庭に出てくる氷河の姿に気付いた時、瞬(の姿をした星矢)は、ほとんど条件反射で全身を強張らせ、氷河の怒声に耐えるための態勢を整えた。
「瞬。帰ってきていたのか」
ここ数ヶ月 聞いたことのなかった氷河の穏やかな声音に接し、自分が今 アンドロメダ座の聖闘士の姿をしていることを思い出す。
それでも、完全には心身の緊張を解くことはせず、瞬(の姿をした星矢)は 氷河に こくこくと頷いた。
「星矢がまた、おまえに身勝手な仕事を押しつけたそうだな。嫌なら嫌と言っていいんだぞ。おまえが 人から頼まれたら嫌と言えないたちなのだということは わかっているが、諾々と人の言うことに従ってばかりいるのは、決して いいことじゃない。だいいち、そんなことばかりしてると、おまえが疲れるだろう」
「瞬が、そんなことで疲れるわけねーだろ」

いったい氷河は何を言っているのか。
瞬は、本当に嫌なことには はっきり『嫌だ』と言うことのできる人間である。
たった一人の人間の力では敵うはずがない強大な力を持った神に その身をのっとられた時、最後まで『嫌だ』と言い続け、抗し続け、ついに神の支配から脱してのけた瞬の強固な意思を、氷河は忘れてしまったのかと、瞬(の姿をした星矢)は訝った。

「なに?」
瞬(の姿をした星矢)の返事を聞いた氷河が その眉をひそめたのは、瞬(の姿をした星矢)の返事の内容に彼が異議を覚えたからではなかっただろう。
星矢は慌てて言い直した。
「僕は そんなことで疲れたりしねーぜ」
「……」
せっかく 瞬の常用一人称で言い直したというのに、ひそめられた氷河の眉が元に戻らない。
眉をひそめたままで、氷河は、瞬(の姿をした星矢)に尋ねてきた――否、氷河としては それは“尋ねた”というより、“たしなめる”ため、“責める”ために発した疑問文だったかもしれない。

「瞬。星矢の口の悪いのが移ったのか」
「そんなことねー……ないよ」
「朱に交わると赤くなると言うし、気をつけるんだぞ」
「お……おうっ!」
「……」
氷河が、眉だけでなく顔全体を大きく歪める。
こんな時、瞬はどういう言葉を用いていたか。
懸命に記憶の糸を辿って、なんとか
「はい……うん……」
という言葉(?)を思い出す。
瞬は なぜ こんなに使いにくい言葉を使ってるのか。
星矢は瞬の中で苛立たずにはいられなかった。

それでも、これは、氷河のこれまでの態度を責め、自分に対する いじめを止めさせる いい機会である。
星矢は星矢なりに頑張って、瞬になり切るための努力を続けた。
「あのさー……あのね。星矢が言ってたんだけど、氷河がやたらと俺をいじ――星矢をいじめるのが しんどいって」
氷河に、その事実を認め、反省し、これまでの言動を正してほしい。
星矢の願いはそれだけで、彼は 自分のその願いを ごくささやかなものだと思っていた。
にもかかわらず、氷河の答えは にべもないものだった。
「俺は 星矢に注意を促しているだけだ。たとえ、星矢がそれをいじめと受け取ったとしても、それは奴がいじめられても仕方のないことをしているからだ」
「俺がいつ――星矢がいつ、おまえに いじめられても仕方ねーようなことをしたんだよ――したの」

勢いよく畳み掛けるように怒鳴り返してやりたいと 気は逸るのに、それを瞬の口調でしようとすると舌を噛みそうになる。
瞬が一見 大人しく おっとりしているように見えるのは この口調のせいだったのかと、今になって気付いたところで何の得にもならないことに、星矢は今更 気付くことになった。
自分の言いたいことを 自分の口調で言える氷河は、そんな星矢とは対照的に、いつも通りに絶好調である。
「おまえを使い走りにして、散らかしたものを片付けさせて、失くし物は おまえに探させ、自分の失敗失態の尻拭いも全部おまえ任せ。しかも、星矢は おまえに感謝するでもなく、申し訳ないと思うでもなく、そうしてもらうのが当たり前のことだと思い込んで、ノンキなツラをさらしている。あいつは、おまえを、何でも言うことを聞いてくれる お姉さんか お母さんとでも思ってるんだ」
「んなことねーよ! んにゃ……ないと思うけど」
「いや。星矢は、おまえに甘える癖がついてしまっているんだ。星矢が自分で自分を矯正できないなら、おまえが はっきり嫌だと言ってやるしかない」
「おまえは そう言うけど、瞬はさー……僕はさー……」

瞬はそれを嫌がっていないのだ。
それは、星矢は 自信をもって断言できた。
むしろ、瞬は 自分に世話を焼かせてくれる だらしない弟や息子を求めているくらいなのだ――と。
一方に 求める者がいて、もう一方に その求めに応じる才能(?)の持ち主がいる。
求められている者が 与えられるものを 求めている者に与え、求めている者が 求めるものを 与えられる者から与えられる。
それのどこが悪いのだというのが、星矢の考えだった。
だが、氷河の考えは、星矢のそれとは 少々――否、大いに違っていたらしい。

素直に『はい』と答えてこない瞬(の姿をした星矢)を困ったように見詰め、見おろし、氷河が その右の手を 瞬の左の頬に添えてくる。
気持ちが悪いほど優しく、だが遠慮しているようにも感じられる、その手の感触。
瞬(の姿をした星矢)の背筋を、ぞわわわわっと悪寒が駆け抜けていった。
「これは星矢のためでもあるぞ。おまえがいなくなったら、奴は爪切りのありかもわからず右往左往することになりかねない。星矢は、その手のものを おまえに頼めば持ってきてもらえるものという認識でいるからな」
「へ……」

氷河の指摘は正鵠を射ていた。
星矢は 確かに その生活雑貨がどこにあるのかを知らなかった。
それは、星矢にとって、『なあ、爪切り 知らねーか』と瞬に声をかければ、『はい、どうぞ』と瞬から手渡されるものだった。
切った爪が飛び散れば、瞬が それを拾い集めてくれ、雑な切り方をすれば、『そんな切り方だと、自分の爪で怪我しちゃうよ』と言って 瞬が上手に仕上げてくれる。
瞬がいなくなった時、瞬がしてくれていたことを、氷河や紫龍がしてくれるとは思えず、もちろん星矢自身にも 瞬の代わりはできない。
言われてみれば、それは大問題だった。

「そっかも……。そっかー……俺、瞬に甘えてたのか」
「おまえが いつも人の役に立つことをしていたい人間だということは知っているんだがな。星矢には自立を促してやるべきだ。他でもない、奴自身のために。そうして、星矢が手を離れて 物足りなくなったら、たまには俺を甘えさせてくれると嬉しい」
「はあ……?」
天馬座の聖闘士に自立を促すべきだとあるという主張には、星矢も特段の異議はなかった。
それは実に尤もな意見だと思う。
だが、それで手が空いたら、代わりに白鳥座の聖闘士を甘やかしてくれと、氷河が瞬に求めることは理に適ったことだろうか。
星矢には どうしても そう思うことができなかった。






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