イスラム建築の傑作・アルハンブラ宮殿を その懐に抱いていたグラナダが陥落、イベリア半島からはイスラム勢力が消滅され、スペインは国民統一を完成させた。 フィレンツェでは、豪華王ロレンツォ・デ・メディチが死去。 ローマでは、悪名高きボルジア家のロドリーゴ・ボルジアがアレクサンデル6世として教皇就任。 カスティーリャのイサベル1世の援助を受けて、大西洋を西に向かって漕ぎ出したクリストファー・コロンブスが未知の大陸に辿り着いたという、嘘か真かわからぬ噂が流布している――。 1492年、南欧は大事件続きで、それはまさに激動の1年だった。 とはいえ、それらの出来事は すべて聖域の外で起こったことであり、アテナの聖闘士たちには ほぼ関わりのないこと。 完全に俗世と遮断されているわけではないので、女神アテナの統べる聖域とて、無論、大なり小なり、外界の政治文化の変化の影響は受ける。 平時であれば、それらの出来事は、聖域でも大いに取沙汰されていただろう。 しかし、欧州が それらの大事件に揺れていた その時、聖域は平時ではなかった――聖域も揺れていたのだ。 その年は、250数年振りの聖戦勃発の年に当たっていた。 その兆しと思える事件が、聖域の周辺では頻発していたのである。 そんな中、もはや“兆し”と言ってはいられないような事件が起こったのは、人間界の激動など意に介したふうもなく晴れ渡ったある日の午後。 その日、聖域に侵入しようとしていた数人の冥界の手の者が、アテナの聖闘士の手によって捕えられた。 その者たちは雑兵ではなく、冥闘衣を その身にまとった 歴とした冥闘士とその配下の者たちだった。 彼等は、聖域を覆うアテナの結界を破ることができず、聖域に入りあぐねているところをアテナの聖闘士たちに発見され、捕えられることになったのである。 地奇星フログの冥闘士と名乗った その男は、ほとんど抵抗らしい抵抗も見せずに、アテナの聖闘士たちに捕縛された。 アテナとアテナの聖闘士たちを倒すために聖域に侵入しようとしていたにしては、戦おうとする素振りを見せない冥闘士を訝り、彼を捕えたアテナの聖闘士たちは その旨をアテナに注進したのである。 その知らせを受けたアテナが、青銅聖闘士を一人 従えただけで、その者を捕えた場所にやってきたのは、その事件を軽々に公にし、聖域の者たちを浮足立たせることがないようにと配慮してのことだったろう。 何といっても、それは聖戦開始の合図かもしれないのだ。 冥府の王ハーデスが ついに長い眠りから目覚めたことを知らせる重大な事件なのかもしれない。 アテナは、自分の目と耳で その事件の意味を確かめたかったのかもしれなかった。 ヒキガエルのような地奇星の冥闘士を捕えたのは、つい先頃 聖衣を授けられたばかりの天馬座の青銅聖闘士 星矢と龍座の青銅聖闘士 紫龍――要するに、聖闘士になりたての新米だった。 アテナが護衛として従えてきたのも、星矢たちより 僅か一ヶ月早く聖衣を授けられたばかりの白鳥座の青銅聖闘士 氷河。 それもまた、聖戦が始まる予兆だったのかもしれない。 この半年の間に、聖域では 続々と新しいアテナの聖闘士たちが誕生し、聖域に集結していた。 「こいつ、まるで、戦う気配を見せないんだ。散歩の足をのばして聖域までやってきたわけでもないだろうから、もしかしたら ただの斥候の類なのかもしれない」 聖闘士になりたての、しかも アテナの聖闘士の中では最も下位に位置する青銅聖闘士であるにもかかわらず、アテナに対する星矢の言葉使いが ぞんざいなのは、決して彼がアテナを敬っていないからではない。 星矢は、誰に対してもそうなのである。 そして、それは、彼と彼の仲間たちが 聖闘士候補者として初めて聖域を訪れた時、アテナが彼等に非常に親しい態度を示してくれたからでもあった。 「おそらく、星矢の推察通りでしょう。私がハーデスの欲しいものを隠しているから、それを探りにきたのね。そして、あわよくば それを見付け出し、ハーデスの許に運ぼうとした――」 「ハーデスの欲しいもの? 何です、それは。隠しているとは、どこに」 星矢に比べれば まだ神への言葉使いを心得ている氷河が、星矢に比べれば まだ丁寧な言葉使いで、アテナに尋ねる。 が、彼は その答えを手に入れることはできなかった。 アテナが答えなかったのではない。 その前に――アテナが 氷河の問いに答える前に、もう一人の誰かが 氷河と同じ質問をアテナに投げかけたのだ。 「どこにいるのだ、あれは」 そこにいるだけで、周囲の空気を薄ら寒くしてしまうような黒衣の男。 着衣だけでなく、髪も瞳も漆黒の一人の男が、いつのまにか アテナとアテナの聖闘士たちの背後に立っていた。 「ハーデス……」 「ハーデス !? 」 あまりに唐突に、仰々しいセレモニーもなく、どこからともなく現われた その男が、アテナとアテナの聖闘士たちの宿敵といっていい神だということを知らされて、新米聖闘士たちは目を剥いたのである。 黒衣の男――冥府の王は、為す術もなくアテナの聖闘士に捕われた不甲斐ない部下に一瞥をくれることもなく、もう一度、 「あれは、どこにいるのだ」 と、同じ問い掛けを繰り返した。 だが、アテナは答えなかった。 その質問には。 「まあ、あなたが、ご自分のお身体で、昼日中に 地上に お出ましとは……。よろしいの? ご自慢の美しい身体を大嫌いな日の光に さらしたりなどして」 「自慢の美しい身体? 何だ、それは」 どうやら自分がアテナの答えを手に入れ損なったのは、この黒衣の男のせいであるらしい。 そう悟って、氷河は機嫌を悪くした。 機嫌の悪さを、そのまま自分の声に乗せて、アテナにともハーデスにともなく尋ねる。 答えは、アテナから返ってきた。 「ハーデスは、クロノスとレアから授かった美しい自分の身体を傷付けるのが嫌で、私と戦う時には必ず 一人の人間を自分の依り代にするのよ。その時代、地上で最も清らかな魂の持ち主を」 「クロノスとレアから授かった美しい身体? まさか、それがそうだとは言わんだろうな」 「なに?」 氷河にしてみれば、それは、(あまり)他意のない素朴な疑問だった。 氷河の素朴な疑問に、ハーデスがぴくりと片眉を震わせる。 神話の時代から聖戦を繰り返してきた女神アテナと冥府の王ハーデスの再会。 もしかしたら不倶戴天の二柱の神は優雅な挨拶を交わしたかったのかもしれないが、白鳥座の聖闘士の不機嫌のせいで、彼等は、互いに『ごきげんよう』を言う機会を失ってしまった。 もっとも、氷河は、二柱の神に対して 自分が何をしてしまったのかを全く自覚していなかったのだが。 自覚なく、氷河は彼の思うところを正直に口にした。 「もし そうなら、貴様の美意識はどうかしているぞ。確かに醜くはないが――美しい? 貴様が美しいか?」 そんなことを当人に訊くだけでも、いい度胸である。 しかも、その“当人”が、人類の粛清を企てている冥府の王、アテナのそれに匹敵するほど強大な力を持った神の一柱。 神への言葉使いを知らない星矢でさえ、氷河の無礼には驚き呆れていた。 まして、たかが人間に無礼な口をきかれた誇り高い神の心境は、“呆れる”どころでは済まなかっただろう。 とはいえ、神への礼儀も畏敬の念もわきまえていない人間と同じレベルで腹を立てるわけにはいかないと考えたのか、ハーデスは立腹した様子は見せなかった。 代わりに、アテナの聖闘士に皮肉げな声と言葉を投げかけてくる。 「そなた、人間にしては美形なのかもしれないが、決して神である余を偉そうに批判できるほど美しいわけではないぞ」 「批判や批評というものは、美しい人間だけの専売特許ではないだろう。俺は、貴様が あまりに陰気で不気味な姿をしているから、思った通りのことを正直に言っただけだ。だいいち俺は、貴様と違って、自分を美しいなんて思っていない。無論、不細工と思っているわけでもないがな」 「余が陰気で不気味 !? 」 「自慢じゃないが、審美眼は俺の方が確かだ。フィレンツェのプラトンアカデミーで『真善美とは何か』なんて議論をしでかしている人文主義者たちなんかより、俺は美醜にはうるさいんだ。しかし、そんな俺でも、自分で自分を美しいなんて、真顔で語ったりはしない。貴様が地味で不気味なのは仕方がないが、変なうぬぼれは貴様自身の価値を一層 下げることになるぞ。人類粛清なんて、阿呆なことを考えるあたり、貴様は精神が屈折した厭世家なんだろう。おそらく、それが外見ににじみ出ているんだな。その上、見るからに暗くて鬱陶しくて、地味で陰気。とにかく、貴様は自分が思っているほど美しくはない。それを自覚すべきだ。ちなみに、俺が知る限りで最も美しい人間は、俺のマーマで――」 「阿呆! 氷河、この馬鹿! 思ったことを正直に言うのは悪いことじゃないけど、よりにもよって こんなところで敵の首領相手に、おまえのマザコン披露して どーすんだよ!」 光と闇のように鮮やかな対比を見せる二人の男の 下らぬ言い争いに呆れていた星矢が、慌てて 二人の間に割って入る。 それでなくても、あるべき本道から脇に逸れていた二人のやりとり。 これ以上 遠くに行かれてしまうのは、星矢たちには、むしろ迷惑だった。 自分が道を逸れていると意識してもいなかった氷河が、星矢の制止に眉をひそめる。 「俺は、この陰気野郎は自分が思っているほど美しくも何ともないから、他人の身体を使ったりせず、自前の身体で戦えと忠告してやっているんだ。いわば親切心だ」 「わかったから、黙れってば! ハーデスって、アテナと渡り合うほど強大な力を持っている神サマ、怒らせたら何するかわからない、いわば狂人なんだぞ! 確かに、陰気な黒づくめで、不気味で、言うほど美形ってわけじゃないけどさ」 『その強大な力を持つ神サマを怒らせているのはどっちだ !? 』という突っ込みは、誰からも入らなかった。 氷河には そもそも自分がハーデスを怒らせるようなことをしているという自覚がなかったし、地奇星の冥闘士と その手下はハーデスの怒りを恐れて、口もきけない状態。 アテナと紫龍は、氷河と星矢による漫才に口許が引きつって、それどころではなかったのだ。 当然、氷河への突っ込み――というより、反論――は、ハーデスが自ら行なうことになった。 「何という無礼な。余が陰気で不気味だと !? 」 「貴様は 自分で思ってるほど美しくはないと教えてやっただけだ。冷静で客観的な第三者の目と判断力で。貴様は、何といっても地味で華がない。見ていて楽しくない。貴様の姿は、むしろ 見る者を不快にするものだぞ。暗く ねじ曲がった性格がにじみ出ている」 「不快 !? 余の姿が不快 !? 」 「うぬぼれもあれだが、人類粛清なんて 根性の曲がった陰険なことを考えるあたり、他者の存在を否定することでしか自分の存在意義を確かめることのできない、傍迷惑な馬鹿でもあるようだし」 「氷河、そのへんでやめておけ。いや、聖域と地上の平和のために、やめろ」 なんとか口がきけるようになった紫龍が、遅ればせながら、星矢よりは まともな言葉で、氷河の暴走を止めようとする。 しかし、それは、もはや遅きに失したものだった。 ハーデスは、その時には既に、聖戦の行方も人類の粛清もどうでもいいと思うほど怒り狂っていたのだ。 アテナとアテナの聖闘士の宿敵、強大な力を持つ冥府の王が、その怒りを言葉にする。 それは思いがけない言葉だった。 冥府の王は、白鳥座の聖闘士に向かって、 「傲慢な人間よ。そなたに、このハーデスが呪いをかけてやろう」 と言ったのだ。 |