「氷河は、もともと、僕のこと、少し誤解してたんだよ。天秤宮でのこととか、僕がアンドロメダの聖闘士してるせいもあって ちょっと自己犠牲の精神に富んでることとか、そんなことのせいで。アンドロメダのイメージが先行してるとこもあったかもしれない」 それは愚痴なのか、それとも不平、不満の類なのか。 いずれにしても、それは瞬個人の推察から成る言葉である。 そして、単なる前置きにすぎない。 その“単なる前置き”にさえ、『天秤宮でのことを、氷河がどう誤解できるのか』とか『おまえの“富んでる自己犠牲の精神”を“ちょっとだけ”で片付けるか』等、突っ込みどころはあったのだが、それでも 星矢と紫龍は 瞬の言葉に特段の異議を唱えることはせず、黙って聞いていた。 なにしろ、最近 妙に瞬が しおれているので、『悩み事があるのなら相談に乗るぞ』と瞬に水を向けたのは、彼等の方だったのだ。 早いところ、前置きを終わらせて 本題に入ってもらわないことには、それこそ話にならない。 ちなみに、瞬を しおれさせている原因が氷河であることは、星矢たちも薄々察していたので、この場に氷河の姿はなかった。 要するに、星矢と紫龍は、十分な配慮の上、この“瞬のお悩み相談室”の場を整えたのである。 瞬の口から出てくるものが楽しい日常生活の報告でないことは、最初から わかっていた。 「僕が、ジュデッカで、僕一人の命で世界を救うことができるならって言ったこととか、そんなことも どこからか漏れ聞いたみたいで、誤解に拍車がかかったんだ。それでなくても誤解してたところに、ハーデスが僕を彼の依り代に選んだのが“地上で最も清らかな魂の持ち主”だから――なんて、嘘か真かわからない理由のせいだったってことを知らされたのが、決定打。どうしてハーデスが、そんな あり得ない理由をでっちあげて、僕にあんなことをしたんだか、僕にはわからないよ。本当のところは、アテナの聖闘士として鍛え抜かれた僕の身体が 彼の魂の器として都合がよかったとか、そんな理由でしょう? なのに、ハーデスがそんな嘘の理由をでっちあげるから、こんなことになっちゃったんだ……」 「そ……そうか……?」 ハーデスはアテナの聖闘士として鍛え抜かれた瞬の身体を欲しただけだったのだと 本気で信じているらしい瞬に どうコメントしたものか迷い、かといって、瞬の見解に 心から賛同することもできず――星矢と紫龍は正直、大いに困惑してしまったのである。 ハーデスが欲したものが本当に ハーデスが“地上で最も清らかな魂の持ち主”として、瞬を自らの魂の器に選んだのは事実だと思う。 もし そうでなかったのだとしても、彼が他のアテナの聖闘士ではなく瞬を選んだのは、彼が“可愛子ちゃん”タイプを好きだったからだろう――というのが。 しかし、自分の鍛え抜かれた身体に絶対の自信を抱いているらしい瞬に、そんなことは言えない。 結果として、星矢たちはノーコメントで 静かに瞬の言葉を拝聴し続けるしかなかった。 「目の前で仲間が死にかけてて、自分に助ける力があるかもしれないってなったら、命をかけて助けようとするのは当たり前のことだし、自分一人の命で何十億人の人の命が救われるってなったら、誰だって自分の命を投げ出すでしょう。僕は、人として当然のことをしただけなんだ。なのに、氷河ってば、変な方に誤解して――」 その誤解が悲しいのか、腹立たしいのか、やるせないのか。 瞬は、そこで いったん言葉を途切らせ、切なげに顔を歪ませた。 それが本当に苦しげで切なげだったので、紫龍は『いや、それは当たり前のことでも当然のことでもないぞ』と、瞬に言うことができなかったのである。 『そういう時、人は、平和のうちに生命を脅かされることなく生存する“平和的生存権”や、公共の福祉に反しない限り尊重される“生命・自由・幸福追求の権利”等の基本的人権を振りかざして、自分の命を守ろうとするのが普通だろう』などということを、ここで瞬に言えるわけがない。 「僕は自分の幸せを求めない。自分の命も惜しまない。ただ ひたすら世界の平和と安寧だけを求めている自己犠牲の権化とでも思い込んじゃったんだ、氷河は、僕を」 その思い込みは誤解だと、どうやら瞬は固く信じているらしい。 とても、『違うのか?』と問い返せる雰囲気ではない。 星矢は、その言葉を喉の奥に押しやることになった。 「あれを清らかっていうのなら、人間は誰だって清らかだよ。ほんとに、ハーデスは僕の何を見て、僕を地上で最も清らかだなんて、すぐに ばれる嘘をついたの。氷河も、どうして、そんなハーデスの たわ言を信じたりするの。だいたい 僕が自分の幸せを求めてないなんて、そんなこと誰が決めたの。僕だって幸せになりたいに決まってるでしょう。幸せになることを願わない人間なんているはずがない。もし そんな人がいたとして、じゃあ、その人はいったい何のために この世界に生まれてきたの。何のために生きているの。ちょっと考えたら、わかることだと思うのに……」 話しているうちに、瞬は自分の語る現状が悲しくなってしまったらしい。 紫龍と星矢の前で、瞬は力なく肩を落とし、そして その顔を伏せてしまった。 さすがに、それ以上ノーコメントで い続けることのできなくなった紫龍が、『氷河は誤解している』という瞬の主張に なるべく反論にならない言葉を選んで反論する。 「おまえが自分の幸せを願っていない人間だとは、氷河も思っていないのではないか。ただ、おまえは、自分の幸せより 自分以外の人間の幸せの方を常に優先させるから、そこが、氷河には特別に見えるだけで……」 「でも、そんなの、誰だってそうでしょう。誰だって、自分よりは自分以外の人に幸せでいてほしいと思ってる。自分だけ幸せでいたら、いたたまれない気持ちになるに決まってるもの。誰だって、つらいことや悲しいことを抱えている人に、自分が幸せでいることを 嬉々として知らせたりなんかできない。でも、みんなが幸せでいてくれたら、僕だって遠慮せずに幸せになれるし、幸せでいることを大っぴらにできるし――」 瞬らしい考え方だと、紫龍は思ったのである。 自分だけが幸福でいても、何にもならない――。 それを、とても瞬らしい考え方だと思うことは思うし、瞬の その考え方には好意も抱く。 だが、それが“普通”で“当たり前”で“当然”なのかと問われると、紫龍は首を横に振ることしかできなかったのである。 それは決して“普通”でも“当たり前”でも“当然”でもない。 「普通は、その順番が逆なんだ。普通の人間は、まず 自分の幸福の追求から始める。次に他人の幸福を考える人間は、まだましな方。他人の不幸を見て 自分の幸福を喜ぶような人間もいるくらいだ」 「……」 紫龍の その言葉を聞いた瞬が、いっそ すがすがしく思えるほど露骨かつ自然に、“信じ難い”という表情を浮かべる。 “普通の人間”が 瞬のこの反応を見たら、どう思うのか。 紫龍は、それこそ“普通の人間”に意見を聞いてみたい気分になった。 瞬が、仲間の意見に戸惑い、遠慮がちに、だが 自分の考える“普通”こそが絶対不変の“普通”だと信じ切っている目で、紫龍に反駁してくる。 「そんなの、変だよ。紫龍や星矢が悲しそうな顔をしていたら、僕まで悲しくなる。紫龍たちだってそうでしょう」 「それはそうだが、誰もがそうだとは限らない。『まず 自分。次に他人』もしくは『まず 自分。次は無し』。おそらく、それが“普通”だ」 「でも、僕は そんな、変な順番でいる人なんて知らないよ。紫龍も星矢も兄さんも沙織さんも みんな、自分のことは後回しだ。僕の先生だって そうだった。黄金聖闘士たちだって そうだった。僕がこれまで戦ってきた敵と呼ばれる人たちだって、そうだったと思う」 「――」 瞬が“普通の人間”を知らないはずがない。 “他人の幸福を願わない”どころか“他人の不幸を喜ぶ”ような人間に、瞬は これまで数多く出会ってきた。 幼い頃、たまたま“守り愛してくれる親がいない”という境遇にあったせいで、城戸邸に集められた孤児たちが どれほど つらい目に合わされてきたか、どれほどの辛酸を舐めさせられたか。 あの頃、瞬(たち)の周りには、幼い子供たちに 優しさや同情を示してくれる大人は一人もいなかった。 恵まれない子供たちの幸福を願ってくれる大人は一人もいなかった。 理不尽な力で 幼い子供たちに過酷な運命を強いる大人しかいなかった。 そのために、瞬は毎日 泣いていたではないか。 瞬は、あの頃 出会った大人たちのことを忘れたわけではないだろう。 忘れられるわけがない。 ただ、おそらく瞬は それが彼等の本当の姿だとは思っていない――思わなくなったのだ。 彼等もまた、本来は心優しく、人に対する誠意を備え、皆の幸福を願っているのだと信じている――信じるようになったのだ。 同じ運命に耐えている仲間たち、非力な弟を守るために自ら死地に向かった兄、聖闘士になるための厳しい修行の中で出会った強く優しい人たち、それぞれの信念と希望のために命をかけて戦った多くの敵たち。 過酷な運命の中で――拗ね、すさみ、捩じくれた人間になって当然の運命の中で――出会った出会いや 繰り返された戦いの経験の果てに、瞬は『人は信ずるに足る存在である』という信念を持つに至った。 『信じたい』が『信じる』になった。 そして、瞬の『信じる』は、瞬に力を与えるもの。 幾度 裏切られても、幾度 希望を打ち砕かれても、信じることをやめない瞬は、信じることによって 更に力を増し、人を信じる気持ちを 更に強く大きなものにしていく。 そして、その力は 瞬の中にだけ留まっているものではない。 その力は、“普通の人間”にも影響を及ぼす。 瞬のように すべての人を信じるレベルには届かなくとも、『アンドロメダ座の聖闘士をなら信じる』『瞬の言うことなら信じられる』という者たちを、紫龍は幾人も知っていた。 それが瞬という人間であり、瞬にとっては、人の優しさや誠意を信じることは、“普通”で“当たり前”で“当然”のことなのだ。 紫龍は、自分の“普通”が すべての人の“普通”でもあると信じている瞬に、我知らず微笑を向けていた。 瞬は、得難い仲間である。 瞬の この清らかな強さは、同じ戦いを戦う仲間としても 同じ時を共に生きる仲間としても、実に好ましい美質で、称賛に値するものだと思う。 だが、恋する相手としてはどうだろうか。 瞬が“普通”だと思うことを“普通”だと思うことのできない普通の男が 恋する相手としては。 もしかしたら、瞬を恋する普通の男にとっては、瞬の美質は障害にすら成り得る要素なのかもしれない――。 そう案じてから、紫龍は、あの氷河を“普通の男”と評していいものだろうかと、少し悩んだ。 |