何はともあれ、そういうわけで、この時代の聖戦は回避されることになったのである。
予断は許されないが、仮にも神たる者が一度 口にした言葉を撤回するには、それ相応の大義名分というものが必要になるだろう。
アテナの結界に守られた聖域に戻るアテナの聖闘士たちの足取りは軽かった――某白鳥座の聖闘士のそれを除いて。
人の姿を視界に入れることを恐れるあまり 顔を俯かせて歩く氷河の様子は、もしかしたら、彼が『地味で陰気で不気味』と評した冥府の王より地味で陰気で不気味なものだったかもしれない。

地面だけを見詰めて歩を進めているうちに、だが、氷河は少しずつではあったが、気を取り直していったのである。
絶世の美女になど、そうそう会えるわけがないのだ――と。
生まれてこの方、ただの一度も、氷河は自分の母より美しいと思える人に会ったことがなかった。
そんな人には おそらく一生会うことはないだろう、自分は一生 誰かに恋をすることはないのだ――と思い始めてさえいたところだったのである、氷河は。
そんなふうに、これまで出会いたくても出会えなかった人に、まさか今日 突然出会うことなどあるはずがない。
その上、地上の愛と平和を守るために命をかけて戦うアテナの聖闘士でさえ、必ずしも清らかな心の持ち主とは限らないとなったら、なおさら。

「馬鹿馬鹿しい。俺は何をびくびくしているんだ。もしかしたら、ハーデスの呪いが発動する時は永遠にこないかもしれないのに」
声に出して、自分に そう言い聞かせ、氷河は おもむろに顔をあげたのである。
アテナ神殿のファサードで。
冥府の王に呪いをかけられて10分と経たないうちに。
それが、氷河の運の尽きだった。
その時、その瞬間が、氷河の運命の時になったのである。

「星矢! 紫龍! ハーデスは今回の聖戦を放棄したみたいだから、僕、もうアテナ神殿から出ていいって!」
弾んだ声で そう言いながら、アテナ神殿の中から、声同様 弾んだ足取りで駆けてきた一人の人間。
その人の姿を見た途端、氷河は ぽかんと阿呆のように口を開けて、その場に立ち尽くすことになってしまったのである。
「瞬! そっか、聖戦がなくなるって そういうことか! よかったじゃん。おまえ、もう半年近く、ろくに外に出れずにいたのに!」
「うむ。長かったな。よく我慢できたものだ。これが星矢だったら、半日と もたなかっただろう」
「星矢にも紫龍にも心配かけて ごめんね。僕、今日からもう、好きなだけ 外を走りまわっていいって!」

その人は どうやら、星矢と紫龍の知り合いらしい。
二人に明るい笑顔を向け、星矢と紫龍も 同じように嬉しそうな笑顔を その人に向けている。
歳が近いせいか、特に星矢と親しいらしく、二人は手を取り合って、再会を(?)喜び合っていた。
その横顔を描く線の美しいこと。
星矢の隣りに立つ紫龍に向けた面差しの可愛らしいこと。
表情の清楚、可憐。
笑顔がきらめくたび揺れる髪のやわらかさ。
薄紅色のアーモンドの花のような唇。
何よりも、この世に ただ二つしかない宝石のように澄み切った その瞳。
その人は光の中にいた。
光を生んでいた。
否、光そのものだった。
『この人は誰だ』と思う前に、氷河は、『これは何だ』と思った。
氷河は、その奇跡のような存在に圧倒されてしまったのである。

なぜ星矢は、この奇跡に、平気な顔で向かい合っていられるのか。
眩しくはないのか。
この圧倒的絶対的な清らかさに恐れを覚えないのか――。
氷河には、星矢の無神経と無感動が、今 自分の目の前にある奇跡よりも信じ難かった。

「氷河、どうした」
見るからに心身虚脱状態で 天馬座の聖闘士と その友人の微笑ましくも仲睦まじい戯れを視界に映している氷河を訝って、紫龍が尋ねる。
「あ……あの子……」
ただ それだけの単語、たった一つの言葉を口にするだけでも、氷河には かなりの力と気力が必要だった。
声も喉もかすれ、乾ききっている。
氷河は、それを、自分の唇が発した自分の声だと思うことができなかった。
紫龍が、自分よりも年下の二人が じゃれ合っている姿に一瞥をくれ、口許をほころばせる。

「瞬がどうかしたのか?」
「瞬……?」
「ああ。瞬は、俺と星矢が生まれた村の出身で、聖闘士になるために 俺たちと一緒に村を出て聖域に来たんだが、色々と事情があって、昨日までアテナ神殿の奥に――氷河? おまえ、何を ぼけっとしてるんだ」
「あの子……綺麗だと思うか」
「なに?」
僅か10数分前に起こった出来事を忘れるほど、紫龍は忘却力に優れた男ではなかった。
氷河が なぜそんなことを仲間に問うてくるのか、その意味を瞬時に悟り、彼は たった今まで微笑の形を作って口許を、思い切り引きつらせた。
星矢が、奇跡の人の手を引いて、光でできた その人を 氷河の前に連れてくる。

「氷河は初めてなんだよな。こいつ、瞬ていうんだ。俺たちの幼馴染みで――おい、氷河、おまえ、どーしたんだ? ぼーっとして」
同じ村出身の幼馴染みを仲間に紹介しようとした星矢の腕を強く引き、紫龍が目で星矢を制止する。
紫龍が目で語ろうとしていることを読み取れず、星矢は首をかしげた。
「星矢、まずい」
今更そんなことをしても意味はなかっただろう。
それでも、紫龍は声をひそめた。
「まずいって、何が」
星矢が、彼の通常通りの音量で、紫龍に問い返す。
紫龍は、我知らず眉間に深い縦皺を刻むことになった。

「あー……、つまり、あれだ。氷河は、会ってはならない人に会ってしまったんだ」
「へ?」
いったい紫龍は何を言っているのか。
そこまで言われても紫龍の言を理解できずにいた星矢は、氷河に、
「綺麗なのか? この子は、おまえらの目で 客観的に見て」
と問われて初めて、紫龍の奇妙な振舞いが狼狽によるものだったことに気付いたのである。
「氷河。おい、まさか、おまえ、瞬が絶世の美女に見えるっていうんじゃないだろーな? おまえ、目は大丈夫か」
言いながら、星矢が瞬を その背後に隠す。
「星矢?」
幼馴染みの振舞いの意味がわからず首をかしげたのは、今度は瞬――氷河が会ってはならぬ人だった。






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