いったい氷河は どういうつもりで、そんな理屈に合わないことを言い出したのか。
氷河の意図を量りかね、瞬(の姿をした星矢)が 理外の理を唱え出した男の顔を見上げる。
支離滅裂男は、それまで瞬(の姿をした星矢)の頬に添えていた手を離し、その視線を今は瞬(の姿をした星矢)の上から逸らしていた。
逸らした視線が、城戸邸の庭の薔薇園の ピンクと白の小さな花をつけた蔓薔薇に向けられている。
「ミミエデンが花を開いたようだな。おまえのようだ。可憐で清楚で」
「え……あ、いや、それほどでも」
「なに?」
「だから、んなことねーよって……。違った、『そんなことないよ』か」
本当に どうして瞬は こんな面倒な言葉使いをしているのか。
瞬でない人間として聞いている分には優しく快く感じられていた瞬の話し方、使用する言葉の選択が、まどろっこしくてならない。
自分の言いたいことを思い通りに 自分の言葉にできない歯痒さに、星矢は いらいらしていた。

「瞬、おまえ、どうかしたのか」
氷河が、瞬(の姿をした星矢)の顔を覗き込んでくる。
平生と様子が違う瞬(の姿をした星矢)を、氷河が訝り案じているのは確かだが、それだけにしては妙に熱っぽく、どこか もどかしさを含んでいるような眼差し。
今、瞬(の姿をした星矢)に向けられている氷河の瞳は、自分の言いたいことを自分の言葉で言うことができずに苛立っている星矢より はるかに物言いたげだった。
何事かを言葉にしてしまいたいのに、そうすることができずにいる人間の目。
氷河の そんな目を見るのは、星矢にはこれが初めてのことで、いったい氷河は瞬に何を言いたいのかと、彼は氷河の眼差しの意図を訝ることになったのである。
だが、今は それどころではない。
星矢は すぐに自分が立たさせている窮地のことを思い出した。
瞬らしからぬ瞬(の姿をした星矢)の振舞いを、氷河が怪しんでいる現状を。

「あ、いや、それはその、今日の俺――僕は変だろーけど、ほら、春だからさー……」
氷河の接近と 異様に熱っぽい その眼差しが気持ち悪くて、星矢は 手を振り回しながら、少しでも氷河との間に距離を置くため、一歩 後ずさった。
「うわっ」
途端に、庭の敷石の端に踵を引っかけ、見事な尻餅をつく。
振り回していた手が、薔薇園のアーチに絡みついていた蔓薔薇の棘に 狙い過たず(?)命中するあたり、瞬(の姿をした星矢)は まさに“踏んだり蹴ったり”を体現することになったのである。

「瞬、大丈夫か。どうしたんだ。おまえ、本当に今日はおかしいぞ」
そう言って、氷河が、瞬(の姿をした星矢)の前に右の手を差し出してくる。
星矢は、人の手(というより、氷河の手)を借りることなど絶対にしたくなかったのだが、瞬なら 差しのべられた仲間の手を無視するようなことはしないだろうと思うから、我慢して氷河の手を借りることをした。
目だけではなく手まで、氷河は熱を帯びている。
氷雪の聖闘士が これはいったいどうしたことだと、星矢は内心で重ねて氷河の熱っぽさを怪しむことになったのだった。
今、瞬(の姿をした星矢)の前にいる氷河は、星矢の見知っている氷河とは別人のようだった。
どこか何かが、いつもの氷河と違っているのだ。
その別人のような男が、薔薇の棘が作った瞬(の姿をした星矢)の手の甲の傷を見て、眉根を寄せる。

「怪我をしたのか。血が出ているじゃないか」
「こんなの、怪我のうちに入るかよ――入らないよ」
この怪しい男の側から 一刻も早く離れたい。
命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間だというのに、この男には ポセイドンよりハーデスより危険な何かを感じる。
それは幾つもの死闘を重ね、生き延びてきた聖闘士の勘だった。
この男は危険だ。
この男はおかしい。
この男の側にいてはならない――。
この勘に逆らうと、その先には ただ死あるのみ。
まだ死にたくなかった星矢は、もちろん その勘に従おうとした。
だが、氷河は、瞬(の姿をした星矢)に そうすることを許してくれなかったのである。
瞬(の姿をした星矢)の手を掴んだまま――氷河は、瞬(の姿をした星矢)の手を瞬(の姿をした星矢)に返そうとはしなかった。

「リルケは、薔薇の棘に刺された傷が元で急性白血病を発症して、命を落としたんだ。かすり傷と侮っているのは危険だぞ」
「リルケ?」
いったい それはどこの誰だと、瞬(の姿をした星矢)が口にしかけた、まさに 次の瞬間。
絶対零度が春の微風にしか感じられないほどの凄まじさを持つ攻撃が、瞬(の姿をした星矢)を襲った。
神にも持ち得ないような強大な力、その破壊力。
瞬(の姿をした星矢)は、その瞬間、瞬の肉体を構成する原子が完全完璧に砕かれた――と思った(星矢には そう感じられた)。
瞬の肉体だけではない。
氷河は小宇宙を発動してはいなかったのに、瞬(の姿をした星矢)の中にあった星矢の精神は、その時 完全に破壊された(ように、星矢には感じられた)。
絶対零度が春の微風にしか感じられないほどの凄まじさを持つ氷河の攻撃。
それは、宇宙開闢の時に起こったというビッグバンにも これほどの破壊力はなかったに違いないと確信できるほど強大な力を持つ、悪夢の技だった(星矢にとっては)。
氷河は、薔薇の棘で傷付いた瞬(の姿をした星矢)の手の甲に、その唇を押し当ててきたのだ。

「うわーっ、氷河が狂ったーっっ !! 」
命ある限り、決して諦めることをしないアテナの聖闘士にも 忍耐の限界というものはあるのである。
今がその時、これが その限界。
瞬(の姿をした星矢)は、世界の果てまで届けと言わんばかりに 狂気のような声を響かせた。






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