仮にもアテナの聖闘士が、ぼんやりと歩いていて石に蹴躓いて引っくり返るとは。
誰にも見られなかっただろうかと辺りを見回そうとした氷河の前に、
「大丈夫ですか」
という声と共に、白く優しい手が差しのべられる。
聖戦中止の報が聖域に行き渡って、3日。
白鳥座の聖闘士がハーデスに とんでもない呪いをかけられたことは、既に聖域中の噂になっていた。
にもかかわらず、その手にも その声にも嘲りの色はない。
その親切に むしろ きまりの悪さを覚え 唇に苦笑を刻もうとした氷河は、その声と手の持ち主が誰なのかに気付いて、全身を強張らせることになった。
これが、これから聖闘士になろうとする人間の持ち物だろうか。
華奢で小さな手。細く白い指。
それは、フードで顔を隠した瞬だった。

もしかしたら、ハーデスに呪いをかけられた当人よりも、ハーデスの呪いの迷惑を被っている人。
白鳥座の聖闘士の軽率な言動のせいで、今や聖域一の有名人に――おそらく、その醜さのせいで有名に――なってしまった、いちばんの被害者。
その人が、白鳥座の聖闘士を恨むことなく、心の清らかさ優しさを保ったまま、石に蹴躓いて尻餅をついた馬鹿な男に その手を差しのべてくれているのだ。
いったい自分は瞬に何と言って詫びればいいのか―― 一応、氷河はそう思ったのである。
心底から申し訳ないと思い、瞬に謝罪したいと思った。
にもかかわらず、瞬の手を借りて立ち上がった氷河の口を突いて出てきた言葉は、
「顔を見せてくれ」
だった。

「それは……でも……」
「いいから、見せてくれ……!」
氷河に きつい口調で命じられた瞬が、ためらいながら フードに手をかける。
次の動きを待っていられなくて、氷河はほとんど剥ぎ取るようにして、瞬の顔を隠している布を取り除いた。
不安そうな目。
瞬は、怯えた眼差しで、冥府の王にとんでもない呪いをかけられた白鳥座の聖闘士の顔を見上げていた。
その眼差しが怯えているのは、白鳥座の聖闘士の剣幕ではなく、自分が白鳥座の聖闘士を傷付けてしまうのではないかという懸念のせい。
瞬は、白鳥座の聖闘士の心を気遣っているのだ。

奇跡のように澄んだ瞳。
瞬が優しい心の持ち主であることは疑うべくもない。
「すまん……」
いったい それは何に対しての謝罪なのか。
自分でも よくわからないまま、氷河はすぐに瞬に背を向けたのである。

こうして改めて確かめるまでもなく、その可憐で清らかな瞬の姿は氷河の脳裏に焼きついていた。
だが、氷河の脳裏に焼きついていた瞬の瞳は、自らに突然降りかかってきた災難に驚き戸惑っている者の瞳で、自分に災難を運んできた男を気遣い同情している者の瞳ではなかったのだ、たった今まで。
瞬の瞳は、この数日で微妙な変化を見せていた。
より優しく、より美しく。
「見るんじゃなかった……」
瞬の面差し――というより、上書き更新された瞬の澄んで優しい瞳が脳裏に焼きついて離れない。
瞬に背を向け、一刻も早く瞬から遠く離れてしまおうと思うのに、今すぐ瞬の許に駆け戻って、その身体を瞳ごと抱きしめたい衝動にかられる。
心の奥底から激しく湧き起こってくる その衝動に耐えることは、聖闘士になるために重ねてきた厳しい修行が、春風の中の散歩にすぎなかったと思えるほどに苦しく厳しい試練だった。






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