氷河が聖域に帰ってきたのは、それから まもなく――といっても、彼が満身創痍の状態でドナウの流れに その身を任せてから50日以上が経った ある日のことだった。 氷河は生きていた――のだ。 聖域の入り口に現れた白鳥座の聖闘士の姿を見て、星矢と紫龍は まず驚いた。 そして、仲間の生還を喜んだ。 その喜びは、長くは続かなかったが。 足を引きずっているところを見ると、骨が折れて動けない状態が長かったのだろう 氷河は、一人の女性を伴って聖域に帰ってきた。 「何だよ、あのねーちゃんは」 「ああ、彼女は ベルタという。インゴルシュタットの流域で、俺を川から拾い上げて、怪我の手当てをしてくれたんだ。何とか歩けるようになって聖域に戻ると言ったら、家を捨てて俺についてきた」 「ついてきた……って、一般人を聖域に連れてくんなよ! どっかで振り切ればよかっただろ」 「無茶を言うな。俺は 脚の骨が折れて、未だに普通の人間と同じ速さでしか歩けない状態なんだ。振り切るのは到底 無理だった。インゴルシュタットから聖域に辿り着くまで3週間かかったんだぞ」 聖域からシュヴァルツヴァルトまで、聖闘士の足で2日。 ドナウの下流インゴルシュタットまでなら、1日強あれば着くことができる。 その行程に3週間を要したというのなら、氷河の足は今は一般人のそれと大差のない状態にあるということになる。 そんな状態でも、氷河は聖域に1日でも早く帰ってきたかったのだろう。 彼には帰らなければならない事情があった。 氷河の気持ちは、星矢にも紫龍にもわからないではなかった――むしろ、わかりすぎるほど よくわかったのだが――。 「美人だな。おまえ、まさか、あのねーちゃんと変な関係になったりしてないだろうな」 「下種の勘繰りはやめろ。確かに美人だし、親切でもあるが、俺より10は年上だし――彼女は どこか普通じゃないんだ」 「30過ぎくらいか。普通じゃない――というのは?」 「どこがどうとは言えないんだが、とにかく奇妙なんだ。浮世離れしているというか、生きている感じがしないというか……。結局 ここまでついてきてしまったが、彼女のことはアテナがどうにかしてくれるだろう。とにかく、俺には瞬がいる。俺は瞬ひとりだけだ」 「……」 その名を出された途端、星矢と紫龍は 氷河の不行跡を疑うどころではなくなった。 「瞬は元気でいるか」 「それは……」 瞬は おまえのことなど すっかり忘れてしまっている――とは言いにくい。 言わずにおけることではないが、張り切って報告できることでもない。 仲間たちが言い淀む様を見て、氷河の眉が曇る。 それでも、彼の懸念は 現実より はるかに楽観的なものだった。 「まさか、いまだに泣き暮らしているというんじゃ――」 今となっては その方がよかった――と思う。 星矢と紫龍は、心から そう思った。 結局、彼等は、自分の口で その事実を氷河に告げることができず、訝る氷河を引っ張って、瞬の姿を見ることができる場所まで 彼を連れていったのである。 夏の夕刻近く。 その日、その時、瞬は 食事の準備をする女たちのために、炊事場の脇にある井戸で水汲みの仕事を手伝ってやっていた。 生まれて この方 一度も悲しい思いをしたことのない子供のように明るい笑顔を浮かべて。 「瞬……?」 決して、毎日 泣き暮らしていてほしいと思っていたわけではない。 瞬ならば、悲しみに打ちのめされることなく、悲しみに耐え、乗り越え、強く生きていてくれるだろうと信じてもいた。 だが、屈託のまるでない あの笑顔。 この 異様なほどの明るさは どうしたことか――。 瞬の恋人が生きて 瞬の側にいる時にも、瞬はここまで ただ明るいだけの人間ではなかった。 瞬の変貌の訳がわからず、ぽかんとしている氷河に、星矢は大きく、そして深く頭を下げた。 「氷河、すまんっ」 「これはいったい……」 「すまんっ。瞬は――瞬は おまえのことを憶えていないんだ」 「憶えていない?」 「俺が無理矢理 忘れさせた」 「忘れさせた――とは……」 星矢が その罪を一人でかぶろうとしていることに気付いた紫龍が、慌てて氷河に事情を説明する。 「忘れさせたのは星矢ではない。俺もそうすることを是とした。アテナも このことは知っている。……おまえを失ってから、瞬は自失することが多くなって――敵との戦闘中にも放心状態に陥ることが多くなって――あのままにしておくと、瞬は遠からず戦場で命を落とすことになると、俺たちは思ったんだ。瞬を死なせないために、アテナが忘却の女神から 特定の人間を忘れることのできる花を手に入れてくれて、瞬は その花の力を使って、おまえのことを忘れた。すまん。俺たちは、瞬を死なせるわけにはいかなかった。今の瞬は おまえのことをすべて忘れている。おまえを知らない。すまん。俺たちが軽率だった」 「瞬が、俺を忘れた……?」 それはもちろん、氷河には衝撃的なことだった。 喜べることではなかった。 信じることができず、呆然とした。 だが、星矢と紫龍の全身を包む 深い後悔と自責の念。 彼等は、瞬を死なせたくなかった。 瞬を死なせないために そうしたのだということがわかるから――氷河は その現実を受け入れないわけにはいかなかったのである。 「恰好をつけて……瞬に『忘れろ』と言ったのは俺だ」 そう言って、氷河は、恋人を失って以前より明るくなった瞬の笑顔を受け入れるしかなかった。 |