そうして氷河王子が向かった一輝の館。
都の外れにあると聞いていた その建物は、“館”でも“城”でもなく、平民である過去見の魔法使いの家と大して変わらない、ごく普通の一軒家でした。
貴族に叙せられた者は、都の内にどれだけ豪壮な城館を構えてもいいことになっているのに、それは“ちんまり”という形容がふさわしい、素朴な田舎家。
城門も城壁もなく、氷河王子の膝丈ほどの高さしかないグミの木でできた生垣の向こうには、こじんまりとした野菜畑と花壇があるきり。
家屋の屋根はかやかれ、壁は漆喰、家の扉は 凝った彫刻が為されているわけでも何でもない、実にありふれた樫の木製。
一輝の家は、貴族の館の庭園の隅に物置小屋として置くにしても素朴すぎるほど素朴な、つましい一軒家だったのです。

「本当に、ここが一輝の家なのか?」
貴族も貴族、ノーワンダーランドに10人といない大貴族の住まいとしては、これは あまりにもみすぼらしすぎます。
氷河王子は、ちんまり可愛い一輝の“おうち”の前で、ぽかんと突っ立っていることしかできませんでした。
こんな可愛い家に『こんにちは〜』と言いながら入っていって、一輝に もし『いらっしゃ〜い』なんて言われるようなことになったりしたら どうすればいいのかが、氷河王子にはわからなかったのです。
まあ、あの一輝が『いらっしゃ〜い』と言って氷河王子を彼の家の中に入れてくれるかどうかは、ちょっと怪しいところでしたけれどね。

可愛い田舎家の樫の木の扉が開いたのは、氷河王子がそんなふうに グミの木の生垣の横で迷っていた時。
扉から出てきたのは 華奢な姿をした一人の子供で、右の手に木でできた桶を一つ持っていました。
その木桶を手にして、庭の隅にある井戸の脇に とことこと(自分の足で)歩いていって、井戸の釣瓶つるべを(自分の手で)ぎこぎこ引っ張り、井戸桶の水を(自分の手で)木桶に移し、水の入った木桶を(自分の手で)持って(自分の足で)花壇の方に移動し、自分の手を柄杓代わりにして、花壇に水を撒き始め――その子供は、それら一連の作業をする間に 一度も魔法を使いませんでした。
すべての仕事を、自分の手足で行ないました。
もし これが一輝の弟だというのなら、彼が花を咲かせる魔法以外にどんな魔法も使えないというのは、おそらく事実なのでしょう。
ノーワンダーランドでは、普通レベルで魔法を使える者なら、少なくとも井戸の釣瓶を引くくらいのことは魔法の力でしましたから。
けれど。

奇跡の世代の魔法使いの一人である一輝の弟が、井戸の水汲みも魔法でできない みそっかす――なんてことがあり得るでしょうか。
一輝は それを恥じて、弟の存在を これまで隠していたのでしょうか。
プライドの高い一輝のこと、それは決してあり得ないことではありません。
ですが、一輝の弟が本当に花を咲かせる魔法しか使えない魔法使いなのであれば、この子供をテュポーン退治の旅に同行させるのは どう考えても危険すぎると、氷河王子は思ったのです。

「どなた?」
垣根越しに ふいに声を掛けられて、氷河王子は はっと我にかえりました。
そして、次の瞬間、目をみはって息を呑むことになったのです。
氷河王子に声をかけてきたのは、たった今まで自分の手で花壇に水を撒いていた一輝の弟とおぼしき人物でした。
その子が、生垣の脇に突っ立っている氷河王子の姿に気付き、他人の家の庭を ぼんやり眺めている氷河王子を訝しんで、いつのまにか氷河王子の目の前まで(自分の足で)やってきていたのでしょう。
それはいいのです。
氷河王子は本当にぼんやりしていましたし、その子は ぼんやりしているうちに接近を許したからといって危険が生じるような相手でもなさそうでしたから。
問題は そんなことではなく――間近で見る一輝の弟が あまりに綺麗で可愛らしすぎることでした。

不審人物を警戒している様子もなく、親しみやすく優しげな表情。
肩に掛かる やわらかな髪と、白く温かそうな その肌。
ほんの少し上気した頬と、薔薇の花びらのような唇。
何より、氷河王子を見上げ見詰める、新鮮な泉のように澄み切った大きな瞳。
その様子、その印象、その表情に、氷河王子は 生まれてこの方 一度も経験したことのない激しい衝撃を受けてしまったのです。
こんなに可憐で可愛らしく 清楚で優しそうな瞳と表情の持ち主が、傲慢で高飛車で暑苦しい顔をした あの男の弟だなんて、そんなことがあるでしょうか。
そんなことは絶対に信じられません。
完全な覚醒を果たしたテュポーンが この世界を破壊し尽くしてしまっても、そんなことはあり得ないと、氷河王子は思いました。

「あ……一輝……は……」
一輝の弟の綺麗に澄んだ瞳から目を逸らすことができないまま、氷河王子は かすれた声で何とか そう尋ねることができました。
一度 小さく首をかしげて、世にも可憐な薄桃色の花が 少しだけ不安そうな顔になります。
「兄は、今朝から星矢や紫龍と一緒に、大陸の西の果ての浜に出掛けてしまったんですけど……」

『瞬』
奇跡の世代の魔法使いたちは、一輝の弟を、確か『瞬』と呼んでいました。
瞬の姿を見、その声を聞き、その仕草と表情を見て、氷河王子は ある可能性に思い至ったのです。
もしかしたら 一輝たちは、瞬があまりに可愛らしいので、人に その姿を見せたくなくて、その存在を隠していたのではないだろうかと。
一輝たちから感じた秘密の匂いは、そういうことだったのではないだろうかと。
もしそうなら、彼等の秘密主義にも合点がいきます。
こんなに可愛らしくて清らかな様子をした少女に出会ってしまったら、誰だって一目で恋に落ちてしまうに違いありませんでしたから。

「君は一輝の妹?」
そうに違いないと確信して尋ねた氷河に、花のような瞬は、
「僕は兄さんの弟です」
と答えてきました。
氷河王子には そんなことは到底信じられなかったのですが、瞬は嘘をついているようには見えません。
こんなに綺麗な瞳の持ち主が嘘をつくはずがありません。
瞬がそう言うのなら、そうなのでしょう。
これだけ澄んで清らかな瞳の持ち主なら、瞬が女の子でも男の子でも、そんなことはどうだっていいことです。
瞬が、あの一輝の弟妹だということは ちょっと問題のような気もしましたが、それすらも――この澄んだ瞳の前では 特段 気にするようなことではありませんでした。

「お……俺は、一輝の知り合いで氷河というんだ」
「兄さんの知り合いの氷河さん……って、もしかして氷河王子様ですか。し……失礼しました」
瞬が、氷河王子の身分を知って、急に怯えたように かしこまり、一歩 後ろに後ずさります。
そのまま瞬に逃げられてしまうのではないかと慌てて、氷河王子は瞬の手を掴みました。
「いや、俺は、もうすぐ王子ではなくなる予定だ」
「え?」
「そ……それで、ぜひとも君と お友だちになりたいと――」
「お友だち……?」

いったい自分は何を言っているのかと、氷河王子は胸中で自分の支離滅裂な取り乱しように呆れていました。
氷河王子自身でさえ そうだったのですから、氷河王子ならぬ身の瞬にはもっと、氷河王子の言動は奇矯なものに思えていたことでしょう。
氷河王子は、とっても慌てました。
ここで瞬に“変な人”と思われてしまったら、実る恋も実らなくなってしまいます。
世界が壊れる前に、氷河王子の人生が一巻の終わりです。
氷河王子は何としても ここで瞬に、いずれ王子でなくなる氷河という男は 強くて優しい好人物だと思ってもらわなければなりませんでした。

「いや、その、だから、一輝が―― 一輝が花を咲かせる魔法しか使えない君をテュポーン退治の旅に連れていこうとしているらしいから、そんな危険なことはやめろと説得しに――」
「あ……ごめんなさい……。そうなの。僕、兄さんの弟なのに、出来損ないで……」
優しく思い遣りのある男と思われようとして告げた氷河王子の言葉を聞いた瞬が、氷河王子の前で しょんぼりと肩を落とします。
氷河王子は 自分がまずいことを言ってしまったことに気付き、一層慌てることになりました。
「そ……そうではなくて――。花を咲かせる魔法もすごいと思うぞ。俺は物を凍らせる魔法は得意なんだが、花を咲かせる魔法を上手くできた ためしがない」
それは決して自慢になるようなことではなかったのですが、可愛い瞬を元気にするためになら、自分が欠陥持ちの魔法使いと思われることくらい何でもありません。
氷河王子は、自分の無能を示すために、一輝の庭の花壇に向かって 指を弾いてみせたのです。

花は――花は咲かないはずでした。
嘘ではなく本当に、氷河王子は これまで ただの一度も花を咲かせる魔法を成功させたことがなかったのです。
だというのに、今日に限って何ということでしょう。
花が咲いてしまったのです。
それも一輪だけでなく、花壇に植えてあった花が全部、ぽぽぽぽぽんっと音を立てて一斉に。
氷河王子は呆然としてしまいました。
幼かった氷河王子が、今は亡き お母様に お花をあげるため毎日毎日特訓しても一度も成功したことのなかった花を咲かせる魔法。
それが、今になって、いとも たやすく成功してしまったのです。

「初めて、うまくいった……」
これは、可愛い瞬の前で張り切ったせいなのでしょうか。
喜ぶべきなのか 気まずく思うべきなのかを迷い、氷河王子が その視線を花壇の花から瞬の上に戻すと、せっかく綺麗な花が たくさん咲いたというのに、瞬はとても悲しそう。
「瞬……?」
「僕……自然に花が咲くのを見たかったの……。魔法で無理に咲かせると、その花は早く しおれてしまうから……」
「あ……」
瞬が悲しんでいるのは、自分の十八番を氷河王子に奪われたからではなく、花の命を惜しんでのことのようでした。
肩を落として 花よりも しおれている瞬を見て、氷河王子は自分の軽率を心から後悔することになったのです。

「す……すまない。そんなつもりではなかったんだ。俺は本当に 花を咲かせる魔法を成功させたことがなくて……こんなはずでは――本当に すまない」
氷河王子は、いっそ その場に土下座をして瞬の許しを請いたいくらいでした。
こんなに綺麗な目をした瞬を悲しませるなんて、それこそ悪魔の所業ですからね。
実際、氷河王子はそうしようと思ったのです。
土下座をして、瞬の許しを請おうと思った。
けれど、あいにく 氷河王子はそうすることができなかったのです。
「なぜ、貴様がここにいる」
いつのまにか帰ってきていた瞬の兄の、殺気がこもっているとしか思えない低い声に邪魔されたせいで。

もともと氷河王子と瞬の兄 一輝は、仲がよかったわけではありません。
氷の魔法使いと炎の魔法使い。
性格も違えば価値観も違い、生まれ育った境遇も違います。
そんな二人が理解し合うのは容易なことではないでしょうし、これまで一度も 氷河王子は――おそらく一輝も――そのための努力をしようと思ったことがありませんでした。
ですが、だからといって、二人が憎み合っていたわけではありません。
少なくとも氷河王子は そう思っていました。
けれど今、どういうわけか、一輝は鬼のような形相をして氷河王子を睨みつけていて――その形相の凄まじさに、氷河王子は大層驚くことになったのです。

訪問の約束をしていたわけでもないのに勝手に家に押しかけた不作法な男が、おそらく一輝が大切に隠していたのだろう可愛い瞬を見付けてしまったことが 一輝の気に障ったのだろうと、氷河王子は思いました。
氷河王子が もし一輝の立場だったなら、こんなに可愛い瞬と こっそり会っていた図々しい男を許す気にはなりません。
そう考えれば、悪鬼のごとき一輝の形相も無理からぬこと。
ですから、氷河王子は、一輝に炎の魔法を仕掛けられることを覚悟したのです。
もちろん、せっかく可愛い瞬に出会えた嬉しい日に、大人しく一輝の魔法で燃やされてしまうわけにはいきませんから、氷河王子は氷の魔法で一輝に反撃するつもりでしたけれどね。

ところが案に相違して、一輝は氷河王子に戦いを挑んではきませんでした。
瞬の瞳が涙で潤んでいることに気付いた一輝は、一瞬 はっとした顔になり、それから数秒の間 何事かに考えを巡らせる素振りを見せ、最後に 氷河王子に悲痛な声で おかしなことを訴えてきたのです。
「氷河、頼む! このことは秘密にしておいてくれ! 瞬は俺の大事な弟だ。両親を亡くしてから、これまで二人で支え合って生きてきた。瞬は本当に心の優しい子で、これまで罪と呼ばれるようなことは、どんな小さなこともしていない。瞬ほど清らかな心を持った人間は この地上のどこにもいないと、俺は自信をもって断言できる……!」
「え……?」

それはそうでしょう。
瞬が清らかな心を持っていることは、その澄んだ瞳を見れば わかります。
瞬が 花の命を惜しむ優しい心の持ち主だということを、氷河王子は たった今 知ったばかりでした。
一輝の主張は、至極尤も。
その意見に、氷河王子は全面的に賛同することができました。
ですが。
その至極尤もなことを、なぜ 一輝は、平素の彼であれば考えられないほどの低姿勢で、そりの合わない氷の魔法使いに訴えるのか。
その訳が、氷河王子には わからなかったのです。
その理由は、呻くように苦しげな一輝の、
「俺の最愛の弟を無為人の島に送ることなど、俺には死んでもできん……!」
という言葉で すぐに わかりましたけれどね。

「無為人の島……?」
「兄さん!」
一輝が告げた言葉を そのまま繰り返した氷河王子の声を、瞬の悲鳴が遮りました。
瞬の制止は、けれど、一瞬遅かったのです。
氷河王子は、既に その不吉な言葉を聞いたあとでした。
“無為人の島”。
それは、赤道直下の太洋亜区にあって、そこに送り込まれたら 送り込まれた者は数日のうちに命を落とすと言われている地獄の島、流刑の島。
その流刑の島に送られるのは、ノーワンダーランドに何の益ももたらせないという罪を犯した罪びとたち。
つまり、“無為人の島”というのは、魔法を使えない者が送られる、運命に見捨てられた島の名だったのです。

「瞬は魔法が使えない……のか?」
氷河王子の呟きを聞いて、一輝は自分が早まったことを口走ってしまったことに気付いたようでした。
「ばれたのではなかったのか?」
一輝は、最愛の弟の瞳を濡らす涙を見て早合点をしてしまったのです。
瞬の涙は、氷河王子の魔法の力によって生き急ぐことを強いられた花を悲しむ、優しい涙だったというのに。






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