「そっかあ……。おまえなりに頑張ってはみたのか……」
すがるような目で仲間を見上げてくる瞬の前で、星矢は しみじみした口調で呟くことになったのである。
瞬は、どちらかというと『甘えよう』と意識していない方が上手く甘えられるタイプの人間なのかもしれない。
“なるべく自然に、さりげなく、少々 甘えるように、だが 図々しく思われることのないよう加減して”。
そんなことを自分に言い聞かせ、気を張って氷河に迫っていった瞬は、“不自然を極め、わざとらしく、甘えるどころか、遠慮しすぎているように”見えたに違いない。
氷河の前で さりげなく甘えようとして がちがちに緊張している瞬の様子が、目に浮かぶ。
その様を思い浮かべて、星矢は 思わず苦笑いを浮かべてしまいそうになったのである。
瞬の泣きそうな眼差しに出会って、星矢は慌てて自分の表情を引き締めた。

いずれにしても、瞬は、瞬にできることをしたのだ。
瞬なりに頑張って、自分に できることはした――既に、し終えた。
その結果が現在の ありさまだというのなら、問題を打破する策は 別の方向から考えなければならない。
「ってなったらさあ。これって もう、氷河に動いてもらわなきゃ、どうにもならないってことじゃないか? 瞬は もう、瞬にできることはして、氷河に手をのばしてみせたんだろ。その手を取るかどうかは、氷河にしか決められないことだし……。それにやっぱ、これって、氷河が 奴の意思で、奴自身の臆病を振り払って 瞬の手を掴むんでないと、意味がないことみたいな気がするぜ?」

それが、星矢が辿り着いた結論だった。
瞬が瞬なりに懸命に勇気を奮い起こして 自分にできることをし終えたのなら、あとは、氷河の対応次第だというのが。
星矢が辿り着いた結論には、紫龍も異議はないらしい。
僅かに唇を歪めて、彼は 星矢と瞬に頷いてみせた。
「そうだな。星矢の言う通りだ。しかし、これは まるで『狭き門』のジェロームとアリサだな」
「何だよ、それ。『狭き門』のジャムとアサリ?」
「ジャムでもアサリでもない。ジェロームとアリサだ。『狭き門』を知らんのか」
星矢に問われた紫龍が、それを知らないという仲間に、軽蔑とまではいかないが、困ったような顔をして反問する。
素直に『知らない』と答えるのが癪だった星矢は口をとがらせ、軽く顎をしゃくった。

「言葉の意味くらいはわかるぜ。あれだろ。日本の城とかで、敵が一斉に攻め込んでこれないように、わざと門を狭く造ることだろ。門に続く道も狭くして、曲がりくねらせるんだよな。敵軍の隊列を細く長くして、脇から攻撃しやすいように」
「……まあ、聖闘士としては、そちらの方が重要な知識かもしれないが、ノーベル文学賞受賞者の作品だぞ。概要くらいは――」
そう言われても、知らないものは知らないのだ。
星矢にとって それは知らないことが当たりまえの情報で、その当たりまえの情報を知らないことを非常識と非難された星矢は、露骨に ふてくさった顔になった。
困惑顔の紫龍と、仏頂面の星矢。
そんな二人を執り成すように 彼等の間に入っていくのは、瞬の役目だった。

「え……と、確か、アンドレ・ジッドの書いた小説だよね? 僕も その作品は読んだことはないけど……。でも、『狭き門』は、聖書にあったような気がする。ルカ伝? それとも、マタイの福音書だったかな」
「原典はそれだ。『力を尽くして、狭き門から入れ』『命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見い出す者は稀である』。要するに、神の国への門は狭い。人は簡単には くぐれない。神の国に入りたかったら、常に清らかであれ、力の限り 己れの清廉潔白を守れ――ということだな」
「門は狭いから、清らかでいろ? 毎日 門周りの掃除をしろって話かよ」
聖書の警句を持ち出されて ますます訳がわからない顔になった星矢のために、紫龍が『狭き門』のあらすじを語り始める。
それが 星矢の好むような冒険譚でないことはわかっていたので、紫龍の語る内容は、細かいところを かなり はしょったものになった。

「主役は、父を失って、母親と共に伯母の家に身を寄せることになったジェロームという名の青年だ。彼は、そこで出会った 敬虔かつ清らかな従姉のアリサに恋心を抱き、アリサもまたジェロームを愛するようになる。だが、アリサを 絶対的な“徳”の化身として崇拝し、自分もそれに近付こうと努力するジェロームは、アリサの気持ちに気付かない。清らかなアリサが、そんな俗っぽい恋に囚われることがあるはずがないと思い込んでいるわけだ。そんなジェロームを待ち続けることに 心身共に疲れたアリサは修道院に入り、そこで死んでしまう。アリサの死後、彼女の日記で、ジェロームは、アリサが本当はジェロームを愛していたこと、彼女が地上と天国、神と人の間で苦悩していたことを知り、打ちひしがれる――とまあ、そんな話だな。ジェロームがアリサに対して ほんの少し積極的に出ていたら、二人は結ばれていたのに、アリサの清らかさを崇拝するあまり、ジェロームは実る恋を散らせてしまったわけだ」

紫龍は、『狭き門』のあらすじを語り終える前から、星矢の感想がどんなものになるのか わかっていた。
案の定の感想が、星矢から返ってくる。
「うっわ。読んだら、すげー いらいらしそー。なんだよ、つまり、両思いの二人が いじいじしてて、いじいじしたまま、アンハッピーで終わる話かよ。詰まんねー」
実に星矢らしく端的かつ率直な感想。
あまりに星矢らしすぎて、紫龍は逆に楽しくなってしまったのである。
彼は その顔に苦笑じみた笑みを浮かべた。
「ジェロームを愛しながら、彼を狭き門をくぐれない人間にすることを恐れ、アリサは行動に出ることができない。ジェロームはジェロームで、アリサを愛しながら、清らかなアリサばかりを見て 生身の人間としてのアリサを見ることをせず、いかなる行動も起こさない。いじいじした二人が いじいじ うじうじしたまま終わる話。プロテスタント的な徳や清らかさを讃えた物語として読むこともできることはできるが――彼等が狭き門をくぐることができたのか、できたとして 彼等は幸福だったのか。俺には何とも言えないな。瞬、おまえはどう思う」

神の国に至る門は狭く、その門をくぐるためには、人は善良・清らかであらねばならない。
愛する人を汚し、愛する人から その門をくぐる資格を奪うようなことはできないと考えて、自分の愛と心を犠牲にし、かけがえのない青春を不幸に歪めてしまった恋人たち。
“地上で最も清らか”というお墨付きを神から与えられ、自己犠牲を 自らの得意技としている瞬は、はたして この清らかな恋物語を どう見るのか。
紫龍は、その物語への瞬の感想には 大いに興味があったが、星矢の感想同様、瞬のそれがどんなものになるのかも、彼は聞く前からわかっていた。
案の定の感想が、瞬から返ってくる。
「僕、そういうの、否定するわけじゃないけど――どうして狭き門なんだろう。絶望の門や滅びに通じる門なら狭い方がいいけど、神に至る門や幸福に通じる門は絶対に広い方がいいのに。そうすれば、みんなが手をつないでくぐれるのに」

瞬の言う“みんな”は、仲間内だけのことではなく、人間全部を指している。
実に、瞬らしい感想。
察していた通りの瞬の感想を聞かされて、紫龍の口許は自然にほころんだ。
「俺も全く同感だ。ところが、作中で アリサは、神に至る門、真の幸福に至る門は、二人並んで通ることもできないほど狭いと言っている。氷河も一応クリスチャンなわけだし、その点では氷河もアリサと同じ考えでいるのではないか。“みんな”どころか、神の愛と真の幸福に至る門をくぐれるのは おまえ一人だけと思い込んでいそうだぞ、氷河は」
「一人なんて寂しいじゃない。僕一人でしか くぐれないような門なんか、僕、くぐりたくないよ。くぐったって、その先に楽しいことなんかなさそうだし。氷河は本気でそんなこと考えてるの……」

選ばれた ごく少数の清らかな人間だけに くぐることが許され、その先には 神の愛と祝福が待っているはずの狭き門。
その門の向こうに 楽しいことはなさそうだと言ってのける瞬が、その脳裏に思い描く幸福とは どんなものなのか。
考えるだけで、紫龍は楽しい気持ちになった。
「考えていそうだな。おまえは神に選ばれた特別な存在なのだと。実際、そうだったわけだし。ハーデスは おまえを選んだ」
「ハーデスは、何か ひどい勘違いをしていただけだよ。僕はハーデスに利用されて地上世界を滅ぼす手伝いなんかしたくないし、僕一人だけ幸せになるなんて、絶対に嫌だ」
きっぱりと言い切る瞬に、いっそ紫龍は快哉を叫びたくなってしまったのである。
『氷河、聞いているか』と。
今 ここで そんなことを声高に告げるわれにはいかなかったので、紫龍は懸命に沈黙を守ったが。

紫龍同様、瞬の感想に気をよくしたらしい星矢が、狭き門を逆走して、瞬に尋ねる。
「だよなー。ま、そんな門のことなんかどうでもいいけどさ。で、単刀直入に訊くけど、おまえ、氷河とそういうことになってもいいのか。その気があるのか? 地上で いちばんの清らかさんのおまえが?」
「星矢まで、なに言い出したの。僕が いちばんのはずないでしょう。個人差はあるかもしれないけど、人は みんな清らかな心を持ってるし、だから、みんなで広い門をくぐるべきなんだよ。ううん、いっそ門なんか作らず、みんなが自由に入れるように、広場にすればいいんだ。そこで、みんなで幸せになるの」
「みんなで幸せに、か。実に おまえらしいな」
「だって、僕たちアテナの聖闘士は、そのために戦ってるんだよ。みんなが幸せになれるように」
「特に氷河が幸せになるように?」
少し からかいの気味のある口調で、紫龍は瞬に尋ねた。
からかわれていることに気付いているのか いないのか、瞬が真顔で仲間に頷き返してくる。

「だって、氷河は――氷河は、大切な人をたくさん なくしてきて、なのに、自分の運命を呪ったり恨んだりせずに、アテナの聖闘士として 世界の平和のために戦い続けてるんだ。氷河は、幸せになっていい人、いちばんに幸せになるべき人だよ。僕は、僕が少しでも 氷河が幸せになるための力になれたら、すごく嬉しいだろうって思うの。氷河の幸せそうな笑顔を見たいの」
「それで、おまえも幸せになれる?」
「幸せな人は、僕を幸せにしてくれるよ」

もちろん、そうだろう。
瞬の言う通りなのに違いない。
少なくとも、瞬の幸福は、それ・・で できているのだ。
氷河と“みんな”の幸せで。
だから、星矢と紫龍は、瞬を幸福にするために、瞬を励ましてやったのである。
「決して希望を捨てるんじゃないぞ。きっと、氷河も いつかは おまえの気持ちに気付いてくれるさ」
と、そう言って。






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