「とりあえず、身近なところから始めよう。まずは、俺たちの目の前で不幸面をしている氷河を幸福にするにはどうしたらいいか、だな」 「え……」 「つまり、ハーデスとの戦いが始まる以前は、おまえを好きでいることを隠そうともせず、むしろあからさまなアプローチを繰り返していた氷河が、急に臆病に――いや、遠慮がちになったのは、その誤解のせいだと、おまえは思っているわけか?」 「あ……あの……どうして、そんな――」 まず、氷河の誤解の説明をし、その誤解を解くにはどうすればいいのかということを、これから仲間たちに相談するつもりでいた瞬は、紫龍にそう言われて、まさに虚を衝かれた気持ちになったのである。 紫龍が、そこにいると思っていた場所より10歩も20歩も先に進んだ場所に立っていることに、今になって気付き、瞬は その頬を ほのかに上気させることになった。 紫龍の言葉に 全く驚いた様子を見せないところを見ると、星矢も その辺りは承知しているらしい。 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちは、すべてを お見通し。 この仲間たち相手に、核心部分を隠しての悩み相談は不可能。 嘘はつけない――ついても無駄。 「うん……」 瞬は、紫龍と星矢の前で、正直に頷くしかなかった。 仲間に隠し事はできないと気付き、隠し事はしなくていてと思った途端、気が楽になる。 余計なことは言わずにおかなければならないという義務感にも似た緊張を自分の内から取り払い、本当に相談したかったことを、瞬は 「1回だけだけど、氷河、僕に好きだって言ってくれたんだよ。ポセイドンとの戦いが終わった頃、沙織さんが 僕たちを戦いから遠ざけようとしたことがあったでしょう。聖闘士じゃない 普通の人間として平穏に生きてほしいとか何とか、おかしなことを言い出して。沙織さんは急に何を言い出したんだろうって 途方に暮れてた僕に、氷河が言ってくれたの。『好きな人と平和に暮らすのも悪くはないかもしれない。一緒にシベリアに行かないか』って。なのに、僕、その時、きっと沙織さんには あんな変なこと言わなきゃならない深い事情があるに違いないって、そのことばっかり気にかかってて、氷河も そのせいで やけになって悪い冗談を言ってるんだと思って――それで、僕、『アテナの聖闘士がアテナの側を離れて、戦いから離脱するなんて、たとえアテナの命令でもできるわけない。だから、アテナの真意を確かめよう』って、氷河に答えたんだ……答えちゃったの――」 「氷河にしてみりゃ、勇気を奮い起こしての一世一代の告白だったろうに、おまえ、んな頓珍漢な返事しちまったのかよ。アホじゃねーの」 氷河の“悪い冗談”が 一世一代の告白だったことは、今では瞬にも わかっていた。 そして、いくら他に気にかかることがあったとはいえ、氷河の言葉の意味を深く考えもせず 頓珍漢な答えを返してしまったことを後悔し、反省してもいた。 そんな今の瞬に、星矢の忌憚のないコメントは、かなり こたえるものだったのである。 返す言葉もないとは、このこと。 瞬は両の肩を丸めて 身体を小さく縮こまらせ、そして、いたたまれない気持ちで 顔を俯かせた。 瞬のための“お悩み相談室”で、相談者である瞬を委縮させては、解決する問題も解決できなくなる。 そう考えたらしい紫龍が、容赦のないカウンセラーと すっかり気弱になってしまったクライエントの調停に入る。 「そう言ってやるな、星矢。実際、あれからすぐに冥闘士の襲撃があって、もし その時 瞬が気の利いた返事ができていたとしても、氷河と瞬が順調に恋を育てることができていたとは考えにくい」 「そりゃ そうだけど、いくら何でも間抜けすぎるだろ。それ以前からずっと、氷河は四六時中 瞬ばっかり見てたし、花だの お菓子だの貢ぎ物も欠かしたことはなかったし、鵜の目鷹の目で瞬が好きそうなイベント見付けてきては、瞬を誘ってたし――。俺、未だに憶えてるぜ。“南の海の貝がらで作る 可愛い お花と動物のオーナメント・オブジェ展”とかいう、アホらしいイベントの名前。氷河の奴、一人では行きにくいから 付き合ってくれって瞬に頼み込んでたけど、奴自身は んなもんに1ミリたりとも興味 持ってなかっただろ」 「そ……そんなことないよ! 氷河は可愛い小物とか絵本とか好きなんだよ。僕と出掛ける時は、いつも楽しそうにしてたよ!」 自分が頓珍漢な真似をした間抜けだという事実を認めることは やぶさかではなかったが、氷河と二人で過ごした楽しい時間までを否定されるのは つらい。 瞬は 星矢への抗弁に及んだのだが、瞬の反論を、星矢はあっさり切って捨てた。 「んなわけ ねーじゃん。おまえだって、あいつの部屋がどんなだか知ってるだろ。人が生きてくのに必要最小限のものしかない部屋、無駄なものは何もない部屋だ。自分の側に カレンダーや時計すら置かない奴が、可愛い花の小物なんかに興味あるわけねーじゃん。南の海の貝がらも可愛い お花も ぜーんぶ、おまえを連れ出すための口実」 「……」 氷河の“悪い冗談”が一世一代の告白だったことは 薄々そうだったのかもしれないと思うようになってはいたが、二人で過ごした時間を 氷河が楽しんでいなかった可能性にまでは、瞬は考え及んでいなかった。 そんなことがあり得るだろうか。 二人でいる時、瞬が氷河の顔を見上げると、氷河は いつも優しく瞬を見詰めていてくれた。 氷河が詰まらなそうな表情を浮かべていることや、うんざりした様子をしていることは、一度もなかった。 だから、瞬は信じていたのである。 自分と二人でいる時間を、氷河は――氷河も楽しんでくれているのだと。 だが、今にして思えば――星矢の言葉を念頭に置いて以前のことを振り返れば――氷河は確かに いつも優しい目をして自分を見詰めてくれていたが、それだけだったような気がしてくる。 氷河は彼の連れを優しく見詰めているだけで、決して 楽しそうではなかった――ような気がしてくる。 もしかしたら氷河は、遠足で小学生を引率する教師か何かのような考えで、自分を誘ってくれていたのだろうか。 彼自身は楽しめないことがわかっているのに、それを 一種の仕事か義務のようなものと割り切って、自分を外出に誘ってくれていたのだろうか。 二人で出掛けることを浮かれ楽しんでいたのは自分だけで、氷河は実は 二人が二人でいる時を楽しんでいたことは一度もなかったのだろうか。 もし、それが事実でなかったとしても、その可能性を考えなければならないことは、瞬には つらいことだった。 事実だったなら、なおさら つらい――なおさら悲しい。 |