「じゃ……じゃあ、氷河は、そういうのが好きで、僕を誘ってくれてたんじゃなかったの? 氷河は、僕と一緒にいることを全然 楽しんでなかったの? 氷河は……僕と楽しくない時間を過ごすのに耐えられなくなって、氷河が楽しんでいないことに いつまでも気付かない僕の鈍さに嫌気がさして、それで僕を避けるようになったの?」
「おまえ、なに言ってんだ?」
『氷河が好きなのは、南の海の貝がらでも可愛い お花でもなく、おまえ自身なんだ』と教えてやったつもりでいた星矢は、思ってもいなかった瞬の解釈に、まさに意表を衝かれることになった。
イベント自体は楽しんでいなかっただろうが、瞬と一緒にいることによって イベントの楽しくなさを凌駕する喜びを得られるから、氷河は手間暇をかけて 瞬を外出に誘い出す口実を探し出し、その お供を務めていたに決まっているのだ。

しかし、瞬は、楽しめないイベントに出掛けていくことを 自分が氷河に強いていた――という事実に 衝撃を受けてしまったらしい。
瞬は、瞬を外出に誘うのは いつも氷河の方だったこと、瞬が氷河にそれを強いたことは一度もないという事実を 忘れてしまっているようだった。
「僕は――氷河が僕を避けるようになったのは、氷河が 僕のことを清らかだの自己犠牲好きだのって誤解して、付き合いづらく感じるようになったからだと思ってたのに、氷河が僕を避けるようになった本当の理由は、僕の鈍感に氷河の堪忍袋の緒が切れちゃったからだったの? そこに、僕がハーデスの片棒担ぐようなことをしたから、それで、氷河は僕を嫌いになったの? 僕は、ハーデスが変なこと言ったから、ハーデスのせいで 氷河は僕を避けるようになったんだって思ってたのに、本当に悪いのは僕自身だったの……?」

言葉の上では疑問形。
だが、すっかり そう・・と信じて、瞬の心は 底なし沼の底より深いところにまで沈み込んでしまったようだった。
あの氷河を見ていて、どうして そんな考えが生まれてくるのか、星矢には、そこのところが まるで理解できなかったのである。
星矢の中には、瞬が見ている氷河と 自分が見ている氷河は、実は別人なのではないかという疑いさえ湧いてきていた。

「んなこと あるわけねーだろ。今だって、氷河はいっつもおまえのこと見てるし」
星矢は慌てて、瞬の誤解――誤解のはずだった――を解くべく、そう言ってやったのである。
紫龍が すかさず、星矢のフォローに入る。
「うむ。以前より、氷河が瞬を見ている時間は長くなったような気がするな。瞬に近付くことが減って、遠巻きに見ていることが多くなった。あれは やはり、自分は 清らかなおまえに ふさわしくないのではないかと考えて臆病になっているか、あるいは、清らかで天上的な おまえを 地上的な恋の中に引きずり込むことは一種の冒涜なのではないかという迷いが 氷河の中に生じているからだろう。おまえのせいではない。誰かに責任を帰すなら、それは やはりハーデスだろうな」
「……」

そうだろうか。
星矢や紫龍の言うことは事実だろうか。
星矢や紫龍は、愚かな仲間を傷付けないために、優しさから そう言ってくれているのではないか――。
瞬が 仲間たちの告げる言葉を すぐに信じることができなかったのは、自分がこう・・と信じていた氷河の姿が 実はそう・・ではなかった事実を知らされてしまったからだったろう。
楽しんでいると思っていた人が 実は鬱々として何も楽しんでいなかったという事態があり得るのなら、自分に好意を抱いてくれていると思い込んでいた人が、実は好意どころか嫌悪の念をしか抱いていなかったということも あり得るのではないか。
瞬は今、昨日までの自分の目と耳と判断力に、まるで自信を持てなくなっていた。
仲間の言葉を信じ切れずにいる瞬に、紫龍が嘆かわしげな視線を投げかけてくる。

「おまえは、命をかけた戦いを共に戦ってきた おまえの仲間である俺たちの言うことが信じられないのか」
「そ……そんなことは ないけど……」
「なら、信じろ。氷河はおまえが好きなんだ。これまでずっと好きだった。今も もちろん好きでいる。俺と星矢が保証する」
「う……うん……」
うぬぼれることの下手な瞬は、紫龍にそこまで言われても、完全に迷いを払拭できたわけではなかった。
何といっても瞬は、自分は氷河に好意を持たれていると思い上がっていた天狗の鼻をへし折られたばかりだったのだ。
が、だからといって仲間の言葉を疑うこともできない瞬は、『白鳥座の聖闘士はアンドロメダ座の聖闘士を好きでいる』と力説する紫龍に、心許なげに頷き返した。

仲間への信頼振りが 今ひとつ頼りない瞬の様子を見て、紫龍が その説得に本腰を入れ始める。
もっともらしい鹿爪顔で、彼は、瞬が知らない単語を持ち出してきた。
「世の中には、ハガル・サラ・コンプレックスというのがある。旧約聖書のアブラハムの妻サラと愛人のハガルから来た言葉なんだが、まあ、簡単に言えば、“愛しているのに触れられない恋人”と“愛していないが肉欲の対象になる恋人”に分けて、人に接する性癖のことだ」
「ハガル・サラ・コンプレックス?」
初めて聞く言葉を そのまま反復した瞬に、紫龍は重々しく頷き返した。
「もっと端的に言うと、恋を、聖女に対する精神愛と 娼婦に対する欲望に分ける男のことだな。娼婦には平気で接することができるが、本当に愛している人は聖女のように崇め奉るばかりで触れることができない。自分が その人に触れることは、その人を汚すことだと考えてしまうわけだ。ある意味 臆病というか、勇気がないというか――。氷河は そういう病気にかかってしまったのかもしれない」

龍座の聖闘士が言葉を重ねるほどに不安の色を濃くしていく瞬の心を和らげるために、紫龍は その顔に微笑を浮かべ、今度は首を横に振った。
「おまえのせいではないぞ。もちろん、それはハーデスが余計なことを言ってくれたせいだ。実際、それ以前の氷河は、臆病どころか、おまえに対して かなり積極的だったんだから」
「あの氷河が臆病になってるってのも、今いち信じられない話だけどさ。それなら、瞬が氷河に色っぽく迫っていけばいいだけの話なんじゃねーのか? 氷河だって男なんだし、好きな子に隙だらけで しなだれかかられたら、すぐに その気になるだろ」
二人のうちの一方が臆病になっているのなら、もう一方が大胆になるしかない。
星矢の意見は、これ以上ないほど理に適ったものだったのだが、星矢に そう言われて、瞬は いたたまれない気持ちになった。
自分は氷河に好意を抱かれていると信じていた頃――ほんの数日前――、実は瞬は既に その試みを試み済みだったのだ。

「ぼ……僕、氷河の前で それらしく振舞ってみたんだよ。氷河が腰掛けてたソファの横に座って、また二人でどっかに行きたいねって言ってみたんだ。ちょっとだけ、氷河の腕に指で触ってみたりとかして。でも、氷河は、キヨラカな僕がそんなこと考えるはずがないって思い込んでるらしくって、具合いが悪いのかって訊かれただけだった……」
あの時は、そう思った。
すべては、ハーデスの“清らか”発言のせいなのだと。
だから、氷河は、アンドロメダ座の聖闘士が 何を求め、何を期待して そんな振舞いに及んだのかを わかってくれなかったのだと。
今では 瞬は、その考えに まるで自信が持てなくなってしまっていたが。
単に自分が氷河に嫌われてしまっただけなのではないかという懸念に囚われ始めていたが。

しかし、星矢は、瞬の その報告を聞いて、瞬とは異なる見解を示してきた。
彼は、それを瞬の力不足だと考えたらしい。
「それってさー、単に おまえの色気が足りなかっただけなんじゃないのか」
露骨に 馬鹿にしたように言われて、瞬は少し――ほんの少しだけ、意地になったのである。
語調を強めて、瞬は星矢への反駁に及んだ。
「ぼ……僕、僕なりに頑張ったんだよ! 誰かに甘えるってこんな感じなのかなあ――って。でも、氷河は全然 わかってくれなくて……。だから、僕は、それを ハーデスが変なこと言ったせいだと思って、ハーデスを嫌いに――」
必死に仲間に訴えているうちに、またしても弱気の虫が瞬の中に生まれてくる。
ハーデスを嫌いになど なるのではなかった――と、瞬は思ったのである。
もし それが、ハーデスの“地上で最も清らか”発言のせいではなく、アンドロメダ座の聖闘士自身の鈍感のせいだったなら、そもそも 自分にはハーデスを嫌いになる理由がない――その必要も 資格も 権利もなかったのだ――と。

人が 人を嫌うことに理由はいらず、その権利や資格の有無を考える必要はないのかもしれないが、そうであったとしても、人に嫌われることは こんなにも つらい。
自分は氷河に嫌われているかもしれないと思うだけでも、こんなにも苦しい。
安易に(?)ハーデスを嫌いになった自分を、瞬は傲慢で愚かな人間だと思った。
自分の鈍感を棚に上げ――棚に上げるどころか 気付きもせず――氷河の態度の変化をハーデスのせいにして 彼を嫌うなど、傲慢・浅慮以外の何物でもない行為だと。






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