ボイオーティアのトロフォニウスの聖地。 忘却の女神レーテーが司る忘却の川と、記憶の女神ムネモシュネーが司る記憶の川が流れる地。 そこには、これが本当に乾いた石灰岩と大理石の聖域から歩いて半日のところにある場所なのかと疑わずにいられないほど豊かな緑で覆われた光景が広がっていた。 土が露出している箇所を探すのが困難なほど 緑の草が密生した平地に、成人した男子を5人並べたほどの幅を持つ2本の川が並行して静かに流れている。 2本の川の脇には、岩肌が露出した断崖がそびえていて、ここが確かに渓谷であることを示していたが、谷底に当たる場所の幅が広いため、その2つの川を谷川と意識することは困難。 切り立った崖に守られた緑の花園。 トロフォニウスの聖地は、そんな場所だった。 記憶の女神は、その名を呼ぶと、すぐに姿を現わしてくれた。 若い女にも、年老いた老婆にも見える不思議な女神。 顔立ちに似たところはないのだが、氷河は、その女神の姿が どこかベルタに似ている――と感じたのである。 彼女は、アテナが言っていた通り、氷河の望みを聞くと あからさまに不機嫌そうな顔になった。 「アテナに貸しを作ることは、そう悪いことではないけれど……そうだね。記憶の花、おまえにくれてやらないこともないよ。1輪だけなら」 「1輪で十分だ」 それは記憶の女神には快い願いではないはずなのに――実際、記憶の女神は 氷河に対してにこりともせず、優しさも温かさも感じられない目を向けていたのだが――彼女は、気が抜けるほど あっさりと、氷河の目の前に 忘れな草に似た青い花を取り出してみせた。 その花を白鳥座の聖闘士に手渡す前に、何か意想外の出来事が起こるのか、実現の難しい条件をつけてくるのではないかと 戦々恐々していた氷河の手に、記憶の女神が記憶の花を1輪だけ載せてくる。 本当に、このまま この花を受け取ってしまっていいのか、何かとんでもない どんでん返しがあるのではないか――。 氷河は、どうしても不機嫌な女神への不信感を払拭してしまうことができなかったのである。 そんな氷河に、記憶の女神は、ふっと 微笑(のようなもの)を浮かべてみせた。 そして、 「2輪 必要なのではないか」 と尋ねてくる。 「2輪?」 反射的に問い返した氷河への女神の答えは、 「おまえについてきた その女にも、思い出したい記憶があるようだ」 というもの。 「なに?」 記憶の女神の意地の悪い笑みを訝りながら、氷河は 女神が目で示した方を振り返ったのである。 そこに、いつのまに来ていたのか、ベルタの姿があった。 ベルタは、凍りついたような無表情をしていた。 普通の人間なのに、普通ではない人間。 記憶の女神は、ベルタについて何かを知っているのだろうか。 訊けば、記憶の女神は ベルタの謎を教えてくれるのだろうか。 訊くだけは訊いてみようと考えた氷河が、女神の立つ記憶の川の岸辺に視線を戻す。 だが、その時には既に、緑のトロフォニウスの聖地から 記憶の女神の姿は消えてしまっていた。 |