翌日早朝、氷河は、トロフォニウスの聖地に向かう前に、瞬と暮らしていた家の近くまで足を運んだのである。
出掛ける前に 瞬の顔を一目でも見ることができたならと考えて。
幸い、氷河は そこで望むものを見ることができた。
まだ夜が明けたばかりだというのに、瞬の許には来客があったらしく、その来客の見送りのために、瞬が戸口まで出てきていたのである。
来客は、ベルタ――自分が聖域まで連れてきたようなものなのに、氷河自身がすっかり その存在を忘れてしまっていた“普通の人間”――だった。

瞬が家の扉を閉じると、氷河はすぐにベルタを掴まえ、彼女が瞬に近付いていった訳を問い質したのである。
ベルタが 住み慣れた家と国を捨てて聖域にやってきた目的は何だったのか。
氷河は、今になってやっと、その訳を真剣に考え始めていた。
「おまえが瞬に何の用があるというんだ! 瞬に 余計なことは言っていないだろうな!」
険しい声と顔で、ほとんど怒鳴りつけるように詰問した氷河に、ベルタは含みのある微笑を返してきた。
「新入りの下働きが、初めての聖域で迷子になった振りをして、家に入れてもらったの。綺麗で素直で優しくて、誰にでも好かれそうな子ね。冷たい水が飲みたいと言ったら、汲み置きがあったのに、わざわざ泉まで汲みに行ってくれたわ」
「……」

妙に棘のある言い方――である。
親切にしてもらったのに、なぜ彼女は こんなに不愉快そうに ぎすぎすしているのか。
彼女の態度と口調に、氷河は――氷河こそが不快になった。
ベルタが、そんな氷河に蔑むような一瞥を投げてくる。
「あの子は、あなたのことを忘れて、楽になろうとしたんでしょう? そんな人のために、危険を冒すことはないわ。足の怪我もまだ全快したというわけではないのに」
「瞬は、自分が楽になるために そんなことをしたりはしない。おそらく 皆に心配をかけないため、聖闘士としての務めを果たすため、もしかしたら自分が幸福になることを諦めて、瞬は俺を忘れることを選んだんだ」
「ずいぶんな信頼だこと。人は誰だって、自分が幸せになることしか考えないものよ」
「瞬は違う」
「違うものですか」
「……」

氷河は、ベルタを、変わったところはあるにしても、世話好きの親切な女だと思っていた。
そのベルタが、今日初めて出会ったばかりの瞬に、どう見ても敵愾心としか思えないものを抱いている。
瞬は基本的に人に好かれるタイプの人間だった。
瞬を嫌い憎むのは、大抵の場合、瞬の素直さや清らかさが癇に障り 反発するタイプ――言ってみれば、我儘で ひねくれた人間である。
氷河は眉をひそめた。
ベルタは そういうタイプの人間ではないように、氷河の目には見えていたから。

「君が瀕死の俺を助けたのは、君が幸せになるためか? 死にかけていて、へたをすれば、俺の死体という厄介なものを しょい込むだけだったかもしれないのに」
「目の前で人が一人、死にかけていたのよ。自分の得とか損とか、そういうことは問題じゃないでしょう」
「そういうことだ。人は自分の幸せだけを考えて生きているものじゃない。まして瞬は――瞬は、自分のためではなく、この世界に生きる多くの人間の平和と安寧を守るために命をかけて戦うアテナの聖闘士。そのアテナの聖闘士の中でも最も清らかで強く、人々の幸福を守るために我が身を犠牲にすることも厭わないアンドロメダの聖闘士だ」
「……」

ベルタは徹底した ひねくれ者というわけではなかったらしく、氷河の その言葉に更に反駁を重ねるようなことはしなかった。
それで瞬への敵愾心を完全に消し去ったようでもないようだったが、それきり彼女は黙り込んでしまった。
そんなベルタの態度を訝りつつ、だが、氷河は そのまま、記憶の女神がいるというボイオーティアのトロフォニウスの聖地に向かったのである。
瞬に、忘れたことを思い出してもらいたい。
今 氷河の心を支配している何よりも強い思いは、それだったから。






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