結局、俺の弟は誰なのか 結論に至れないまま、24時間経過。
火時計の火が すべて消えた聖域、アテナ神殿、玉座の間。
俺は、四人の弟候補たちと共に、自称女神と ひどい寝癖の男の前に立つことになった。
冥府の王ハーデスの髪には、確かに ものすごい寝癖がついていた。
寝癖――寝癖なんだろうな、やはり。
無重力空間で髪が四方八方に跳ね上がっている状態というか、100万ボルトの電流を身体に流された人間の髪が派手に逆立っている ありさまというか、そんなふうだ。
この男に『すごい寝癖だな』と言うことの何がまずいんだろう。
それは ただの事実で、悪口でも非難でもない。
まあ、名誉棄損の罪は、それが事実でも成立するそうだが。

なんて、のんきなことばかりを考えていられなくなったんだ、まもなく俺は。
この奇天烈な髪の男に記憶を奪われたせいで、現在の俺の認識では、初めて会う冥府の王。
俺は、本音を言えば、寝癖を指摘されたくらいのことで いちいち腹を立てるような小物が 世界滅亡の計画を実行に移せるなんて、本気で 信じてはいなかった。
そんな力が人間に備わっているはずがないと思っていたんだ。
自称神は 自称神にすぎない――と。
だが。
その寝癖男は、陽光が射し込むアテナ神殿の玉座の間に姿を現わすと、『紫外線は肌に悪い』と ふざけたことを言って、辺りを暗くしてしまったんだ。
突然 世界が薄闇に包まれたことに驚いた俺たちが、いったい何が起こったのかと奴に問うと、グレイテスト・エクリップスではなく――惑星ではなく衛星(つまり、月)を動かして 日食を起こしただけだと、寝癖男は 事もなげに言いやがった。

俺は その時初めて、ハーデスの世界滅亡計画が冗談でも誇大妄想狂の虚言でもないことを知ったんだ。
ハーデスは、本気でこの世界を滅ぼそうとしていて、その力も持っているんだと。
そのあたりの認識は、星矢たちも俺と似たり寄ったりだったんだろう。
一人の男の弟が誰なのか わかるかどうか。
そんなゲームの結末が本当に この世界の存亡を左右するなんて馬鹿げた話、誰だって冗談だと思うに決まっている。
だが、俺たちは今、それが冗談でも何でもないことを知らされた。
俺の弟候補たちの顔は――あの氷河でさえ――今は真っ青になっていた。
いちばん青ざめていたのは、やはり この俺だったろうが。

ところで、人間というものは、窮地に立った時にこそ 真の胆力、真の豪胆が発揮されるようにできている。
俺たちの中で最も肝が据わっている男。
それは、実に意外なことに、どこの女の子より可愛い顔をした瞬その人だった。
俺の青ざめた頬を見て――というより、見ていられなくなったのか、瞬は 人智を超えた力を持つ冥府の王ハーデスに、正面から意見してくれたんだ。
「僕は、多くの人の命がかかっている こんな重大なことを、運が左右する賭けで決めるべきではないと思います。みんなが力を尽くして戦って敗れるならまだしも、重い責任を一輝さん一人に負わせるなんて、あまりに酷なことだとは思いませんか。僕だって、自分が生きている世界の危機に何もできず、ただ手をこまねいていることしかできないなんて無念です。微力でも、せめて抵抗する意思くらいは示したい」
「瞬……」

控えめで大人しく優しくて穏やかで花のような姿をした瞬が、星を動かす力さえ持つ神と、臆することなく向き合い、対決している。
その決然とした横顔、強い意思を秘めた瞳。
こんな時、こんな場面だというのに、俺は うっとりと瞬に見とれていた。
無論、非力で小さな人間の言葉など、ハーデスはまともに取り合う素振りも見せず、奴は、健気な瞬の言を一笑に付してしまったが。
「抵抗の意思を示す? 余と戦うとでもいうのか、そなたは、その細腕で」
「そうしなければならないのなら。でも、できれば僕は 地上世界を確実に守りたい。どうすれば無謀な計画をやめてくださいますか」
「そなたが余のものになったら」

ハーデスは、瞬の問い掛けに、ほとんど間を置かずに即答してきた。
それで、俺は気付いたんだ。
ハーデスの目的は、最初から 瞬を手に入れることだったんじゃないかと。
そのために、この寝癖男は、決して正解に辿り着けない難問を俺に課したんじゃないかと。
この瞬を手に入れるためなら、誰だって――神でも人間でも――それくらいのことはするだろう。
俺は そう思った。

「瞬が貴様のものになったらだとっ! 何を言い出したんだ、この助平野郎!」
何があっても、どんなことをしても、瞬を手に入れたいのはハーデスだけではない。
瞬を他の誰にも渡したくないらしい金髪男が、冥府の王に向かって噛みついていく。
「ふん」
助平野郎は、他の助平野郎に 自身の助平振りを非難されても、痛くも痒くもないらしい。
氷河の怒声を、ハーデスは鼻で笑ってみせた。
いきり立つ氷河を、瞬が落ち着いた声で制する。

「氷河さん、そんなに興奮しないで落ち着いて。彼は、本気で この世界を守りたいのなら、自分の命をかけろと言っているんでしょう」
瞬。
この絶体絶命の緊迫した場面で冷静さを保っていられるのは、本当に立派なことだ。
実に見上げた振舞いだ。
だが、おまえのその敵への敬意を失わない解釈は 間違っている。
こればかりは氷河の方が正しい。
その寝癖男は、ただの助平野郎だ。

人間は、他者を自分の価値観で測り、判断するものだ。
高潔で清らかな価値観の持ち主である瞬は、ハーデスみたいな助平野郎をも、己れの価値観で測り、それゆえ 奴を突き動かしているものが助平心だということに気付かないんだ――気付かずにいる。
そうして、高潔で清らかな瞬は、助平野郎のハーデスに、高潔で清らかな交換条件を提示した。
「僕が僕の命を あなたに差し出したら、本当に地上を滅ぼすような無謀な計画を実行に移さないと約束してくださいますか」
「しよう」
助平な寝癖男が、助平な目をして、おもむろに瞬に頷く。
もう一人の助平男は、悲鳴をあげた。
「やめろ、瞬! こんな馬鹿げた髪をしている ふざけた男が、約束なんて守るはずがないだろう!」
「下賤な人間ごときが何を言う。余は神だぞ。神の約束は必ず守られる」
「なら、差し上げます。僕の命」

その“命”には、おまえの“身体”も含まれているんだ。
瞬、なぜ気付かないんだ。
いったい、どこのド阿呆だ。
瞬を、こんな清らか一辺倒な人間に育てた無責任野郎は。
そいつが育て方を間違ったせいで、瞬がヘンタイ助平寝癖野郎の毒牙にかかろうとしているんだぞ!
ええい、くそっ。
怒りが激しすぎて、声が出ない。
誰だ。瞬を こんな他人の邪気のわからない欠陥人間に育てた大馬鹿野郎はっ。






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