アテナは、それを星矢たちに命じたのは自分だと、氷河に告げた。
氷河は、その花の力を使うことを決めたのは瞬の意思だと、アテナに答えた。
そして、ベルタを自分の恩人だと アテナに紹介し、彼女にとって よいようにしてほしいと、アテナに頼んだ。
その場に立ち会った星矢と紫龍は、氷河が瞬のことで取り乱さなかったことに安堵し、そして、『ベルタに よいように』という、あまりにも漠然とした氷河の願いに、少々 呆れたのである。
『よいようにしてくれ』などという無責任かつ丸投げの願いは、願われた方も何をすればいいのか わからないではないか――と。

氷河の願いに戸惑うかと思われたアテナは、だが、全く動じる気配を見せなかった。
より正確に言えば、氷河の(ある意味、いい加減な)願いには、全く動じた様子を見せなかった。
つまり、アテナは、ベルタという一人の女性に対しては、少なからず驚くことをしたのである。
「あなた、普通の人間ではないわね」
「普通の人間です。少なくとも、あなたよりは」
世俗世界で生きていた一般人には、そもそも この聖域という場所自体が奇異なものであり、その聖域を統べる女神の存在は 更に奇異――怯え恐れても不思議ではない存在――のはずだった。
だが、ベルタは、聖域の女神に怯みもせず、アテナと正面から渡り合っている。
そんな二人を見て、星矢と紫龍は、『確かにベルタは“普通の人間”ではない』と思うことになったのである。
ベルタが“普通の人間”ではないという指摘に、その場で最も遅れた反応を示したのは、彼女を この聖域に連れてきた氷河その人だった。

「ベルタが普通の人間じゃない? それはどういうことだ。まさか 俺は 邪神を聖域の中に引き入れてしまったのか?」
氷河は、本当に、勝手に彼に ついてきた人間を 勝手にさせておいただけだったらしい。
この段になって初めて、自分の命の恩人が何者なのかということを真面目に考え始めたような氷河の様子に、星矢と紫龍は 深い溜め息を洩らしてしまったのである。
いったい この男が、瞬以外の人間に気合いを入れて興味を持つことはあるのだろうかと。

「いいえ、普通の人間なのだけれど……」
アテナが僅かに その眉根を寄せたのは、突然 聖域に舞い込んできた一人の一般人の中に邪悪を見たから――ではないようだった。
「ともかく、私の聖闘士がお世話になりました。あなたのご親切に 心から感謝します。聖域にも、お好きなだけ滞在してください。無責任な言い方ですけど、いずれ あなたのよいようにしてさしあげることができる日が くるかもしれません」
氷河の願いより更に漠然とした歓迎の辞を述べて、アテナがベルタに にこやかに微笑んだところを見ると。
氷河が聖域に招き入れた一般人が邪悪の徒でないこと――たとえ邪悪の徒だったとしても、その邪悪を形にできるだけの強い力を持ってはいないこと――は、星矢たちにも感じ取れていた。
となれば、今 青銅聖闘士たちが解決しなければならない最大の問題は、氷河と瞬の恋の行方――ということになる。

「それより、アテナ。瞬に 氷河のことを思い出させる方法はないのか? 忘れ草の力を消し去る、それこそ、忘れな草みたいな――」
「あります」
「そっか……やっぱ、そんな都合のいい便利なものは……え?」
人が自分の欲しいものを手に入れようとする時、そこに“欲しいもの”の価値に匹敵する大きな障害や試練が現われるのは ごく自然で当然のこと。
欲しいものを手にするために、人は死力を尽くして戦わなければならない。
それを人生の常識と思い込んでいた星矢は、瞬の記憶を取り戻すためには相当の困難を乗り越えなければならないだろうと決めつけていた――アテナの口から ごくあっさりと、『(瞬の記憶を取り戻す方法は)あります』などという答えが返ってくることがあろうとは思ってもいなかった。
ゆえに星矢は、氷河の仲間たちは まず その方法を探し出すところから始めなければならないだろうと思い込み、一人で勝手に落胆していたのである。
アテナの返事が自分の考えていたものと違っていることに(かなり遅れて)気付くや、星矢は またしても一人で勝手に色めきたった。

「あ……あるのかっ、瞬の記憶を取り戻す方法が !? 」
「ええ」
悲しいまでに 試練というものに慣れてしまっているらしい星矢に、アテナは少々複雑な表情をして頷いてきた。
「アテナイの北西、ボイオーティアのトロフォニウスの聖地に、忘却の女神レーテーが司る忘却の川、記憶の女神ムネモシュネーが司る記憶の川が並行して流れている谷があるの。忘却の女神レーテーの忘れ草で失われた記憶を取り戻すには、忘れられてしまった人間当人が その聖地に行って、記憶の神ムネモシュネーから 記憶の花を分けてもらえばいいのよ」
「へえ。便利なもんがあるんだな!」
人生と人世は 意外に安直かつ単純にできているものなのかもしれない。
明るく声を弾ませた星矢の前で、だが 今度はアテナの方が憂い顔になった。

「問題は、記憶の女神が素直に 記憶の花を分けてくれるかどうかということで――」
「どういうことだよ? 忘れ草は すぐ分けてもらえたんだろ?」
「それは――忘却の女神は 忘却を司る女神ですもの。忘却を歓迎するから、すぐに忘れ草を分けてくれるわ。でも、記憶の女神は 記憶を司る女神。彼女が司る記憶を手放したものには厳しいのよ。自分をないがしろにされたと感じてしまうらしくて――」
「気位の高い女神サマかぁ……。なんか、扱いが厄介そうだな……」

やはり、ある一つの願いの実現には 相応の試練が つきものであるらしい。
しかも、今回 アテナの聖闘士たちの前に立ちはだかる試練は、誇りを傷付けられて臍を曲げている我儘な女神の機嫌を取り、なだめすかして、彼女の曲がった臍を真っすぐにすること。
そんな試練を、我儘では人後に落ちない白鳥座の聖闘士に 乗り越えることができるのか――むしろ、氷河は そんな試練に挑む気になってくれるのか。
星矢は、それを案じたのである。
しかし、その心配は杞憂だった。
氷河にとって それは、万難を排し、是を非にしても 叶えなければならない望みだったらしい。
彼は、即座にその試練(というより厄介事)に挑む決意をしたようだった。

「瞬に、俺のことを忘れろと言ったのは俺だ。今になって、思い出してほしいと願っているのも俺自身。記憶の花を取ってくるのは、俺の義務だろう」
「ええ、でもね……」
「記憶の花を取ってくるのは俺の義務だが、それを飲むかどうかを決めるのは瞬の意思だ。わかっている」
「氷河……」
アテナが憂えていたのは、気位の高い女神の機嫌取りが氷河にできるのかということではなく、記憶の花を手に入れたあとの氷河の心構えの方だったらしい。
氷河に その認識と覚悟があるのなら、彼女は氷河に対して 意見をするつもりはないようだった。

「ボイオーティアなら、アテナイの目と鼻の先。今の俺の足でも1日あれば十分に着けるだろう。明日にでも向かうことにする」
失われた瞬の記憶を取り戻すことができるのなら、我儘な女神の前に頭を下げるくらいのことは試練でも屈辱でもない。
彼の女神と仲間たちに、そういう顔を向けて、氷河は宣言した。






【next】