様より天使を見ていた方が癒される』というようなことを言い合いながら、瞬の前で 和菓子をコーラで喉の奥に流し込んでみせた。 スターの振舞いに疲れているのは、氷河だけではなかったらしい。 和菓子と天使に群がる人だかりに気付いたのか、スターの舌鋒から逃れるためか、監督までが舞台を下り、瞬の差し入れの方に寄ってくる。 舞台の上にはスターが一人。 彼女は不愉快そうに瞬を睨みつけ、そうしてから、自身の苛立ちをぶつける場所を求めるように氷河の名を口にした。 「ヒョウガ!」 「しばらく待ってろ。取り込み中だ」 氷河が、声のした方を振り返りもせず、わざと日本語で答える。 氷河の態度にスターが その顔をむっと歪ませる様を見てしまった瞬は、慌てて瞼を伏せた。 視線を下に落としたまま、小声で氷河に尋ねる。 「いいの? 行かなくて? 僕なら、一人でも平気だよ」 「ほいほい飛んでいくと、それはそれで機嫌を悪くするんだ」 「……」 スターは本当に扱いが難しい相手らしい。 瞬は、我知らず長い溜め息をつくことになった。 そんな瞬の耳元に、氷河が、 「今夜、俺の部屋に来てもいいぞ」 と囁いてくる。 「それはやめておくよ。夜中に呼び出しがあるかもしれないんでしょう? 途中で放り出されたら切ないから。明日も来るよ。……来ても大丈夫そうなら」 瞬が明日も来て大丈夫なのかどうかは、おそらくスターの機嫌にかかっている。 瞬は窺うように ちらりと舞台上のスターの顔を盗み見た。 「綺麗なだけでなく、存在感のすごい人だね。確かに……ちょっと疲れそうだけど」 濃紺のセミロングのドレスを着たスターは 舞台の上に仁王立ちになり、差し入れに群がっている一団を睨みつけている。 その視線の強さ、怒りの感情が作り出す険悪な空気に気付いていないはずはないのに、それをきっぱり無視していられる氷河の強心臓に、瞬は ある意味 感心してしまったのである。 氷河には つらい仕事なのだろうが、氷河以外の気弱な日本人には スターのアテンダントは務まりそうにない。 沙織の人選と その的確さに、瞬は今更ながらに得心したのである。 スターが瞬を気に入ったはずはなかった。 だが、名目上は撮影スタッフの最高権限者である監督が『ぜひまた来てくれ』と言ってくれたので、瞬はその日以降 毎日、差し入れを抱えて能楽堂や撮影スタジオに通うことになったのだった。 「みんな、瞬の差し入れを喜んでる。最初の日に、おまえが持ってきた和菓子をプロデューサーが 気に入って 同じものを探させたらしいんだが、限定発売数の少なさと値段の高さに目を剥いていた」 「あれは、前日に予約を入れておかないと手に入れるのは難しいよ。今日は可愛く、桜と菫の葛菓子だよ」 米国人の目には、瞬が幼い子供にしか見えていなかっただろう。 そのせいで、撮影スタッフたちは、油断していたのかもしれない。 30を過ぎた大スターが、小さな子供の来訪に本気で腹を立てるようなことはないだろうと。 彼等は、まるでスターに当てつけるように、瞬の陣中見舞いを大仰に喜び、歓迎し、瞬を持ち上げ、瞬を可愛がってくれた。 当の瞬は、だが、スタッフたちに厚意を示されれば示されるほど不安の念を強くしていったのである。 一度、氷河に、自分はもう来ない方がいいのではないかと尋ねてみたのだが、氷河は瞬の不安を一笑に付した。 「何を遠慮しているんだ。みんな、喜んでいると言っただろう。差し入れもだが、何より おまえが来ることを。奴等、我儘な女王様のご機嫌取りで疲れきってるからな。心優しく可愛らしいヤマトナデシコを見て、すさんだ気持ちを癒しているらしい」 「氷河は大丈夫?」 「おまえの顔を見て いちばん心を癒されているのは、何を隠そう この俺だ」 氷河に そう言われてしまっては、瞬も“顔”を見せるために、毎日 氷河の許に通わないわけにはいかなかったのである。 日に日に不快の念から成るらしい威圧感を増していくスターの視線と表情は、心配でならなかったのだが。 |