「昔……おそらく何か忘れたいことがあって、私も忘れ草の力に頼ったのよ」
なぜ ついてきたのだと氷河が問う前に、ベルタは彼女の事情を語り始めていた。
「……」
普通の人間だが、普通の人間ではない。
氷河やアテナがそう感じることになったのは、彼女が忘却の女神に関わり、その力の影響下にあったせいだったらしい。
現在 欧州を席捲している新興宗教の唯一神ではなく、それより はるかに古い自然に根ざした神々の力。
であればこそ、彼女は、家も故国も捨てて、アテナの許に戻らなければならないという氷河について聖域まで やってきたのだろう。
古代の神の支配する場所でなら 何かを得られるかもしれない――“よいように”してもらえるかもしれないと考えて。
奇妙に思えるベルタの行動には、そういう事情があったものらしかった。

「忘れてしまったことを 思い出したいのか?」
「当たりまえよ。記憶がないばかりに、私は根なし草だわ」
「……」
やはり、記憶の女神は親切な女神ではなかったらしい。
記憶の花が2輪 必要になることを知った上で、彼女は氷河に青い花を分けてくれたのだ。
1輪だけ。

二人が二人でいた頃のことを 瞬に思い出してもらえれば、自分は あの幸福な日々と、優しい人の愛を取り戻すことができる。
二人で過ごした時間、交わした言葉、互いに庇い合いながら駆け抜けてきた幾多の戦い、そうして培われてきた愛と信頼。
愛情や信頼というものは、時間が育むもの、時間をかけて育てるしかないものである。
『欲しい』と言っても すぐに手に入るものではないし、一度 消えてしまったら、神殿を修復するように 以前と同じ状態に戻すこともできない。
それは、取り戻すことでしか復元できないもの。
新たに作り出そうとしても、完全に以前と同じ状態にすることはできないものなのだ。

氷河は 取り戻したかった。
互いの癖や性格や価値観を知り尽くし、その上で変化成長しながら培ってきた、二人の細やかな愛情、絶対の信頼――。
もちろん、氷河は取り戻したかった。
だが――。
「この花は、おまえにやろう」
氷河は そう言って、記憶の女神がくれた1輪だけの花をベルタに手渡すしかなかったのである。
もちろん、瞬の愛を取り戻したい。
だが、それ以上に――ベルタは運命に導かれて、今 ここにやってきたのだと思うから。

「あの子を諦めるの」
「諦めるのは思い出だけだ。俺は――もう一度 瞬に愛してもらえるように、一から頑張ってみるさ」
完全に同じものは取り戻せない。
そもそも もう一度 瞬に愛してもらえるようになるかどうかもわからない。
氷河は不安だった。
もちろん、不安だった。
氷河のその不安を見てとったのだろう。
ベルタは、瞳だけで寂しげに笑い、その首を横に振った。

「無理しないで。私はいいのよ。私は、失った記憶を取り戻しても 幸せになれるかどうかわからない。でも、あなたは あの子に思い出してもらえたら、確実に幸せになれるでしょう」
ベルタは やはり、天邪鬼でも ひねくれ者でもなく、人の心を思い遣ることのできる親切な、ごく普通の人間だったらしい。
氷河は、ベルタの手に記憶の花を握らせた。
「これは俺を助けてくれた君への、心ばかりの礼だ。俺は俺の力で瞬を取り戻す。最初から、そうするべきだった。なに、瞬が俺を忘れていても、俺は瞬を憶えているからな。瞬の弱点は知り尽くしている。どうすれば瞬の心を俺に向けることができるのかも承知している」

未練がましいことをしたくなかった氷河は そう言って、半ば強引に その場で――記憶の川の水でベルタに記憶の花の力を使わせてしまった。
記憶の花は、すぐに己れが為すべきことをしたのだろう――ベルタが失っていた記憶を、彼女の許に運んできた。
ベルタが、その瞳から涙をあふれさせ始める。
自ら望んで忘れ去った記憶なのだから、それが楽しい記憶であるはずがない。
そう察してはいたのだが――察していたからこそ、氷河には、彼女の涙の訳は尋ねにくいものだった。
とはいえ、それは訊かずに済ませられることでもなかったが。
「ベルタ。そんなに悲しい思い出だったのか?」
氷河に涙の訳を問われたベルタが、縦にとも横にともなく首を振る。
そして、彼女は、彼女が取り戻した記憶の内容を氷河に語り始めた。

「私には、ルドルフという名の恋人がいたの。ドイツ騎士団の騎士だった」
「ドイツ騎士団のルドルフ?」
どこかで聞いたことのある名である。
氷河は すぐに、それが誰の名だったのかを思い出した。
瞬の唇が発した言葉は一字一句洩らさずに憶えている――それは、追従ついしょうや おべんちゃらではなく、ただの事実だった。
氷河は もちろん憶えていた。
それは、瞬に教えてもらった、忘れな草に“忘れな草”の名を与えた ドジで思い遣りに欠ける男の名だった。

「私たちは、とても愛し合っていたわ。ある日、ルドルフは ドナウの岸辺で とても綺麗な青い花を見付けて――私に取ってやろうと言って 誤って川に落ちてしまったの。彼はその時 甲冑を身にまとっていて、私の力ではどうにもならなかった。『俺を忘れないでくれ』と私に言い残し、彼はドナウの川に引き込まれていった。私は、舟人を水の中に引き込むライン川の妖精が ドナウにまでやってきたのかと思ったわ」
それは、瞬に聞いた通りの忘れな草の伝説だった。
我知らず呆けてしまった氷河に、ベルタが言葉を重ねる。
「その花が まだ名前を持っていなかった頃のことよ」
では やはり、ベルタは伝説の恋人たちの片割れであるらしい。
3、400年も昔から言い伝えられてきた伝説の。

「私は約束を守り、彼を忘れなかった。でも、忘れないことは苦しくて――いいえ、私は、ルドルフを忘れられないのか、忘れてはならないと思っているだけなのか、それすらわからないことが 苦しかった。その苦しみに耐えられなくなって、私は どうか すべてを忘れさせてくれと神に祈ったの。彼を忘れないという約束から私を解放してくれと。私の祈りに応えてくれたのは、忘却の女神レーテーだった。彼女は私に忘れ草をくれた」
ベルタが彼女の記憶を手放したのは せいぜい ここ10年の内のことなのだろうと、氷河は思っていた。
だが、そうではなかったらしい。
普通の人間なのに、普通の人間ではないベルタ。
彼女は、見た目通りの年齢の人間ではなかったのだ。

「そうして、私はルドルフのことを忘れたの。でも幸福にはなれなかった。そして、私は死ねない人間になった」
「死ねない人間? なぜだ」
「だって――死んで、あの人のところに行って、『私はあなたを忘れました。私は あなたのことを知りません』なんて言えないでしょう。私はルドルフのことは忘れたけど、誰かとの大切な約束を破ったことは憶えていて――神というのは意地悪ね。神の力なんかに頼った私が悪いのだけど」
「……」
それは、だが、致し方のないことである。
世俗世界にいる神は、人間が創り出した理想の神。
全知全能にして、判断を過たず、公平無私。
そんな神しか知らなかった彼女が、意地悪で依怙贔屓の激しい、どこまでも人間的なギリシャの神に出会ってしまったのだ。
冷静妥当な判断などできるわけがない。

「私は、私と同じ選択をした あなたの瞬さんが許せなくて……。ごめんなさい。意地悪を言ったわね。あなたの瞬さんは、澄んで、とても綺麗な目をしていた。あなたが恋に落ちるのも当然のことだと思ったわ」
「――」
ベルタが瞬を非難したのは、自分自身を責めるためだったらしい。
たった一度の ささやかな過ちが生んだ300年の苦しみ。
そして、おそらく、同じ長さの孤独。
自分と同じ過ちを犯した瞬に、彼女は 腹立ちと もどかしさを覚えずにはいられなかったのだろう。
氷河は彼女を責める気にはなれなかった。
もし彼女のしたことを瞬が知っても、瞬は彼女を責めることはしないだろうと思えるから。
何より、悪いのは彼女ではない。
彼女に瞬を非難させるようなことをさせたのは、ドジで思い遣りに欠けた彼女の恋人なのだ。

「何百年も耐えなくても――ルドルフはきっと君を許してくれたと思うぞ。君に忘れるなと言った自分こそが愚かだったのだと、そいつも きっとすぐに気付いたはずだ。真性の馬鹿でないのなら」
「これから あの人のところに行って、確かめるわ」
「確かめる?」
いったいどうやって? と尋ねようとした氷河は、その時になって初めて気付いた。
ベルタの身体が消えかけている――いつのまにか、ベルタの手足は透き通り、既に輪郭を残すだけの状態になっていた。
本当なら、300年も昔に消え去っていたはずの彼女の肉体。
失われた記憶を取り戻した彼女は、やっと死ぬことができるようになったのだ。

「ええ。やっと思い出すことができたのですもの。ルドルフに会って、白黒をつけることにするわ」
「ははは」
ドジで思い遣りに欠けたベルタの恋人に、少々 同情の念が湧いてくる。
苦笑した氷河に、ベルタは心配そうな目を向けてきた。
彼女は ほとんど消えかけている。
「あなたは大丈夫?」
「アテナの聖闘士は希望の闘士。諦めが悪いのが取りえなんだ」
氷河がベルタに そう答えた時、記憶の川の岸辺に残っていたのは、白鳥座の聖闘士と ベルタの微笑の感じ・・だけだった。






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