「呪い?」
「そなたの自慢の審美眼を奪ってやろう。いや、そなたの審美眼、美意識を正してやろう。たった今、この瞬間から、そなたは、本来の肉体の美醜にかかわらず、心の清らかな者が美しく見えるようになる」
「なに……?」
「心の清らかな者の姿が、その清らかな心通りに美しく見えるようにしてやろうと言っているのだ。余に感謝しろ」
「貴様は何を言っているんだ。意味が――」
ハーデスが告げた言葉の意味が、氷河には わからなかった。
清らかな心を持つ者の姿が、その清らかな心通りに美しく見えるようになる。
それのどこが呪いだというのか――。

ハーデスは、存外に親切な男だった――のかもしれない。
冥府の王の発言の意味を汲み取ることができずにいる氷河のために、彼は わざわざ冥府の王の呪いの内容を詳しく説明してくれたのだから。
もっとも、行動が親切だからといって、その行動が親切心から出たものとは限らないのが世の常というものだが。
「そなたの目に美しく見える人間は、心は清らかだが、その姿は救いようがないほど醜い人間。そなたが 最高に美しいと信じて恋する人間は、他の者から、『なぜ あんな醜い人間に恋をしたのか』と陰で笑われるような醜い人間。そういう呪いをかけてやると言ったのだ。心の清らかな人間が、本来の美醜にかかわらず美しく見える目を、そなたに与えてやろうと」
「……」

ハーデスの懇切丁寧な説明によって、氷河はやっとハーデスの呪いの意味を理解した。
心の清らかな者が美しく見える呪い。
それが二目と見られぬほど醜い人間であっても、心が清らかでありさえすれば、途轍もない美人に見える目を白鳥座の聖闘士に与えてやると、冥府の王は言っているのだ。
「おい、勝手なことをするな。俺は――」
「さあ、とびきり醜い娘に恋い焦がれるがいい。そして、審美眼のない悪趣味な男と、皆に馬鹿にされるがいい!」
地味で陰気な男という印象の強かった男が、自らの勝利を確信し、突然 明るく派手な笑い声を周囲に響かせ始める。
それは、ハーデスとは神話の時代からの長い付き合いのアテナでさえも初めて聞く、冥府の王の高笑いだった。
どう考えても、今のハーデスは冷静な判断力を失っている。
アテナは頭痛をこらえるように額に右の手を当てて、異様なまでに楽しそうなハーデスを たしなめることになったのである。

「ハーデス。そんな馬鹿な戯れ事はやめてちょうだい。それより聖戦はどうするの」
「聖戦? そんなものは中止だ、中止。余は、余の美しい身体を戦いの中に投じるわけにはいかん。依り代を手に入れないまま、戦いを始めることはできない。この思い上がった若造に天誅を下すのが、余の今回の聖戦だ」
「……は?」
それは、アテナにとっては想定外の言葉だった。
もちろん、彼女は、回避できるものなら聖戦を回避したかったのである。
彼女は、そのための努力――むしろ画策――もしていた。
ひとたび聖戦が始まれば、地上の平和を守るために 聖域は大きな犠牲を払うことになるだろう。
ハーデスの高笑いと決断は、アテナにとっても非常に喜ばしいものだった。
それでも――それでも、アテナは、ハーデスの言葉に絶句した。
ハーデスが、そんなアテナを無視して、思いがけない展開に呆然としている白鳥座の聖闘士に 意地の悪さを極めた視線を投げてくる。

「そなたが そなたの恋人に愛を告げた時、そなたにかけられた余の呪いは解ける。己れの恋した者の醜さに絶望するがいい」
「おい。だから、勝手なことはするなと、俺は――」
そんな呪いをかけられてしまっては たまらない。
氷河は、急いでハーデスの悪ふざけを思いとどまらせようとしたのだが、時 既に遅し。
勝利の確定した戦場に長居は無用と考えたのか、それとも 自慢の美貌が地上の紫外線によって損なわれることを懸念したのか、氷河がハーデスを捕えようと腕をのばした時、既に その場にハーデスの姿はなかった。
冥府の王は、カエルの冥闘士共々、光あふれる地上世界から忽然と その姿を消してしまっていたのである。

「じょ……じょーだんではないぞ……」
たった今まで 確かに冥府の王がいた場所にある空気と陽光を 虚ろな目で見やり、氷河が うわ言のように呟く。
その呟きが 怒声であっても悲鳴であっても、事態は変わらなかったろう。
氷河に とんでもない呪いをかけた男――そして、おそらく その呪いを解くことのできるただ一人の男――は、その時には既に人間界にはいなかったのだから。
ハーデスの呪いに 氷河ほど衝撃を受けなかったアテナと彼女の聖闘士たち――というより、ハーデスの呪いなど痛くも痒くもないアテナと彼女の聖闘士たちが、すぐに白鳥座の聖闘士に声をかけてやることができなかったのは、こういう場合、善意の第三者が悲運の当事者にどんな言葉をかけてやるべきなのかが、彼等には皆目わからなかったから――だった。
彼等は、とんでもない災難に見舞われた男と視線を合わすことを恐れ、かといって その場に氷河一人を残して立ち去ることもできず、呆然自失状態の氷河の扱いに窮することになったのである。

そんな気まずい空気の中で、最初に気を取り直したのは、某天馬座の聖闘士だった。
気を取り直した――というより、彼は気付いたのである。
これ・・は別に悪いことではない。
むしろ、非常に 良いこと、喜ばしいこと。聖域で盆踊り大会を開催しても いいくらい、めでたいことだという事実に。
白鳥座の聖闘士は、実に素晴らしい偉業を成し遂げたのだと。
「聖戦中止だってよ! すげー。氷河、おまえ、おまえ一人の力で聖戦を食い止めちまったんだぜ!」
これが喜ばしいことでなかったら、何が喜ばしいことなのか。
星矢は、弾んだ声で仲間の偉業を褒め称えた。
仲間に手放しの称賛を受けた氷河は、あいにく、その称賛を手放しで喜ぶわけにはいかなかったが――星矢に褒められても、彼は少しも嬉しくなかったが。

瞳を輝かせて、白鳥座の聖闘士に 明るい笑顔を向けてくる星矢を、氷河はいっそ殴り倒してやろうかと思ったのである。
そんなことをしても事態が好転するわけではないと思い直すことで、かろうじて氷河は そうすることを思いとどまった。
今は何よりも現状を正しく把握し、その上で問題解決の道を探ることが第一。
最悪の事態を避ける道はあるはずだと、氷河は希望の闘士らしく、自分に言い聞かせたのである。
そうでもしないことには、彼は自分の足で大地を踏みしめていることさえできそうになかった。

「ハーデスは――ハーデスは俺に呪いをかけたと言っていたが、おまえも紫龍もアテナにも、何も変わったところはないぞ。美しくも醜くもなっていない。今までと同じに見える。これはどういうことだ?」
氷河が希望の闘士らしく希望を見失わずにいることができた最大の理由は、それだった。
少なくとも今現在、氷河の目に映る景色には、昨日までのそれと比べて何の変化も見られなかった。
ハーデスの呪いをかけられる以前と、かけられた後。
氷河の目に映るものは、何も変わっていなかったのだ。
星矢が、一瞬 考え込んでから、彼の思うところを口にする。

「アテナは神だからハーデスの力が及ばないんだとしても、俺と紫龍は、別に清らかでも邪悪でもないってことなんじゃねーの? 言ってみりゃ、普通。アテナの聖闘士ったって、俺、普通に盗み食いはするし、みんなで分けろって言われた食い物を こっそり一人で食っちまったこともあるし、そこいらの果樹園からオレンジやイチジク ちょろまかすこともあるし。俺、生まれて この方、ただの一度も、誰からも、キヨラカなんて言われたことねーぜ」
「確かにおまえは、食べ物に関しては、全く清らかではないな」
星矢の悪気のない告解に、紫龍が僅かに苦笑する。
星矢の態度と発言の軽快さのおかげで、紫龍は――紫龍も――平生の落ち着きと判断力を取り戻すことができていた。
そして、紫龍は――紫龍も――星矢と同じ結論に至った。
これは、別に悪いことではない。
むしろ、非常に 良いこと、喜ばしいこと。聖域で大祝典を催して いいくらい めでたいことだという結論に。

「ハーデスはさ、清らかな心を持ったブスが絶世の美女に見えるようにするって言ってたじゃん。美人をブスにするとは言ってなかった。普通の人間は普通のまんま。つまり、おまえが すげー美人って思ったら、それが本当はブスだって考えればいいんだろ」
「星矢の言う通りだ。これはむしろ いいことなのではないか? 心の美しい人間を、外見の美醜に惑わされることなく見極められる力を授かったということなんだから」
「これが いいことだとぉ !? 」
呪いをかけられた当人ではない気楽さで、星矢も紫龍も 言いたいことを言ってくれるものである。
呪いをかけられた当人は、とてもではないが、これを“いいこと”だと喜ぶわけにはいかなかった――そんなことはできなかった。

「不細工な恋人を持って、人に笑われるなんてごめんだ。俺が絶世の美女と思った人間が、実はデブの巨漢で、あばた面のブスで、不潔な乞食女だったりするなんて、じょーだんじゃない!」
「人がどう思おうと関係ないじゃん。おまえの目に綺麗に見えて、性格いい子なら」
氷河の憤りと苦境を解することなく 星矢がそう言ったのは、彼が呪いをかけられた当人ではなかったから――ではなかっただろう。
もちろん それもあっただろうが、しかし、それよりも何よりも――星矢は恋という行為を自分には縁のないものだと思っている気楽さから、そんなことを平気で言えてしまったに違いない。
あるいは、恋というものを さほど重大なイベントだと考えていないから。
だが、恋というものは、普通の人間にとっては 人生の大イベントなのである――そのはずだった。
そして、氷河は、実に厚かましいことに、自分を普通の人間だと思っていた。

「何を言う。普通、人間は、意識・無意識の別はあっても、容姿の出来不出来と 性格の良し悪しを 総合的に判断して、ある一人の人間が自分の恋の対象になり得るかどうかを決めるものだろう。いくら美人でも性格が悪すぎるから駄目とか、見た目はいまいちだが性格がいいから妥協することにしようとか」
「そんなもんなのか?」
「そんなもんなんだ。だいいち、俺は、これまで俺に言い寄ってきた女共を すべて、マーマ以下だから話にならんと振りまくってきた男だぞ。その俺が、不細工な恋人など作れるか!」
「あー。そーいや、おまえ、平気で人のこと、不細工だの何だのって言いまくってたもんな。思いっきり、みんなの恨みを買ってるから、不細工な恋人なんか作ったら、みんなの嘲笑の的になるかもな」
「……」

後悔 先に立たず。
その格言を、氷河は今 身に染みて実感していた。
気楽な星矢は、その気楽さゆえに、氷河の厳しい現実を平気で指摘してのける。
星矢の言う通りだった。
自身の美しさを信じ切っているハーデスに出会う以前から、氷河は、自分の容姿に自信を持っている(らしい)人間が嫌いだった。
“マーマ以下”の分際で どうすれば そんなふうに思い上がれるのかと思い、そんな人間たちを 片端から こきおろしてきた。
その報いを、まさか こんな形で受けることになろうとは。
氷河は、これからの自分の人生を思うと、暗澹とした気持ちにならないわけにはいかなかった。






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