年齢にも背格好にも大差はない。 身体も同程度に鍛えられていて、所作に不便が生じることもない。 星矢の体の中で、瞬は、物理的違和感は あまり感じていなかった。 だが、だからといって緊張していなかったわけではない。 頼みの綱の星矢は、 「“瞬”がいるとこじゃ、氷河は本性 出さねーから」 と言って、どこかに姿をくらましてしまっていた。 「俺じゃないって ばれないようにしろよ。もし自分が騙されてたことを知ったら、いくら おまえ相手にだって、氷河の奴は激怒するだろうから」 と、正直者に あるまじき忠告を残して。 両足をきっちり揃え、その膝の上に二つの拳を置き、身体を小さく丸めるという、星矢なら絶対にとらない姿勢で ラウンジのソファに座り、瞬は心臓をどきどきさせて 氷河がやってくるのを待っていたのである。 否、瞬は 氷河の登場を待ってなどいなかった。 むしろ、永遠に氷河がこの場にやってこなければいいと 願っていた。 もちろん、瞬のその願いは、瞬がラウンジのソファに腰をおろした5分後には、儚く砕け散ってしまっていたが。 「瞬はどこだ? エントランスホールの棚の上に薔薇の花が放っておかれていた。瞬がそんなことをするなんて、何かあったとしか思えん。星矢、おまえ、何か知らないか」 ラウンジのドアを乱暴に開けて室内に入ってきた氷河は、そこに天馬座の聖闘士の姿を認めると、まるで責めるように きつい口調で星矢(の姿をした瞬)に尋ねてきた。 それでなくても破裂しそうなほど強く速く波打っていた星矢(の姿をした瞬)の心臓が、大きく跳ね上がる。 呼吸が苦しい。 星矢(の姿をした瞬)は心臓同様 声を震わせて、何とか 氷河の詰問に答えを返すことをしたのである。 「あ……あの、星矢は……瞬は、僕――俺に頼まれ事をされて、ちょっと お使いに」 「お使い?」 「う……うん。急にコーラが飲みたくなったんだって。そういう不健康な飲み物は ここにはないでしょう? だから――」 それは どう聞いても星矢の言葉使いではなかったのだが、その発言内容に 既に怒り心頭に発していたらしい氷河は、星矢(の姿をした瞬)の いつもと違う言葉使いにまでは気がまわらなかったようだった。 顔を俯かせ 肩を丸めている星矢(の姿をした瞬)を、早速 頭ごなしに怒鳴りつけ始める。 「おまえはコーラを買いにいくこともできないほど 足腰が弱っている年寄りか! 自分のことは自分でしろと、いつも言っているだろう! 瞬が人のいいのを利用するんじゃない!」 「あ……こ……これから気をつけます」 「これから気をつける? おまえはいつも口ばかりだ! 言葉に行動が伴った ためしが一度もない! おまえには学習能力というものがないのか!」 「あ……」 それは、瞬が これまで一度も聞いたことのない、氷河の いらついた声と言葉だった。 瞬は、これまで ただの一度も、こんなふうに激した口調で氷河に怒鳴られたことがなかった。 氷河は いつも優しく親切で――氷河を恐いと思ったのは これが初めて。 彼を騙しているという良心の呵責のせいではなく(氷河の激昂に驚き圧倒されて、瞬はその事実を忘れてしまっていた)、瞬は純粋に氷河を恐いと感じてしまっていたのである。 氷河にいじめられているという星矢の訴えは、では 本当のことだったのだろうか。 優しく親切な氷河をしか知らない瞬は、だが、眉を吊り上げて仲間を怒鳴りつけている氷河が信じられず、声も言葉も失っていたのである。 星矢(の姿をした瞬)が黙り込んでいることが、氷河の怒りを更に激しいものにしてしまったらしい。 彼は、別の案件を持ち出して、星矢(の姿をした瞬)を更に責め続けた。 「昨日、おまえは、可変スイッチング電源を組み立てるとか言い出して、キットの部品を盛大にぶちまけただろう。よりにもよってゴミ箱の中に。瞬がすぐに拾い始めて――おまえは、瞬にゴミ箱の中を漁らせるようなことをしたんだぞ! それで部品を集めてもらっておきながら、礼の一つも言わず、当然ってツラで組み立て作業に取り掛かって、それでモノを完成させるならまだしも、うまくできないと言って、結局 放り出した! あり得んだろう! 恥と常識と礼儀と仁義を知っている人間なら 決してできない無恥と非常識と無礼と非道だ!」 「あ……あれは僕が勝手に」 「ん? 僕?」 「あれは、瞬が勝手にやったんだよ! 星……俺が、拾ってくれって頼んだわけじゃない」 「それに甘えるなと言っているんだ! そんなことも わからんのか、おまえは!」 「は……はい、すみません」 「何が『すみません』だ。しおらしくしてみせれば、俺が許すと思ったら、大間違いだぞ! おとといもおまえは、瞬が用意してくれた飲み物を、テーブルから落として床に撒き散らした。自分でグラスを倒したくせに、瞬に偉そうに ぶつぶつ文句を言っていたな」 「あれは僕――瞬がグラスをテーブルの端に置きすぎたせいで――」 「言い訳をするな! おまえが粗忽なだけだ。いいか、瞬は、飲み物をテーブルに置く時に、最初の1杯目は 飲む人間の右側に置く。2度目にお代わりを出す時には、飲んだ人間が 1杯目のグラスを移動させた場所に置くんだ。そこが、飲み物を出された人間が自分にとって 最も飲みやすい位置として移動させた場所だからだ。おまえは テーブルいっぱいに糞くだらないマンガ雑誌を広げて テーブルの端にグラスを移動させていたから、瞬は その場所に2杯目のグラスを置いたんだ。そんな瞬の気遣いを無にして――それどころか おまえは瞬の気遣いに文句をつけたんだ! 恩を仇で返したも同然の非人道的行為だ。おまえは本当に どういう神経を――いや、そもそも おまえは無神経すぎるんだ!」 「氷河……」 問答無用で、反論も許されない。 星矢でさえ“いじめ”と感じるくらいなのだから、ごく普通の“繊細で気弱”な一般人なら、これほど一方的かつ高圧的な叱責を 言葉の暴力と感じ、怯えることさえするだろう。 その声は雷鳴のごとく荒々しく、その言葉は 火を吐く龍のごとく激しい。 だが、その声と言葉が語る内容は そうではなかったのである。 少なくとも、瞬にとっては。 2杯目のグラスをどこに置くか。 そんな些細な行為の意味に、氷河は気付いてくれていたのだ。 瞬自身は、それは ごく当たり前の行為で 気配りとも思っていなかったことに、氷河はちゃんと気付き、それを気遣いだと思ってくれていた――。 「そんな瞬の気遣いに気付かない貴様が、瞬に親切にされる権利があると思っているのか! どうして、瞬はこんな粗忽者に愛想を尽かしてしまわんのだ! 100回殺しても飽き足らん! 1000回殺しても、まだ足りん!」 氷河の怒号は 相変わらず雷のように激しく、叩きつけるように乱暴だったが、そんな氷河に星矢(の姿をした瞬)が弁解らしい弁解をすることもできずにいたのは、今は 彼の激昂を恐れてのことではなかった。 そうではなく――瞬は 感動で胸がいっぱいで、声を発することもできずにいたのである。 「殺すの殺さないのと、あまり物騒なことを言うな。落ち着け、氷河。おまえが腹を立てる気持ちは わかるが、星矢には星矢でいいところがあるし、星矢は 殺されるほどの悪事を働いたわけではないだろう」 紫龍が、永遠に弾丸が尽きないマシンガンのように 星矢への罵倒を連射し続ける氷河に 冷静になるよう促したのは、氷河のマシンガン攻撃にさらされている星矢(の姿をした瞬)の身を案じたからではなかったかもしれない。 むしろ 紫龍は、星矢(の姿をした瞬)に激しい連続攻撃を続けるマシンガンの本体の方が 熱を持ちすぎて暴発することの方を恐れているようだった。 氷河の怒りには加速度がつきすぎていて、もはや外野からの制止ごときでは 止めようもなくなってしまっていたが。 「いいところ? ああ、バトルで奇跡を起こすのが大得意という“いいところ”がな。でなかったら、こんなド阿呆、とうの昔に氷の棺にぶち込んで、東京湾に投げ込んでいる! 俺が そうしないのは、不浄なゴミで海を汚すわけにはいかないからだ! この馬鹿は、瞬の気遣いや優しさに まるで気付いていない。気付かないまま、それを当然のことのように享受しているんだ。生きている価値があるか、そんな無神経で愚鈍な低能野郎に!」 一向に止む気配を見せない氷河のマシンガン攻撃。 紫龍は、早々に 氷河の攻撃の即時停止を諦め、作戦を変更してきた。 つまり、紫龍は、紫龍自身もまた星矢を攻撃することで、氷河の攻撃の手を緩めさせることを考えた――らしい。 星矢(の姿をした瞬)の方に向き直り、紫龍は、氷河のそれに比べれば100倍もソフトな口調で、星矢(の姿をした瞬)を たしなめ始めた。 「星矢。おまえも、もう少し瞬の気遣いに気付いて感謝するようにしろ。瞬が ずぼらなおまえのために、どれだけ気を配っているか、おまえは まるで気付いていない。氷河が腹を立てるのも無理からぬことだぞ」 「う……うん……」 瞬は本来 世話好きで――兄の世話をすることが習慣になっていて――だが、その兄が城戸邸にいないので、星矢を兄の代わりにしているところがあった。 感謝されることを求めて、あれこれと星矢の世話を焼いていたわけではなかったし、自分の行動を気配りや気遣いだと思ってもいなかった。 瞬はただ、自分が したいことをしていただけだったのである。 だが、ここは紫龍の忠告に頷くしかない。 星矢(の姿をした瞬)は、戸惑いつつも紫龍に頷き返した。 そんな星矢(の姿をした瞬)に、紫龍が急に小声になって、その耳元に 思いがけない情報を運んでくる。 「命が惜しかったら、あまり瞬にべたべたするんじゃない。氷河のヒスは焼きもちだ」 「焼きもち?」 告げられた言葉を、星矢(の姿をした瞬)が鸚鵡返しに繰り返すのを聞くと、紫龍はあからさまに呆れたような表情を作って、短い吐息を洩らした。 「やっぱり、おまえは気付いていなかったか」 「な……何を?」 「まあ、気付いていたら、氷河のいるところで あんなに瞬にべたべたしていられるわけがないか」 「あの……焼きもちって、どういう――」 いったい誰が誰に対して、なぜ どういう事情で焼きもちを焼いているのか。 訳がわからず問い返した星矢(の姿をした瞬)に、紫龍は 少々 投げ遣りな口調で、 「焼きもちは 焼きもちだ。氷河は瞬が好きなんだ。無論、仲間や友人としてではなく、特別に」 と、その事実を知らせてきた。 星矢のことだから気付かずにいて当然という気持ちと、たとえ星矢でも なぜ気付かずにいられるのか理解できないという気持ち。 その二つの気持ちが複雑に絡み合っているような目をして、紫龍が、星矢(の姿をした瞬)の顔を見おろしてくる。 「えっ……」 「奴はいつも瞬を見ている。だから、瞬の神経細やかな気遣いにも気付く。瞬の気遣いがわかるから、自分では瞬に面倒をかけるようなことができない。なのに、おまえは平気でそれをする。氷河が苛立つのは当然のことだろう。おまえが氷河にいじめられるのは、おまえの自業自得でもあるぞ」 「氷河が僕……瞬を……」 瞬が その事実に気付かずにいたのは、彼が星矢並みに鈍感な人間だったから――ではない。 氷河が自分に並々ならぬ好意を抱いてくれていることは、瞬とて知っていた。 瞬はただ、それを 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間に対する好意なのだと思っていただけ。 それが“特別な”好意である可能性を考えたことがなかっただけだった。 「何をこそこそ話している! 言いたいことがあるなら、俺に聞こえるように言え!」 氷河の目と耳を避けて内緒話をしている龍座の聖闘士と天馬座の聖闘士の様子が気に入らなかったのか、氷河の怒声が二人の間に割り込んでくる。 氷河の声は、相変わらず その8割が苛立ちでできている、お世辞にも“優しく穏やか”といえる声ではなかった。 だが、瞬は なぜか、その刺々しい声を恐いと感じることができなかったのである。 もう、少しも恐くなかった。 「いや。星矢が、瞬を思う おまえの気持ちに気付いていないようだったから、知らせてやるのが、星矢のためであり、おまえのためでもあるかと思ってな」 荒ぶる白鳥座の聖闘士に『聞こえるように言え』と命じられた紫龍が、そのリクエストに応えて、声の音量を通常のそれに戻す。 それまで星矢が(瞬も)気付かずにいた その事実は、氷河にとっては 決して“星矢に知られては困ること”ではなかったようだった。 むしろ、これまでずっと気付かずにいた星矢の鈍感に、氷河は腹を立て続けていたのかもしれない。 星矢に その事実を知らせてやったと告げた紫龍に対しては、氷河は憤った様子を見せなかった。 「気付くか。こんな粗忽者が。星矢! 瞬に余計なことは言うんじゃないぞ。俺のことで、瞬を煩わせるわけにはいかん。それくらいのことは、いくら 地上で最も空洞の多い頭の持ち主のおまえでも わかるだろう。瞬に余計なことを言ったら、おまえは二度と新しい朝日を拝むことはできないと思えよ!」 「う……うん……」 氷河が口にする どんな罵詈雑言も、思い遣りに満ちた甘く優しい囁きに聞こえる。 星矢(の姿をした瞬)は、ほとんど夢見心地で 氷河の脅迫に頷いたのだった。 |