『目は大丈夫か』と星矢に問われ、氷河は絶望的な気分になったのである。
光そのもので できているような この人――瞬――は やはり、星矢が仲間の目の具合いを心配するほど醜いのだ。
少なくとも美しくはない――のだろう。
だが――。
「だが、綺麗だ。可愛い。まさか、こんな人が聖域にいたなんて――」
「おい、氷河。おまえ、なに阿呆なこと言ってんだ。正気に戻れ、この馬鹿たれがっ!」
星矢が、罵声に似たような大声を アテナ神殿のファサードに響かせる。
その声で、氷河は はっと我にかえった。
一瞬だけ。

清らかな光そのものでできているかのように、眩しく美しい人。
こんなにも美しく見えるのに、実際のこの人は、デブの巨漢で、歪んだ あばた面の醜悪を極めた姿の持ち主なのだ。
それは わかっている。
理性では わかっている。
その事実を、氷河は今、ハーデスに彼の呪いの内容を詳細に説明された その時よりも しっかりと意識していた。
だが、氷河の目に映る瞬の姿は あまりに可憐で、可愛らしく、その優しく清らかな眼差しと表情は氷河の心を惹きつけ、引き寄せ、離さない。
瞬に引きつけられる目と心ごと、瞬の瞳の中に取り込まれ、自分という存在を失ってしまっていいとさえ、氷河は半ば以上本気で 思っていたのである。
それほどまでに――瞬の姿は、その瞳は、魅惑に満ちていた。

「氷河、正気に戻れってば! 瞬は絶世の美女なんかじゃない!」
瞬を凝視しすぎ、目だけでなく心まで囚われて 虚ろな表情になっている氷河を正気づかせるために、星矢が その耳許で大声でがなりたてる。
それは聖域中に響き渡るような大声だったのだが、なぜか氷河の耳にだけは届かなかった。
「綺麗だ。本当に可愛い。これほど非の打ちどころのない、完全に俺好みの子が、こんなに近くにいたなんて……」
「氷河、目を覚ませーっ !! 」
「星矢、どうしたの。急に そんな大声あげて。この人も聖闘士なの? 氷河さん……?」
瞬の姿が氷河の視界に入らないように我が身をもって瞬を隠している星矢の苦労も知らず、瞬が ひょこひょこと横から顔を覗かせて、今日 初めて出会った白鳥座の聖闘士の姿を見たがる。
瞬が氷河の姿を見る分には何の問題もないのだが、星矢はあくまでも氷河と瞬の間に立ちはだかり続けた。

「『さん』なんかつけなくていい! いや、絶対つけるな!」
氷河に向かって瞬を叱りつけてから、星矢は、瞬の方に向き直り、手短に氷河の事情を説明した。
「こいつは今、ハーデスに呪いをかけられてて、おまえが絶世の美女に見えてんだよ」
「僕、そんなんじゃないよ?」
「うん。それはわかってんだけど、ハーデスの呪いで……まいったなー」
冥府の王が率いる冥闘士たちとの聖戦を中止させてくれたのはいいが、白鳥座の聖闘士は何という面倒事を引き起こしてくれるのか。
こんなことなら、明確に倒すべき敵とわかっている冥府の王の手下たちを相手に死闘を繰り広げていた方が よほど気楽だったと、星矢は頭を抱え込むことになってしまったのだった。

完全にお手上げ状態の星矢に代わって、紫龍が当座の対応策を瞬に指示する。
「瞬。とにかく、おまえは、なるべく氷河の目につかないようにした方がいい。それがおまえのためでもあり、氷河のためでもある」
「うん……。気をつけるけど……」
瞬が心許なげな目をして、紫龍に頷く。
まさか聖戦回避の代償が こんな面倒事――言い方に問題はあるが、これほど卑近卑俗な面倒事だとは。
紫龍は、冥府の王より白鳥座の聖闘士こそを、正義の力で叩き伏せてしまいたかった。
氷河自身の苦労や試練は自業自得だが、その とばっちりを受けることになる瞬には何の罪もないのだ。

「と言っても、この広くもない聖域で、おまえは これから聖闘士になる修行を開始するわけだし、せっかく外に出られるようになったのに、また神殿の奥に隔離するわけにもいかないし――」
「僕、少しでも早く修行を始めて、少しでも早く 紫龍たちみたいな聖闘士になりたいよ。ハーデスとの聖戦がなくなっても――地上の平和を守るためにアテナのもとで力を尽くすことが、子供の頃からの僕の夢だったんだよ」
「ああ、わかっている」
戦乱で親を亡くした者同士、瞬の切なる願いは そのまま、何があっても叶えてやりたい紫龍の願いでもあった。
ハーデスや氷河ごときに、瞬の邪魔をさせるわけにはいかない。
「あとで、フードつきの上着を調達してきてやる。氷河に会いそうになったら、フードで顔を隠せばいい」
「んじゃ、俺は、修行中は、なるべく氷河が おまえの側に近付かないように見張っててやるぜ」

どんな対策を採っても、それは根本的な問題の解決にはならない。
それはわかっていたのだが、瞬の幼馴染みたちにできることは せいぜいがその程度。
紫龍と星矢は、気の毒な瞬を見やり、傍迷惑な白鳥座の聖闘士を睨み、そして どっと疲れてしまったのである。
どう考えても絶対に、これからの気苦労に比べれば、冥府の王率いる冥闘士たちと戦っていた方が はるかに楽だったに違いない。
そうであることを、彼等は今は毫も疑っていなかった。
「ったく、このマザコン馬鹿のせいで……」

共に地上の平和を守るために戦う仲間たちに 苦々しげな目を向けられて――だが、氷河は咄嗟に彼等に返す言葉を思いつくことができなかったのである。
ハーデスの悪ふざけの いちばんの被害者は 他の誰でもない自分自身だと思うのだが、瞬の前で紫龍たちの非難の目に反論を試みたとしても、事態は好転もしなければ解決もしない。
かてて加えて、氷河は自分の軽率を瞬に知られたくなかった。
そして、それより何より。
『こいつは今、ハーデスに呪いをかけられてて、おまえが絶世の美女に見えてんだよ』
『僕、そんなんじゃないよ?』
星矢たちと瞬のやりとりを聞いている限り、瞬が自分の目に映っているほど美しい人間でないことは事実のようだった。
その事実に、氷河は打ちのめされていたのだ。

自分の目には誰よりも何よりも美しく清らかに見えている瞬の姿が、実は あのカエルの冥闘士並みに醜い姿の持ち主なのかもしれない。
あのカエルにうっとりして あとを追いかけている男が、人々の嘲笑の的にならないはずはない。
そんな事態に、氷河は耐えられそうになかったのである。
これまで散々、氷河は、不細工は嫌いだと公言し、マーマ以上に綺麗な人は この地上に存在しないと断言してきた。
これまでどれだけの人を不細工と断じ、マーマの足元にも及ばないと放言してきたか。
これまでの自分の言動を顧みると、白鳥座の聖闘士が人様の同情を買うことは、まず無理な話である。
逆に、自分に軽んじられてきた者たちは 今こそ意趣返しの時とばかりに、嘲笑の声を大きくするだけに違いないのだ。

瞬に近付かないこと、瞬を見ないことが、いちばんの保身になることはわかっている。
しかし、目を閉じても鮮やかに思い浮かぶ、瞬の優しく清らかな面差し――。
自分で自分の心を御することができないことが、氷河は腹立たしくてならなかった。






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