スターのプライベート・マネージャーは、スターのどんな我儘や癇癪にも動じない鉄の男――と、氷河は聞いていた。
彼の父親は スターの父親の大富豪に仕えており、彼は 幼い頃からスターの我儘に慣れているために、ちょっとや そっとのことでは慌てることもないのだ――というのが、大方の見方。
スターが羽目を外さないよう、仕事のマネージメントだけでなく、スターのお目付け役も兼ねているらしく、彼の雇い主は、名目上はともかく実質的にはスターの父親である大富豪。
お目付け役ではあるが、スターの命令には絶対服従の忠犬。
その精神は鉄のように強固だが、あれで若い頃はカメラマン志望だったらしい――というのが、氷河が他のスタッフから得ていた彼に関する情報のすべてだった。

スターより2、3歳年上のその男が、突然 氷河をホテルのミーティングルームに呼び出し、
「いつも来るあの子は君の恋人か」
と、およそ彼自身は関心を抱いていないだろうことを問い質してきたのだから、氷河は嫌な予感を覚えないわけにはいかなかったのである。
この呼び出しが、スターの指示によるものであることは明白。
残り2日間を何事もなく無事にやり過ごしたいと願い、そのつもりでいた氷河は、スターのマネージャーによる新しい動きに、内心で身構えることになったのだった。

「それがどうした」
素っ気なく答えた氷河に、氷河以上に突き放すような口調で、スターのマネージャーが、
「別れろ」
と命じてくる。
自分が何を言われたのかを咄嗟に理解できず、氷河は目を剥いた。
「なに?」
「――という、スターの命令だ」
スターのお目付け役にして、その命令には絶対服従の忠犬。
忠犬というものは、主人の命令の前には、常識も 主人以外の人間の意思や感情も無視できる生き物であるらしい。
スターに比べれば――むしろスターがあんなふうだからこそ――常識的判断力を備えているのだろうと思っていた男の非常識な言葉に、氷河は しばし あっけにとられた。

「そして、アメリカに一緒に来るようにと」
スターは、極東の島国で会った 自分の意に沿わない野良犬を 男メカケにでもして飼い馴らすつもりなのか。
本来なら怒髪天を衝いて怒りまくるシーンなのだろうが、氷河は、常軌を逸したスターの我儘振りに呆れ、逆に気が抜けてしまったのである。
「俺は、単なる日雇いだ」
「ギャラは弾む。いや、お小遣いか」
スターの忠犬の蔑むような口調、視線。
そして、無関心無感動な無表情。
そういったものは通常は氷河の役どころだったので、自分のポジションとスタンスを奪われた氷河は少し むっとすることになった。
忠犬のそれ以上に 忠犬を蔑む目と口調で、氷河が答える。

「俺のギャラはグラードから出る。ある日本画家の絵をもらう約束になっている。普通に買ったら、1500万相当の絵だ」
「なに」
氷河が口にした報酬の額には、さすがの鉄の男もびっくりしたらしい。
彼は、氷河の8日間の仕事の報酬を、多くても その50分の1程度と考えていたのだろう。
彼は絶句して、日当190万の男を まじまじと見詰めてきた。
「俺は、オコヅカイでどうこうできるような安い男じゃないんだ」
「それはわかる」
氷河を見下している態度を露骨にしていた男が、意外や素直に氷河の言に頷く。
鉄の男の首肯に、氷河は一瞬 虚を衝かれた。

「君がただ者ではないことは わかっている。見てくれがいいだけの男ではない、何かが君にはある。普通の人間ではない。私はこれでも若い頃はカメラマン志望だったんだ。人を見る目はあるつもりだ」
「……」
アテナの聖闘士が普通の人間でないなら、確かに氷河は ただ者ではなかった。
彼に人を見る目があるのは事実のようだと、氷河は思ったのである。
もっとも、氷河の その評価は、忠犬が続けて口にした言葉で、完全になかったものになってしまったが。

「あの子は――確かに あの子は可愛らしいし、綺麗だ。人当たりもいいし、優しいし、気配りもできる。礼儀正しく、善良で、道徳的で、日本人らしい美徳も数多く備えているんだろう。しかし、君のような男にふさわしい子だとは思えない。個性的でもないし、穏やかすぎて退屈、控えめすぎて華がない。見るからに脇役。聖女というのは、狂信的でもない限り、魅力のないものだ。悪女の方が よほど魅力的だ。まさか君が安定や安息を求めているわけではないだろう。君は、どう見ても破滅型の男だ」

自分を建設的な人間だと思ったこともないが、はっきり破滅型の男と断言されて、氷河は 到底いい気持ちにはなれなかったのである。
その上、あの瞬を掴まえて『退屈』とは、見る目のある男の目も たかが知れている。
「貴様、何が言いたい」
「あの子は、呆れるほど普通すぎて、君には不釣り合いだと言っているんだ。君にはスターくらい特別な人間でないと、合わない」
人間性においても、聖闘士としての力量においても、自分は瞬に数段劣ると自覚していた氷河には、スターの忠犬の言葉は痛烈な皮肉になっていた。
その皮肉を、全く逆の意味で忠犬が吠えたてていることが、氷河の神経を逆撫でしてくる。

「俺が瞬にふさわしくない詰まらない男だということは自覚しているが、だからといって、俺は 瞬を諦める気にはならん」
低く唸るような声で 氷河が そう告げた相手は、既に 見る目のない忠犬ではなかった。
忠犬の飼い主に対してでもなく――氷河は、自分自身と、今はここにいない瞬に対して そう言ったのである。
「話を聞いていなかったのか? 私が言っているのは――」
氷河の言の真意など理解できるわけもない忠犬が、彼の判断力と価値観に従って、氷河の発言の修正を試みてくる。
これ以上、犬と話していても無駄。何の益もない。
忠犬の言葉を最後まで聞かず、氷河は、大きな音を響かせて席を立った。
氷河は、そして、そのままミーティングルームを出、ホテルを出たのである。

話すことは他愛のない茶飲み話でも駄法螺でもいい。
ただ氷河は、今、無性に、自分と同じ価値観を有し、見る目のある者たちと言葉を交わしたかった。






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