人類の真理






「まず、有名なところでは、月桂樹になった テッサリアの河神ペーネイオスの娘ダフネ。死んで、ヒアシンスの花になったヒュアキントス。鴉の讒言に騙されて、自ら射殺した ラーリッサの領主の娘コロニス。最終的にミュケーナイのアガメムノンのものになったトロイア王プリアモスの娘カッサンドラ。ひまわりになった ニュムペーのクリュティエー。そのクリュティエーの奸計によって命を落とした ペルシア王オルカモスの娘レウコトエー。ああ、それから、糸杉になった ケオス島のキュパリッソスもそうだな」

紫龍が並べ立てた名前に、星矢は呆れ果てていた。
より正確に言うなら、並べ立てるほどの数の名前があることに、呆れ果てていた。
「それ、みんな そうなのかよ」
「皆、そうだ」
「でも、アポロンって、一応 大神ゼウスの息子で、古代ギリシャでは理想の青年像とか言われるくらいの美形ってことになってる神サマなんだろ」
「美形だからといって その恋が必ずしも うまくいくとは限らないことを、全身全霊で証明しているような神だな、アポロンは」

紫龍が並べ立てた男女の名は、オリュンポス12神の1柱アポロンの恋人だった者たちの名だった。
そして、大神ゼウスの息子にして音楽・医術の神であるアポロンの恋は、そのすべてが悲恋で終わっている。
そんなアポロンの名を冠した花園。
聖域の西に“アポロンの野”と呼ばれる花園があることを 瞬が知ったのは、つい昨日のことだった。

その野は、元々は アポロンの恋人の化身と言われる月桂樹と糸杉の木が並んで立っていたために そう呼ばれるようになったらしい。
2本の木の周囲には冥界のエリシオンさながらに花が咲き乱れ、一面 見渡す限りが美しい花園になっている――という話だった。
石灰岩の大地の上にあるアテナイ近郊では 人の手の入らない自然の花園というものの存在自体が そもそも非常に稀で、当然 その野原は 周辺の人々の憩いの場となっても何の不思議もない場所なのだが、実際には その野原に近付く人間は皆無。
特に若い男女は、その野原に決して近付かない。
なぜなら、その野には、『アポロンの野で出会った二人は必ず恋に落ちるのだが、その恋は アポロンの恋にならって、必ず悲恋に終わる』という伝説があるから。――なのだそうだった。

「でもさ、そんなの、ただの迷信だろ」
「さて……。アポロンは気位の高い神だ。たとえ 元々は人間たちが作った迷信にすぎなかったとしても、その迷信を恐れずに 自分の名を冠した野に近付いた者を失恋させることくらいは、あの神なら やりかねないような気もするが」
「ああ。確かに、あいつなら、それくらいのことは平気でするかもなー。自分が失恋しまくったからって、んなことするのは、ひでー 八つ当たりだけど。アポロンが失恋しまくったのって、要するに アポロン自身の性格に問題があったからだろ?」
「ははは」
紫龍は慎重に、星矢の その発言へのコメントを避けた。
そして、同様の慎重さを瞬にも求める。

「だが、まあ、そういうことだから、あの花園には近付かない方が賢明だぞ、瞬」
「ん……うん……」
アテナの聖闘士の中では比較的(星矢や氷河に比べれば はるかに)慎重と評されることの多い瞬が、今日に限って“よい子の返事”を渋る。
何といっても、“アテナの聖闘士の中では比較的 慎重な”瞬が アポロンの野に行きたいと言い出したのには、それ相応の理由が――必要性が――あってのことだったのだ。
「でも、そこになら、薔薇の花が何種類も咲いてるって聞いたんだ……」
「なんで急に薔薇の花が欲しくなったんだよ」
「それは――」

それは、今日が氷河の亡くなった母親の誕生日だからだった。
昨年は この日は日本にいたので、城戸邸の庭の薔薇を飾って故人を偲ぶことができたのだが、今年は この日を聖域で迎えることになってしまった。
命日や母の日は 鮮やかな薔薇の花は飾りにくいが、誕生日なら 多少の華やかさも許されるだろう。
瞬は、毎年 この日は、氷河には その意図を告げず、氷河の目に付くところに薔薇の花を飾ることにしていた。
瞬は、できれば その恒例の行事を途切れさせたくなかったのだ

「その薔薇、何に使うのかは知らねーけど、双魚宮の薔薇じゃ駄目なのかよ? 世話する奴がいなくなったって、あそこにも薔薇の木は残ってるんだろ?」
「え」
双魚宮の薔薇園にも、もちろん薔薇の木はある。
美しい花をつけている強い木も、確かにあった。
だが――。

アテナ神殿のファサード、仲間たちから少し離れたアプローチ階段の大理石の手摺りに身体をもたせかけるようにして立っている氷河の上に、瞬はちらりと視線を投げた。
この場合、問題なのは、一度はアテナの聖闘士の敵だった者の手になる花を母のために飾られることを氷河がよしとするか否か、なのである。
瞬は その花を氷河の母のために飾るのだということを氷河に知らせるつもりはなかったが、その事実を もし氷河が知ってしまうようなことがあった時、彼は かつての敵に愛でられた花たちを 何のわだかまりもなく喜んでくれるだろうか。
瞬には、その可能性は 極めて低いように思われた。

「僕……ロイヤルデモンローズだの ピラニアンローズだの、そんな名前をつけられた花を飾りたくはないよ」
「ま、確かに あそこの花は、飾って喜ぶような花じゃないよな。思い出したくないことを思い出しちまうし」
それが どこに、何のために飾られる花なのかも知らないはずの星矢が、瞬の その答えに得心した顔になる。
不吉な名を冠したアフロディーテの薔薇が、飾り愛でるための花として ふさわしいものではないことだけは、瞬の事情を知らない星矢にも同感できることだったらしい。
星矢は、だからといって、アフロディーテより更に激しく敵対し合った神の名を持つ野に咲く花を、悲恋の当事者になる危険を冒してまで取りに行くことなら許容範囲内――と考えているわけでもないようだったが。

「でも、悲恋の伝説のある野原なんかで誰かに会っちまったら、ろくなことにならないだろ。やめといた方がいいと思うぞ。それが単なる迷信にすぎなくてもさ」
「うん……」
星矢が懸念しているのは、その野で出会った二人が必ず悲恋の当事者になるという伝説そのものより、やはり その野に冠された名を持つ神の悪意の方だっただろう。
その気持ちもわかるから、瞬は素直に 星矢の忠告に頷き返したのである。
その時、その場では。

悲恋の伝説を恐れて誰も足を踏み入れない場所であれば、そこで誰かに出会うこともないだろう。
要するに、そこで誰かに出会いさえしなければ、悲恋が生まれることはないのだ。
そして、薔薇の花は、今日どうしても必要なもの。
結局、瞬は、その日の午後、仲間たちの目を盗み、仲間たちには内緒で、こっそりアポロンの野に向かった――向かってしまったのだった。






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