その日も氷河は、『瞬を中心とした半径10メートル圏内に足を踏み入れるな』という星矢の厳命を守り、10メートルと数センチ離れた場所から、瞬の姿を見詰めていたのである。 聖闘士にふさわしい心技体の持ち主と聖衣に認められた瞬が、恋する男の強い視線を感じ取れないはずもなく、瞬は、氷河が聖域のオリーブの木の陰から自分を見詰めていることには気付いてくれているようだった。 それだけでも氷河には光栄の極みだったのに、その日 瞬は、(おそらくは白鳥座の聖闘士の凝視に耐えかねて)氷河の名を その唇にのぼらせることまでしてくれたのである。 「ねえ、星矢。氷河さんはどうして……」 氷河に “さん”づけをする瞬を、星矢が睨みつける。 星矢に睨まれて、瞬は仕方なく『氷河さん』から『さん』を取り除いたようだった。 もちろん氷河としては その方が嬉しかったので、彼は瞬に対する星矢の脅しを責める気にはならなかったが。 「氷河はどうして、ハーデスに そんな呪いをかけられることになったの?」 瞬はもしかしたら、星矢や紫龍だけでなく氷河にも遠慮して、自分に降りかかってきた災難の原因と経緯を誰にも尋ねることができずにいたのかもしれない。 瞬に問われた星矢は、無責任にも、 「あれ? 俺、おまえに説明してなかったっけ?」 などという、ふざけたセリフを吐いて、かりかりと こめかみの横を その爪でこすった。 「わりい、わりい。んーと、もともとの原因は、あいつのマザコンだな」 「マザコン?」 「ああ。あいつのマーマってのが、子供の頃、あいつの命を守るために死んじまったらしい。それで、あいつ、すげーマザコンでさ。ありとあらゆる人間を、マーマより綺麗じゃない不細工だって、放言しまくってたんだよ。なにしろ、あの見てくれだろ。故郷にいた頃も、修行地にいた頃も、聖域に来てからも、結構 女にはもててたんだけど、それを片っ端から振りまくってさ。その時の決めゼリフが『マーマの足元にも及ばない』。で、同じようなことをハーデスにも言っちまって、ナルシストのハーデスの逆鱗に触れたわけ」 「まあ、氷河が十人並みの容姿の持ち主だったなら、ハーデスも氷河の言うことなど ゴマメの歯ぎしり程度に思って聞き流していたかもしれないが……。二人はタイプが違いすぎた。氷河のあの派手な外見も、ハーデスの怒りを買った一因だったのかもしれないな」 紫龍の補足説明が瞬の耳に届いていたかどうか。 「お母さんが……」 ハーデスの呪いの事情を聞いた瞬は、一瞬 切なそうに その眉根を寄せた。 「今の氷河には、おまえがマーマより綺麗に見えてるのかなあ……。いったい どんな美女に見えてるんだか、一度 氷河の目ん玉 繰り抜いて、見てみたいもんだぜ」 当たらずとも遠からず――むしろ、星矢の説明は すべてが事実だったのだが、氷河は星矢の言い草には思い切り腹が立ったのである。 瞬の目の前で、そんなにしつこくマザコンを強調することはないではないか――と。 事実なだけに、あとで訂正することもできない。 星矢の話を聞いた瞬が、白鳥座の聖闘士を どんな男と思ったのか、氷河は それが不安でならなかった。 そんな氷河の悶々とした思いを、突然 瞬の、 「そんなことないよ!」 という強い声が遮る。 「え?」 瞬が そんなふうに きっぱりした物言いをすることは滅多にないことなのだろう。 星矢は、瞬の声の勢いに驚いたらしい。 瞳を大きく見開いた星矢に、瞬は もう一度、 「僕が氷河の目に 氷河のお母さんより綺麗に見えてるはずない!」 と、断固とした口調で言い切った。 それから、いつも通りの優しい表情と優しい口調の瞬に戻る。 「氷河が氷河のお母さんのことを好きなのは、氷河のお母さんが綺麗だったから? 絶対に違うよ。そんなはずない。きっと氷河のお母さんは、とっても優しくて、氷河のことをとっても大事にしてて、氷河のことを心から愛していたんだ。だから、氷河には、何があっても、お母さんこそが世界一綺麗な人なの。ハーデスの呪いだか何だか知らないけど、そんなもののせいで、氷河の目に僕が 氷河のお母さんより綺麗に見えるなんてことは絶対にない。人を愛する心って、人を大切に思う心って、そういうものじゃないでしょう」 「……」 おそらくは、滅多に人の意見に反論することのない瞬。 瞬の反論に驚き目を剥いていた星矢は、だが、やがて瞬の主張に同意して頷いた。 「そうだな……。悪かった。」 「だが、おそらくきっと、今の氷河には、おまえが奴のマーマと同じくらい綺麗には見えてるんだと思うぞ」 むしろ そうでない方がおかしいという口調で、紫龍が瞬に告げる。 なぜ紫龍が、そんなふうに そんなことを言うのか。 氷河には、今はもう わかっていた。 氷河は、そして、紫龍の考えは正しいと思い、事実もその通りだと認めないわけにはいかなかったのである。 更に重ねて思った。 デブの巨漢で、歪んだ あばた面のカエルだから何だというのか。 瞬は、誰よりも優しい心を持っている。 誰よりも清らかな魂を持っている。 その優しく清らかな心で、人の心を思い遣ることもできる。 人に、人が、それ以上の何を望めるだろう。 それ以上、何も望むことはない。 その優しく清らかな心の虜になった男を愛してほしいという望み以外には、何ひとつ。 |