世俗世界のあちこちで権力闘争や宗教戦争が絶えることがないように、地上世界そのものの存続と支配権を決する神々の世界においても、争いは絶えることがない。
ハーデスが眠りに就いている時には、その隙を衝いて、地上世界を我が物にしようと考える邪神や妖魔の類が現われる。
ハーデスとの聖戦に比べれば、それは小競り合いといってもいいようなものなのだが、それらの戦いが命がけのものであることに変わりはない。
聖域と聖闘士たちの戦いは続き、瞬もまた アテナの聖闘士としての戦いを戦い続けていた――生きて、戦い続けていた。

「瞬の奴、頑張ってるのはわかるんだけど――時々 意識が飛ぶんだよな。戦いの最中でも、多分 氷河のこと思い出して」
「あの二人はコンビで戦うことが多かったですから。瞬が隙を作ってしまった時には 氷河がカバーし、氷河が攻撃している時には 瞬が氷河のバックアップに入る。そういう戦い方が身についているので、戦いの中で氷河がいないことに ふと気付くことがあった時に、瞬は呆然としてしまうんでしょう」
「こっちが びっくりするくらい隙だらけになるよな。戦場で、昼寝の途中で叩き起こされた子供みたいに きょとんとして」
「緊張感が続かないんです。あれでは、瞬は早晩 戦いの中で命を落としてしまう。――そんなことは考えたくはないんですが……」

「そう……」
星矢と紫龍の報告を聞いて、アテナは顔を曇らせた。
「氷河を失って、この上 瞬まで失うわけにはいかないわ。ハーデスとの聖戦のない、いってみればオフシーズンとはいえ、だからこそ 地上世界の覇権を狙う勢力は次々に現れるし、今 聖域に聖闘士は15名もいない……」
アテナは できることなら、瞬の傷付いた心が癒されるまで、瞬を戦いから遠ざけるくらいのことはしたかったのだろう。
だが。
瞬という一人の人間と、地上世界で生きている すべての人々。
世界の平和と安寧を守るために命をかけて戦うアテナの聖闘士と、その戦いによって守られている多くの人々。
その どちらをも失うわけにはいかない――というのが、地上の守護者たる女神の立場。
そして、戦いの外に 瞬が立ち直るための場所があるとは考えにくい現実、現状――。
アテナが、瞬の仲間たちに小さな白い花を託したのは、その2日後のことだった。


星矢と紫龍は、アテナに託された白い花を、以前 氷河と瞬が二人で住んでいた聖域の外れにある小さな家に持参したのである。
ままごと遊びの家のような――以前は、聖域の中に こんな場所があっていいのかと呆れるほど のんびりした、幸福の吹き溜まりのようだった氷河と瞬の家。
それが、今は 孤独と悲しみだけが巣食う場所になっていた。
一人でここにいるよりはと考えたアテナが、アテナ神殿の中に部屋を用意すると幾度か瞬に言ったのだが、瞬は頑として その家を出ようとしなかった。
おそらくは、人の出入りの多い神殿より、この小さな家の方が 一人で泣くのに都合がいいから。

家具も 窓から入り込む陽光も すべてが以前のままだというのに、いつのまにか そこは死人の家になってしまっていた。
そう感じざるを得ないから――本当は よくないことだとわかっているのに、星矢は アテナから託された白い花を瞬の家の木の卓の上に置くことを ためらってはいられなかったのである。
「これは? これも忘れな草かな」
羊皮紙に包まれた白い花を見て、瞬は そう尋ねてきた。
笑顔――とても虚ろな笑顔で。

形は 忘れな草と そっくり同じもの――形だけは全く同じもの――と、星矢たちはアテナから説明を受けていた。
忘れまいとすることと 忘れること、忘れないことと 忘れようとすること。
それらは表裏一体のことで、だから二つの花は同じ形をしているのだと。
「これは その逆の花なんだ。忘れ草。アテナが忘却の女神レーテーに頼んで手に入れてくれた。この花の花びらを水の入った容器に浮かべて、忘れたい人のことを思い浮かべて飲めば、そいつのことを忘れられる。そういう花だ」
「え……?」

そんなものを、アテナは なぜ わざわざ他の神に頼んでまで 手に入れることをしたのか。
アテナの真意を測りかねたのだろう。
瞬は その瞳を大きく見開いた。
とはいえ、それがアテナ以外の誰かによって用意されたものであったなら、瞬は その真意を訝ったりはしなかっただろう。
それは、死んだ人を忘れて元気になってほしいという、浅はかな優しさから出たことなのだと、すぐに理解していたに違いない。
おそらく、それがアテナによって用意されたものだと聞かされたから、瞬は困惑しているのだ。
それはそうだろうと、星矢と紫龍も思った。

「アテナは、本当はこんなことしたくなさそうだった。それって 卑怯っていうか、弱さっていうか――本当なら、人に課せられる試練は 自分の力で乗り越えなければにならないってのが、アテナの考えだからな。でも、今のまま 腑抜けてたら、おまえ、バトルの最中に死んじまいかねないだろ。だから、特別に――」
「忘れ草……? 氷河を忘れるための……?」
「氷河だって、忘れろって 言ってたんだしさ。おまえに忘れられても、氷河は怒ったりしないさ」
「氷河は、自分を好きだからこそ――忘れたくても忘れられないからこそ、おまえは自分を忘れようとしたのだと思ってくれるだろう」
「星矢……紫龍……」

自分がアテナや仲間たちに心配をかけていることには、瞬も気付いていただろう。
そして、そのことを心苦しく思ってもいたに違いない。
だが、瞬は、アテナや仲間たちがアンドロメダ座の聖闘士を案じる気持ちが、ここまで深刻なものだとは考えていなかったようだった。
そこまで自分が心許なく覚束ない状態にあることを、瞬はまるで自覚していなかった――のだ。
「そう……僕、そんなに危なっかしいの……」
そう呟いて、瞬が、見るからに恐る恐るといったていで、テーブルの上に置かれた白い花に手をのばしていく。
『僕は大丈夫だよ』と、『こんな花に頼らなくても』と虚勢を張るかと思っていた瞬は、だが、星矢たちが気抜けするほど素直に、
「うん……ありがとう」
と言って、その花を胸に抱いたのだった。


翌日から、瞬は見違えるように明るくなった。
瞬が忘れ草の花に頼ったのは、仲間の心配を消し去るためだということがわかるから、そのために 瞬は氷河を忘れる決意をしたのだということがわかるから、星矢と紫龍は そんな瞬が痛ましく、瞬の決意に心苦しさも感じていた。
だが、おそらく これで瞬の命は守られる――。
屈託のない笑顔と、隙のない戦い方を見せてくれるようになった瞬は、瞬の仲間たちの心を安んじさせることになった。






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