『瞬の半径10メートル圏内に近付くな。それが瞬のためで、おまえのためだ』
星矢に与えられた禁忌と忠告ごときではもう、氷河の心を抑えることはできなかった。
「瞬!」
その身を潜ませていたオリーブの木を蹴倒す勢いで、氷河は瞬の許に突進していった。
瞬の前に立っていた星矢を突き飛ばし、慌ててフードで顔を隠そうとした瞬の手を強く握って、引きとめる。
「隠さないでくれ」
「で……でも……」
マザコンの馬鹿な男のために、瞬がそんな気遣いをする必要はないのだ。
瞬は堂々と光の中に立っていればいい。

「瞬。俺はおまえが好きだ。好きで好きでたまらない!」
「あ……あの……」
「好きなんだ。俺を受け入れてくれ!」
それこそ決死の思いで、噛みつくように思いを告白した男を、瞬が切なげな瞳で見上げてくる。
それから瞬は、悲しそうに、その瞼を伏せた。
「それは、ハーデスの呪いで……氷河には、実際よりずっと 僕が綺麗に見えているだけだよ」
「外見なんてどうでもいい。たとえ、おまえがデブで巨漢の あばた面でも、ヒキガエルやガマガエルと同レベルの顔をしていても、俺はおまえの優しい心にこそ――」
「ちょっと待て、こらあっ !! 」

氷河の一世一代の告白を怒声で遮ったのは、力任せに氷河に突き飛ばされて その場に尻餅をついていた某天馬座の聖闘士だった。
唇をきつく引き結んで立ち上がり、星矢が氷河と瞬の間に割って入ってくる。
彼は、そして、氷河には思いがけない物言いをつけてきた。
「おい、氷河、阿呆なこと言うなよ! 瞬は 俺たちがいた村で いちばん綺麗で可愛い子だったし、聖域に来てからも いちばん綺麗で可愛いのは やっぱり瞬だったし、だいいち、あの面食いの帝王ハーデスが目をつける瞬が綺麗じゃないわけないだろ! おまけに地上で最も清らかな魂の持ち主で、だからアテナがハーデスに見付からないよう、結界で隠してたんじゃないか! それをヒキガエルだのガマガエルだの……おまえ、目がどうかしてんじゃねーのかっ」
「ハーデスが瞬に目をつけていた……?」

そういえば、瞬は、星矢たちと共に聖域にやってきたにもかかわらず、ある事情があって ずっとアテナ神殿の奥から外に出られずにいたと言っていた。
それがハーデスに目をつけられていたせいだったというのか。
だとしたら――だとしたら、瞬はもしかすると――。
『瞬はもしかすると』
その先の言葉を、だが、氷河は口にすることはできなかった。
星矢がまたしても、訳のわからないことを言い出したせいで。

「でも、だめだって。正気に戻れ。おまえの目には瞬が絶世の美女に見えてるんだろうけど、瞬はこう見えても男なんだ」
「瞬が男……? いや……それはわかっているが」
星矢は急に何を言い出したのか。
瞬は確かに どんな少女より美しいが、その美しさは決して女性のものではない。
男らしいとは絶対に言えなかったが、瞬には何といっても女性特有の曲線がなかった。
氷河の言葉に、星矢が眉根を寄せる。
星矢は、そして、幾度も瞬きをしながら、氷河に馬鹿げたことを訊いてきた。

「へ? おまえ、瞬が超豊満美女に見えてるんじゃねーのか?」
「そんなふうでない。瞬は、どちらかというと細くて華奢で――」
「あ、そこは そのまま見えてるんだ」
「髪がやわらかくて、色が白くて、肌は肌理きめ細やか、唇は桜色で、何より瞳が素晴らしく澄んでいる。男にも女にも見えなくて、清楚で、笑顔が春に咲く小さな花のようだ」
「そのまんまじゃん。どこが実際と違って見えてるんだ?」
「……」
それは こっちの方が聞きたいと、氷河は真面目に思ったのである。
“細くて華奢で、髪がやわらかくて、色が白くて、肌は肌理細やか、唇は桜色で、何より瞳が素晴らしく澄んでいる。男にも女にも見えなくて、清楚で、笑顔が春に咲く小さな花のよう”が『そのまんま』なら、ハーデスの呪いは、瞬の真実の姿をどう変えて 俺に見せているのかと。
混乱する思考を何とか立て直し、氷河は星矢にお伺いを立てた。

「訊いていいか」
「何をだよ」
「瞬は綺麗なのか」
その質問に、星矢は、これ以上ないほどの――氷河以上の――混乱を覚えることになったらしい。
ハーデスの呪いは、いったい白鳥座の聖闘士の目をどんなふうに変えていたのか。
星矢は、たった今、それが全くわからなくなってしまったようだった。
星矢は、氷河の目には瞬が絶世の美女――女性――に見えているのだと信じていたのだろうが、事実はそうではなかったのだ。
では、ハーデスはいったい氷河の目に何をしたのか。
あるいは――単に、ハーデスが呪いをかけるまでもなく、最初から瞬は完全に氷河好みの美しい姿を持っていただけなのか。
どうやら、そうであるらしい。
氷河の疑念には、混乱のせいで声を詰まらせている星矢の代わりに紫龍が答えを与えてくれた。

「美女でも美少女でもないが、瞬が綺麗で可愛いのは事実だな。人類としては最高のレベルに分類される人間の一人だろう。顔の造作も、姿の美しさも、心の出来も。いくら心が清らかでも、あの面食いのハーデスが自分の依り代に不細工な人間を選ぶわけがないと、アテナもおっしゃっていた」
「瞬は……あのカエルの冥闘士と大差ない姿をしているのではないのか」
それでもいいと思ったのに、そうではなかった――のだろうか。
自分の目に映る美しい姿と、その言動が示す優しく清らかな心、そして、デブの巨漢なのか貧相なカエルなのかはわからないが、自分以外の人間の目に映っているのだろう醜い姿。
その間で迷い悩み揺れ、ついに白鳥座の聖闘士は瞬の心の優しさ清らかさを選ぶに至ったのに、その苦悩は実は全く意味のないものだったというのか。
では、あの苦悩と煩悶の時は何だったのか――。
再び激しい混乱に襲われて、氷河は その場に棒立ちになった。

少しずつ 氷河の目の具合いがどんなふうだったのかがわかってきたらしい星矢が、氷河の言葉に心底 嫌そうな顔を作る。
思い起こせば、ハーデスは、清らかな心の持ち主を その心の通りに美しく見えるようにすると言っていた――そうするとしか言っていなかった。
既に その心の通りに美しい者は変えようがない――変える必要がないのだ。
「あれと瞬を一緒にするのは失礼がすぎるってもんだろ。言ったろ。瞬は、あの面食いハーデスが目をつけるくらい綺麗で可愛い子だって。瞬とカエルを一緒にしたりなんかしたら、瞬は怒らなくても、ハーデスが激怒するぞ」
「……」

ハーデスに激怒されても 氷河は痛くもかゆくもなかったし、星矢に嫌そうな顔を向けられることは なおさら問題ではなかったが、瞬をカエルの冥闘士レベルの容姿の持ち主と思っていたことを瞬に知られるのは非常にまずい。
横目で ちらちらと瞬の様子を窺いながら、氷河は、星矢に向かって瞬への弁解を始めることになった。
「カエルレベルでもいいと思ったんだ。瞬が優しくて、美しい心の持ち主なら」
「だーかーらー。瞬は可愛いけど、男だって」
「そんなことには こだわらない」
「こだわるだろ、普通」
「心が清らかで優しければ……俺のマーマのことを あんなふうに言ってくれたのは瞬が初めてだ。瞬が優しい心の持ち主でいてくれるなら、顔がカエルでも、身体が男でも、そんなことは ごく瑣末な、どうでもいいことだと」
「男でもいいって――中身重視なのはいいけど、いくら何でも そりゃ 外見を気にしなさすぎだろ!」

そんなことを言われても、本当に気にならないのだから仕方がない。
その点に関しては、どれほど時間をかけて語り合っても 星矢とは平行線のままだろうと考えて、氷河は口をつぐんだ。
そんな二人の仲間たちの様子を見兼ねたらしい紫龍が、発展が望めそうにない氷河と星矢の会話に新たな視点を提示してくる。
「どちらにしても、おまえは既に瞬に好きだと告げたあとだ。おまえにかけられたハーデスの呪いは、既に解けている。おまえの目に瞬は――」
「綺麗で可愛いままだ。いや、昨日よりずっと綺麗に見える」

白鳥座の聖闘士にとっては その母親こそが世界一美しい人なのだと、瞬は言ってくれた。
その瞬間、瞬は その美しさを一段と増した。
ハーデスの呪いの力などにはかかわりなく、人間の目というものは そういうふうにできているものらしい。
あるいは、氷河の目に限らず、人の目はすべて、そういう呪いをかけられているのかもしれなかった。
優しい人が美しく見える呪いを。

「呪いが解けて気持ちが変わらないのなら、それで無問題なのではないか。ハーデスの呪いの効力は切れているんだし」
「呪いが解けたから無問題――って、これは そういう問題じゃないだろ!」
氷河の目には、優しく清らかな心を持った人が美しく見える。
そして、氷河の耳は、自分に都合のいい音しか聞こえないようにできていた。
星矢の反対意見は無視し、紫龍の言葉に力を得て、もはや いかなる迷いも ためらいもなく、氷河は一心不乱に瞬に迫り始めた。
「瞬。おまえは綺麗だ。本当に 清楚で可憐な花のようだ。だが、俺は、おまえの美しい姿ではなく、その清らかで優しい心に惹かれたんだ。おまえの優しい心なしでは、俺はもう生きていられない。マーマを失い、この上、おまえに拒絶されるようなことになったら、俺の人生からはすべての希望が消えうせる。瞬、俺を受け入れてくれ!」

一度 目標と目的物を定めたら、その目標と目的物に向かって一直線の氷河が、いつのまにか ちゃっかり瞬の両手を握りしめ、ほとんど瞬の身体に覆いかぶさるように前のめりになって、瞬に迫る。
「あ……あの……」
その勢いに押され 後ろに倒れそうになりながら、それでも聖闘士の背筋力で、瞬は何とか後ろに倒れることなく、その体勢を維持していた。
だが、瞬のためを思えば、いっそ強靭な背筋力など、彼は備えていなかった方がよかったのかもしれない。
潔く(?)背後に倒れてしまっていれば、瞬は、この恋に自らの命をかけている男の瞳から 目を逸らすことができていたのだから。

「やめとけ、やめとけ。こんなマザコンの面食い男」
「もう面食いではないだろう。心が優しく清らかなら、カエルでもいいと決意したくらいなんだから」
「瞬、頼む……! 俺の命を助けると思って」
「んな、哀れっぽく頼み込むなんて、卑怯だぞ! 瞬の優しさにつけこむようなことすんなよ。瞬は そういうの弱いんだから。すぐに人に同情しちまうんだから。瞬! 嫌なら嫌って言っていいんだぞ!」
「い……嫌なわけじゃないけど……」
自分に都合の悪い外野の雑音は聞こえないはずの氷河の耳が突然、星矢の横やりを知覚し始めたのは、それが氷河にとって必ずしも不都合な発言ではなくなっていたからだったのか、あるいは瞬が星矢の忠告に反応を示したからだったのか――。
ためらいがちにではあったが 白鳥座の聖闘士の思いを拒否しない態度を見せ始めた瞬に、星矢は 我知らず顔を歪めることになった。

「おい、瞬……!」
「でも、僕なんか、氷河のお母さんの100分の1も綺麗じゃないと思うし、1000分の1も優しくないと思うし――」
「おまえの優しい心だけが、俺を生かしてくれるんだ! 瞬、頼む!」
「あ……あの……」
瞬は、完全に氷河に迫力負けしていた。
瞬が、一瞬 ちらりと、同じ村出身の幼馴染みたちに視線を投げてきた時、星矢は非常に嫌な予感を覚えたのである。
瞬の その一瞬の一瞥が、幼馴染みたちに救援を求めるものではなく、許しを求めるためのもののように見えたから。
あるいは、自分の決意に 幼馴染みたちの賛同を求めるもののように見えたから。

「瞬、早まるのは……」
星矢は慌てて、瞬を思いとどまらせようとしたのである。
だが、それは遅きに過ぎた。
「はい……」
ほんの1秒――タッチの差で、瞬は、『俺を受け入れてくれ』と迫る我儘勝手な男の要求に 頷いてしまっていたのだ。






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